見出し画像

凡庸な悪と性善説

あまり気持ちのいい性格ではないかもしれないけど、僕には幼少期から先天性の身体的特徴によるものを大人に怒られてきた過去があるからなのか、理不尽や不条理への激しい嫌悪と冷たい社会への反抗心が今も根強く残っている。

理不尽を理不尽だと自認しながら行うような、いじめっ子気質の子どもが振るう暴力や無茶な要求に関しては特別な恨みはない。あくまで子どもだし、僕にも理不尽さはもちろんあったし、正当なことだと周りに認知されることもないので、暴力に打ち克つ強さが自分にあれば解決する話だからだ。嫌な思いをするのは自分が弱いから悪いんだ、と割り切って考えていたし強さへの憧れを抱くキッカケの一つになっているかもしれないのである意味感謝している。また、自分の腕力を頼りに理不尽を通そうとする姿勢は清々しくもあり、フェアな態度でもあると思った。
というかみんなそうじゃないかな。意見を通せそうな弱くて大人しい子には様々な要求をして、強くてワガママな子には遠慮してお伺いを立てるような振る舞いは誰にも心当たりがあると思う。

ただ、理不尽な行いや不条理な判断、個性への無配慮を平然とする大人は、自分のしてることが正しいと信じ込んでいた。僕の姿勢や態度を怒った大人たちは別に法を犯すような悪人ではないことは僕も気がついていた。あいつらはただ、自らを善人だと信じ、社会規範には疑うことなく盲従し、マジョリティから外れた人間こそを悪だと認知して批判する権威主義的パーソナリティが強いだけの取るに足らない連中だった。

ユダヤ人哲学者ハンナ・アレントは著書『エルサレムのアイヒマン』の中でこう述べている。

思考していないことは、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威をたくましくすることがあるということ――これが事実エルサレムにおいて学び得た教訓であった。

自分で考える責任を回避した瞬間、凡庸な悪が生まれる。これは庶民としては耳が痛い教訓だ。
20世紀最悪の犯罪でもあるホロコーストの責任者アイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アレントは、アイヒマンの陳腐な人物像に衝撃を受けたという。世間が考えてるような極悪人ではなく凡庸な小役人的人物であったと印象を語っている。
アイヒマンはナチスの狂信者でなければ極端な人種差別主義者でも、大量殺戮に快楽を得る猟奇的人物でもなく、家に帰れば良き父親であったらしい。また、愚かなわけではなく優秀な人物であり、組織の中での出世欲と上からの命令を卒なくこなす合理性があった。多くの歴史学者が言うには、もしアイヒマンをはじめとするホロコースト実行者たちが熱心な反ユダヤ主義者であったらあれほど冷静で合理的に、迅速に大量の殺人を実行することは不可能だったとされる。
全体主義と思考の欠如、権威主義的パーソナリティこそがアイヒマンを史上最悪の行為へと突き動かした。

ハンナ・アレントは決してアイヒマンの行為に情状酌量の余地があると言うわけではない。選択権のある立場にいる以上、服従と支持は同一で「上に従っただけ」という言い訳は通らない。
ただ、アイヒマンは我々庶民と生まれながらに違う生粋の悪ではなかった。あの最悪の犯罪を行ったのは我々と同じ平凡な人間であったことは認識しなくてはならない。
考えることを放棄して社会や企業の言いなりになっていては誰しも間違いを犯す可能性がある。理解せぬ遵法意識は時代と国境が変われば簡単に悪になる。

思考をやめた時、人間はいとも簡単に残虐な行為を行う。悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る

ハンナ・アレント

先天的な斜視を抑えるために首を左に傾けて人の話を聞いていた子どもの僕の態度を一喝した憎き小学校教師は、あの日の自分の行いに一切の罪悪感を持たず一片の記憶も残さずに今日もどこかで生きているのだろう。
……死んでいて欲しいな。不幸な死を遂げていて欲しい(笑)

