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多様性という、便利な言葉。

昨夜から読み始めた本が、ものすごく、ものすごく面白い。

何が面白いかは実際に読んでもらいたいのだが、主に子どもを通じて筆者が体験した現代の多様性について綴られ、しかもそれは日本の外での出来事なので非常に面白い。3月から英会話を始めることも相まって、海外の文化や慣習を垣間見た気がする。

色々な考え方、生き方がある、それを総じて多様性と定義づけることが増えてきたように思う。久々にウィキペディアから引用してみよう。

多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。 英語の多様性"diversity"の語源は、ラテン語ではdiverstiasに求められ、この言葉は、最初には、一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致、といった消極的な意味を有したが、第二義的に、相違、多様、様々な形になる、という意味も併せ持っていた。17世紀になって、消極的な意味が失われ、現在のニュアンスになったとされている。また、diversityとは、相異なる要素を有する、もしくはそれから構成される状態であり、そこから更に、異なったタイプの人々をあるグループや組織に包摂すること、とされている

多様性とは、読んで字の如くではある。ただ、最近自分が薄々と感じているのは、この多様性という三文字を都合良く持ち出し、向き合うべき問題を無視し放置する傾向が増えてきているのでは、ということだ。

日常生活において、様々な人との接点を持つ。コ口ナ禍においてはリアルな接点を持つことは激減したが、それでも生活をしている以上は他者との繋がりを断つことは事実上、不可能だ。

奥様(あえて敬称)と、毎日の出来事について報告しあう。仕事のこと、趣味のこと、幼稚園や小学校のこと、地域のこと。その中で、稀に明らかに常軌を逸した出来事に遭遇することがある。

そんな時、なんとなく自分の中では腫れ物触れず、君子危に近寄らずに近い心理で、多様性という言葉を引き出している自分に気づいた。つまり、そういう人もいるよね。色々な考え方があるからさ。という便利な処理方法である。

自身に実被害が及んでいない場合は殊更その傾向が強く、議論したり検証するという思考回路が即停止することが多い。つまり、面倒臭いということで片付けられている。それは果たして建設的なのだろうか、むしろ退廃的なのではと懸念する。

アパートの共有部にゴミを溜める。約束した仕事の納期を守らない。すれ違っても挨拶ができない。打ち合わせ中に何かを食べている。法定速度を守らない。枚挙に暇がない。

色々な人がいるよね。そんな一言で他者との関わりを無意識的に、それでいて積極的に放棄しているのが、多様性という言葉の功罪なのかもしれない。

とまぁ、久々にきちんと自分なりに考えて文章を打ち込んだが、やはり本でインプットしないとアウトプットできないな、これは。もっと本読もう、本。ではまた明日お会いしましょう。


読書好きが高じて書くことも好きになりました。Instagramのアカウントは、kentaro7826 です。引き続きよろしくお願い申し上げます。