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神さまと生きるために知ってほしいこと 7章 キリストのからだとして生きる

クリスチャンになった私たちにとって、本当に大切なのはどのような生き方なのか、聖書にはこのように記されています。

「すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」(ルカ 10:27)」

そこでこの章では、 「神を愛する」ことと、「人を愛する」ことについて、詳しくお話ししていきたいと思います。

1. 神さまを愛する

私たちは、神さまへの愛をどの様に表現することができるでしょう?
多くの教会では、教会で奉仕し、礼拝することだと説明されます。

礼拝によって神さまを愛する

―考えてみましょうー
礼拝とはどんなものだと思いますか? 自分の言葉で表現してみましょう。



多くの方がイメージする礼拝とは、日曜日に教会に集まり、賛美をしたり、お話を聞いたり、礼典を行う姿だったのではないでしょうか?
もちろん、そのようにして礼拝をしても構わないのですが、「それが礼拝のあるべき姿だ」と思ってしまうと、本質的な部分を見失ってしまうかもしれません。
このnoteではあえて、一度そのような礼拝のスタイルを脇に置いたうえで、本質的な礼拝のあり方を見つめ、考えてみましょう。


① 礼拝の本質

どこで、どのように礼拝するのが正しいかということに関して、イエスさまはこのように答えています。

「イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。(ヨハネ4:21-23)」

形式が大切なのではなく、真心から礼拝することが、私たちには求められています。
では、真心からの礼拝とはどのような礼拝でしょう?
創世記4:3~4を読みましょう。

「しばらく時が過ぎて、カインは大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た。
アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物に目を留められた。(創世記 4:3-4)」

いにしえより、礼拝の一番の方法は捧げものを捧げるということでした。
カインとアベルに始まり、アブラハムも、モーセも、ダビデも、ソロモンも、みんな捧げものを捧げることによって礼拝していたことがわかります。
自分が大切にしているものを神さまに捧げることによって、神さまへの愛を表現したのです。

礼拝の本質は捧げるということです。
カインはただ自分が育てた作物を捧げただけでしたが、アベルは最高の初子を捧げました。
神さまが選んだのは、アベルの捧げものです。
アベルが捧げたのは、彼の仕事の中で最高のものだったからです。

さて、この話を聞いて、「自分に捧げることができるちっぽけなものが、神さまに受け入れられるだろうか?」と不安になる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、神さまにとって大切なのは、その捧げものがどのようなものかということ以上に、どのような思いで捧げるかということです。

子どもが描いた絵は、ほとんどの人には単なるへたくそな絵でしかなくても、その子の両親にとっては宝物です。
私たちの天のお父さんは、私たちが心から捧げるなら、どんな捧げものも喜んで受け取って下さいます。
神さまがもっとも愛しているのは、捧げものではなく、捧げる私たちなのだということを忘れないで下さい。

捧げものは、モーセ以降には「いけにえを捧げる」という律法によって形が明確になっていきます。
神さまは、いけにえとして捧げられた動物を食べるのでしょうか?
別にそんなことはありません。
神さまが喜ぶのは、いけにえそのものではなく、人々が神さまのために捧げたいと願う心です。

律法の中で「いけにえを捧げること」を命じられているのはなぜでしょう?
それは、それがこの時代、この地域に住んでいた人たちにとって一番わかりやすい方法だったからだと思います。
この当時、ここに住む人たちにとって、いけにえを捧げることが神さまを礼拝することであるという文化が、すでにあったのです。
神さまは、彼らにとって一番わかりやすい形で捧げものをすることを許しました。
しかし、大切なのは「捧げた物」そのものではなく、捧げる心です。

そして神さまは、罪の贖いに関しても、彼らにとって判りやすい方法を選びました。
神の子であり、救い主であるイエスさま自らが、いけにえとなって命を投げ出すという方法によって、罪が贖われたことを人々に示してくださったのです。

