「音楽がこれからの社会で必要となる哲学的理由」

私が大学生の頃、哲学の授業で

『「本当の自分」や、自分自身のかけがえのなさは、他者との交わりの中にある。』

というようなことを習い、

『そうかなぁ?他者の影響を強く受けたら、自分を見失ってしまうんじゃないかな?』と思っていたんですが、この間、音大生と話しているときに

「例えば百人で合唱や合奏をしていたとしても、その中の一人は百分の一ではないんです。一人抜けるだけで全体の印象が全く変わってしまいますから、一人は全体であり、その意味ではソロの演奏と変わらないんです。演奏をすると、ソロでも合唱・合奏でも自分のかけがえのなさを感じることが出来ます。」

というのを聴いて『大学時代に習ったことはこういうことかもしれない。』と、ちょっと感動しました。

おそらく、純粋に物理現象として音楽を捉えると、百人の中の一人の演奏の影響は少ないのでしょう。しかし、今まで一緒に頑張ってきた仲間として、お互いをかけがえのない存在として認め合い、心を支え合いながら演奏している場合、「一人抜ける」ということが全体に大きな影響を及ぼすのではないでしょうか?

さて、現代社会では人工知能やロボットの研究開発がどんどん進んでいるので、近い将来、人間にできる仕事は全てロボットにも出来るようになるのではないか?人間を雇うよりロボットを買った方が安い時代がくるのではないか?と思えてきます。

(人工知能やロボットをメンテナンスしたりする仕事は人間がすることになるでしょうけど、そういったことを専門に行う会社に頼めば、それ以外の会社では人間を雇う必要はなくなります。)

ひょっとすると、ロボットを働かせて大儲けした資本家から税金を大量にとって、失業した大多数の人達の生活費を支給することになるんじゃないか…と恐ろしくなったりもします。

もしそうなったら、お金の問題よりも『いくらでも作れるロボットにとって代わられた自分には、生きている価値や意味があるのだろうか?自分は本当にかけがえのない存在だろうか?』と悩む人が増えることの方が、より大きな問題になるんじゃないかと私は思います。

そんな時、音楽をすると『ロボットの演奏者は、いくらでも取り換え可能であり、百体のロボットのうちの一体は、百分の一の存在にすぎない。しかし、人間の私はそうではない。私はかけがえのない存在として、みんなに認められており、たとえ私と同じ演奏が出来るロボットが作られても、私の代わりにはなり得ない。』と感じられるのではないでしょうか?

音楽は、未来の社会で、多くの人を救うかもしれません(*^_^*)

追記:音楽以外でも『お互いをかけがえのない存在として認め合うこと』がある活動なら何でも良いかもしれません。

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