斜視が発覚した時の文章はこちら

自分を棚に上げる気はないし、自戒を込めて常に考えていかなければいけないテーマだと思うけど、凡庸な悪についてはたくさんの心当たりがある。

ペットショップでは「ペットの家族を早く決めてあげよう」との理念のもとに、動物好きの若いアルバイトの女の子までが嘘八百のセールストークと抱っこさせ商法を駆使して販売熱心なセールスマンになっていた。嘘を嗜める人は誰もおらず、売れば売るだけ給料が入って周囲からも褒められる場所では、動物を愛する気持ちと動物をあの手この手で売る顔とが両立していた。

また、話し合いになれば凝り固まった常識だけを振り翳して自分の頭でなにも考えない人間が権威と民意を盲従して少数派を弾圧しにかかる。

権威主義的パーソナリティについてはこちら

いやー、怒ってんね(笑)
僕はエニアグラムによると因習を打破する気質らしいから、なにも考えないで常識やら規則やらと宣う奴らがよっぽど気に食わないんだろう。

環境次第で誰しもが凡庸な悪になり得る。
そうならないためには自分の頭で考え続けなければいけない。幅広い知識と教養を身につけて、多様な思想に触れて多角的な視点を持って、権威に阿らず立場を顧みず、自立した思考をしなければいけない。

***

最近、性善説について知ったことがある。
性善説とは儒教の教えに由来する孟子が唱えた思想で、人間の本性は善であるという説なんだけど、性善説を唱えた孟子は中国で初めて革命の思想を明らかにしたことでも知られている。
革命とは王朝が滅ぼされ新たな王朝が誕生することであり、時の王が臣下に打ち倒されて起こることも多い。
斉の宣王は孟子に「臣下の身分で君主を殺すことが道義的に許されるのか?」と問うと、「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない王に反抗してそれを殺すのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった」と答えたのが革命論だとされる。
つまり孟子は革命推進派で、人間は生まれながらに善の心を持ち善悪を判断する能力があるのだから、悪虐非道の限りを尽くす王を倒すことは善であるとして、暴力を肯定し民衆の蜂起を煽ったとも取れる。
なんだか、とても綺麗な考え方に思えていた性善説だけど打算と戦略性に富んだ政策の一環にも思えてきた。たとえ性善説であろうと、考察なしに信じることは凡庸な悪へと変わる危険性があるように感じる。吉田松陰も「聖賢に阿るな」と語っている。偉大な人物であれ高尚な思想であれ、その威光に気圧されて阿る精神で接しては思想の根幹に触れることはできない。

性善説については僕も心情としては信じたい。生まれてくること、スクスクと育つこと、人を愛すること、人の自然な営みを肯定したい。
けれど人間の業の深さにはなんとも言えない気持ちになる。人類史を学ぶほどに人間の悪行ばかりが気になって仕方がない。
ドードーもリョコウバトもステラーカイギュウもこの目で見たかった。(現生人類に滅ぼされたかどうかは定かじゃないけど)ネアンデルタール人ともフローレス人とも他のホモ属とも会ってみたかった。先住民迫害や黒人奴隷、魔女狩りに異端審問にホロコーストと、人類が犯してきた罪は重い。それら全て、一部の極悪人による所業ではなく大勢の民衆が加担して行われたものだという事実は受け入れなければならない。我々現代人だけが聡明で間違いを犯さないなどと言えるはずもない。

考えなければいけない。本当に今の社会倫理は正しいのか。愛玩動物に惜しみない愛情を注ぐ心優しい人が口にしてる肉はどんな飼育環境で育てられたのか。本当に肉を食べることが健康のために不可欠なのか。愛玩動物と畜産動物はいったいなにが違うのか。
闘犬や闘牛には拒絶反応を示すのに釣りや競馬は楽しめる感覚に認知バイアスはかかってないのか。畜産牛に若者がふざけて石を投げる動画が拡散されて大炎上したけど、屠殺や無麻酔去勢に抵抗感がないのはなぜなのか。「仕方ない」は本当に仕方ないのだろうか。
今もヴィーガンには数多くの無知な批判の声が上がる。その批判精神は誰かのプロパガンダで作られたものだと疑わないのだろうか。

葛藤するのは苦しい。模索するよりも答えが欲しい。しかしそれではより良い未来は作れないのだと、改めて思う。

サポートしていただくと泣いて喜びます! そしてたくさん書き続けることができますので何卒ご支援をよろしくお願い致します。