「いけにえを捧げる 」という文化がない、現代日本人の私たちには、イエスさまの十字架での死による罪の贖いはわかりにくいことです。
しかし、このような文化が背景になっているのだということが判れば、少しはその意味が理解できるのではないでしょうか?
これによってわかるのは、神さまが「ひとり子イエス」という最高の捧げものを、私たちのために贈って下さったということなのです。

② 自分自身を捧げる

ローマ12:1を読みましょう。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ 12:1)」

イエスさまも、このように言いました。

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(ルカ 14:27)」

礼拝とは最終的に、私たちが自分自身を神さまに捧げることです。
それは、自分の思いや願望によって生きるのではなく、神さまのこころを第一優先とし、神さまがデザインした、本来の自分として生きようとすることです。

神さまは、私たちを通して誰かを愛し、誰かを癒し、誰かを励まし、力づけようとします。
私たちは文字通り神さまの手足となって、神さまが願う人たちのところに行き、神さまの代わりに愛し、赦し、福音を伝えます。

神さまの命じたことに従って、私たちが人を愛し、人に仕えること。
それこそが、私たちにふさわしい本当の礼拝の姿なのです。

③ 日曜礼拝は?

それでは、日曜礼拝は何なのでしょうか?
週に一度、礼拝堂などで集まって神を崇めるという方法は、西洋の文化の中で根付いていった形式でした。
いけにえを捧げることがある時代の人々にとって判りやすい礼拝の方法だったように、礼拝堂で礼典を行い、司祭が執り行う礼拝式に参加することが、西洋の人々には判りやすい礼拝のスタイルだったのです。

現代の日本でも、多くの教会がこの流れを踏襲しています。
でも、毎週日曜日の朝に教会に行って礼典に参加するというやり方は馴染まないという人も少なくありません。
もともと日本にはない習慣ですから、当然のことでしょう。
日本人の多くに福音が伝わらなかったり、クリスチャンになった人たちでさえ、その多くが教会から離れてしまうのにはこのような理由があるように思います。

では、日曜礼拝自体を失くしてしまえば良いのかと言うと、それ程簡単なことでもありません。
今のクリスチャンの多くはそのやり方に馴染んでいて、それを失くしてしまえば物足りないと思うクリスチャンが多いからです。

日曜礼拝で行われる賛美や祈りは、私たちの心を神さまに向けるためものとして機能しています。
週の初めに教会に集まって礼拝をすることは、そのような文化の中で育ってきた人たちにとっては不可欠なものとなっているかもしれません。

しかし、礼拝の本質は日曜日の集まりの中にあるのではなく、日々の生活の中で神さまに仕え、人を愛する姿勢にあることを忘れてはならないでしょう。

2. 人を愛する

私たちは、神さまを愛するだけでなく、互いに愛し合うことが大切です。
イエスさまは、私たちにこのように命じています。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ 15:12)」

―考えてみましょうー
イエスさまは、どのように私たちを愛したと思いますか?
必要であれば聖書を参考にしながら、自分の言葉で表現してみましょう。



皆さんは、イエスさまの愛のどんな一面に気づいたでしょうか?
イエスさまは、弱い私たちに寄り添い、ありのままの私たちを受け入れ、赦し、慰め、励まし、力を与えました。
イエスさまはそのような愛で、今も私たちを愛してくださり、私たちがそんな風に互いに愛し合うことを求めているんです。

それでは、イエスさまが教えてくれた愛とはどのようなものか、使徒パウロが手紙の中で書いた言葉から学んでいきましょう。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。(1コリント13:4-8) )」

① 寛容になる

誰かが間違いを犯したとき、それを責めるのではなく相手を赦し、その人の成長を待つ心が寛容です。
私たちはつい、正しいことを最優先にしてしまいがちですが、その正しさは善悪の知識の木を食べた結果得た、自分で決めた善でしかありません。
正しさは神さまに任せて、私たちは相手を理解する努力をし、寛容になりましょう。

② 親切にする

愛することは、単に優しいだけではなく親切です。
優しさはどちらかと言うと受け身の感じがしますが、親切は言わば積極的な優しさです。
人から嫌われないためにすることではなく、相手を思う心から来る真心。
私たちが誰かにされたら嬉しいと感じることを他人のためにするのが、親切です。

③ ねたまず、自慢せず、高慢にならない

ねたみや高ぶりの土台になっているのは、比較の価値観です。
隣の人と自分を比較して、一喜一憂する時、僕たちはねたんだり、自慢するようになります。
私たちが相手を愛する時、私たちは人をねたんだり、自慢したり、高慢にならなくなっていきます。
私たちは、自分の益となること以上に、愛する人の喜ぶことを願うようになるからです。

④ 礼儀を守り、見返りを求めない

「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。
愛するということは、失礼な態度をとっていいということではありません。
愛する相手だからこそ、「ありがとう」という気持ちを忘れず、感謝を表現することも大切なことです。

しかし、それを相手には要求するべきではありません。
「これだけのことをしてやったのに、感謝の言葉もないのか。」とか、「自分にもこれくらいのことはしてくれていいはずだ。」と考えるなら、それは愛ではなく、見返りを得るためにやっていることだからです。
全てを捧げるつもりでやりましょう。

⑤ 怒らず、悪を思わない

怒ること自体は、誰にでもあります。
それが必ずしも悪いわけではなく、神さまもイエスさまも何度も怒りました。

ここで言われているのは、怒りに我を忘れて行動しないということです。
冷静になって、相手を赦す必要な時もあれば、諭すべき時もあるでしょう。
しかし、怒りの感情に任せて口を開くなら、それは相手を傷つける言葉にしかなりません。

また、「悪を思わない。」ということは、つまり相手の良い部分を見つけるということです。
相手の弱い部分、悪い部分に目を留めるのではなく、長所に注目しましょう。

⑥ 不正ではなく、真理であることを喜ぶ

愛するなら、相手が不正をしてでも成功をすることではなく、成功しなくても真実であることを喜びましょう。
不正から来る成功は、やがて破たんしますが、真理を貫いていれば必ず素晴らしい道が開けるからです。

誰かが罪の中にある時、このように諭してあげなさいとイエスさまは教えています。

「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ 18:15-17)」

相手が聞こうとしないなら、その人を異邦人か取税人のように扱いなさいとイエスさまは言いました。
この言葉をもって、教会は従わない人々を破門するという歴史が教会にはありましたが、私たちはイエスさまが異邦人や取税人とどのように接してきたかということから学ぶべきです。
排除するのではなく、よくわかっていない人として、丁寧に教えてあげることが求められているのではないでしょうか。

⑦ 相手を信じ、期待し、耐え忍ぶ

私たちは、神さまが最高の者として創造した、この地上に唯一の価値を持った存在です。
確かに罪人でもあり、問題もたくさんありますが、私たちの中には、私たちが本来あるべき最高の私たちが隠されています。

人と接する時、その人を信じ、期待し、最高の自分を見出すことができる時を待ち望む心を持ちましょう。
多くの人は、誰からもそのように扱われたことがありません。
しかし誰もが、そのように一人の人として、尊敬を持って扱われる必要があるのです。

⑧ 愛は絶えることがない

多くの人は、「愛」とは相手を想う感情のことだと思っています。
しかし、感情は状況によって変わります。どんなに熱い「愛の感情」も、やがては冷め、憎しみに変わってしまうこともあります。

本当の愛は、決して絶えることがありません。
好きではなくなり、感情的には愛せなくなった時、それでも相手を思い、寛容になり、親切になり、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、礼儀を守り、見返りを求めず、怒りに我を忘れず、相手の最善を望み、真実を喜び、信じ、期待し、待ち望むこと、それが本当の愛なのです。




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