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記憶が記録を凌駕する時―映画 Anatomie d’une chute(落下の解剖学)について―


But isn't the truth the simplest way?Claus van Bulow in “Reversal of Fortune”

先週だったか(2024年4月25日)、性的暴行や嫌がらせで牢屋に入った元映画王のハーヴィー・ワインスティーンに対する(民事、刑事の)あまたある裁判のうち2020年にニューヨークで行ったものが、証言のあり方が不適切だったとされ、その判決が破棄された。控訴審では、一審で起訴の対象となった被害者ではない告発者の証言が含まれており、公正な裁判が行われていなかったと指摘し、一審判決を破棄し、再審を要求。尤も彼はカリフォルニアでも有罪判決を受けて懲役に服しているので、この破棄で大手を振って娑婆に出られるってわけではない。この一審の証言のあり方の不適切による破棄が意味するのは判決の法廷映画の古典『情婦』(Witness for the Prosecution, Billy Wilder, 1957)のようにいきなり予告なしに証言台に立ち、決定的な証言をして裁判の状勢をひっくり返すということはもはやないってことだ。

このように裁判での手続き―刑事ドラマでよくあるように悪い人を逮捕したら終わりではなくその後の証拠の取り方、そしてその証拠の法廷への提出の仕方という手続き―がしばしば理不尽に見えるほど厳密であるってことは、もちろん力の不均衡、つまり圧倒的な捜査力を持つ警察・検察に対して例えば字もろくに読めずちゃんとした弁護士も雇えない被告に対する最低限の人権を担保するのは、強制された自白や違法なやり方で入手した証拠などが法廷に上がらないように闘うのは当然のことで、そのためには手続きが厳密、したがって煩瑣になるのは当然なのかもしれない。ぞんざいな手続きによって正義の不履行を防ぐ、手続き的正義の制度化だ。

ただなんでもそうなんだけど、いったん制度化するとその悪用・濫用が生じ、法廷において記録としての証拠•証言をいかに巧みに使って事件をよりうまく再構築するかで、無罪、有罪が決まる、極端なことを言えば事件の真相とは無関係である、と言っても大げさではないのかもしれない。これについてはわれわれ法律の素人は先日亡くなった妻殺しのO.J. シンプソン(O. J. Simpson)のかつて連日テレビで報道され広く世間に知られた裁判で無罪を勝ち取ったことで洗礼を受けた。またそのような裁判での攻防は、フィクションでは、たとえば1990年代から未だに続いているテレビドラマ”Law & Order”などで検察と被告側との証拠、証言の法廷での利用に関しての駆け引き、暗闘をあたりまえのように見ることができる。

法廷劇 à la françaiseがこの映画『落下の解剖学』(Anatomie d’une chute、Justine Triet, 2023)である。フランス流(à la française)と言うのは、冒頭は撮影監督が撮るシャープな映像と言うより手振れがあって手作り感があるカメラで撮る、フランスのインテリ家庭ありがちのホッとするような(décontractée)雑然とした家の中で女性二人が話しているのだが、彼女らは十分魅力的だがスターのアウラがないフツーの女性二人。でもそこに確実に感じ取れるのは性的緊張感が見え隠れする。日常での普通の人による言葉での飾らない誘惑の遊戯。これがフランス流だ。

ただそれだけではない。クロスカットでかわいい少年とボーダーコリーは雪景色一面の野原に呑気に散歩に行く。まさしく「幸福」のひと時だ。そのほのぼのとした気持ちに浸って日が陰り始めた時に少年と犬がうちに戻ってくるのだが、犬が何か異変を察知して走り出し、それにつられて少年も後を追い、そうすると雪の上に頭から血を流している男の死体。少年が”papa, papa”と叫び、母親を呼び叫び、警察の到来、そして詳細な司法解剖のシーンで死因が事故か第三者の関与なのか決めることはできない、と解剖医が結論づけて、あたかもお話しの前提がすべてそろったという風なところでタイトルロール。それを伴うアルベニスのプレリュードが緊張感を醸し出し、見ているものはお話しの展開が待ち遠しくなってしまう憎い演出。でもそれを説明するのではなくただ画面と音で提示するだけなのだ。シネフィル気取りで言えばみごとな説話論のエコノミー。きっと作者は大掛かりな仕掛けの刺激に頼らない昔のショットを繋いでお話しを丁寧に構成していったハリウッド映画をたくさん見てきたに違いない。そう、古くはギャング映画やジャズなどの風俗の影響を受けたジャック•ベッケル(Jacques Becker)から西部劇における作家性を擁護したヌーヴェル・ヴァーグ(La Nouvelle Vague)、実はアメリカ映画が大好きなのだ、フランスのシネアストは。

話しをこの映画に戻そう。カンヌ映画祭、オスカーで賞を取ったことしか前情報がなく、しかもポースターでは飲酒しているだろうと思われる二人の大人が笑い崩れているので、てっきりchuteとはアル中などで人生の転落を描いているのか、と思っていて、実際映画の冒頭では主人公が昼間から葡萄酒を飲んでくつろいでいたので、ゆっくりと没落していくフランス映画によくあるうっすらと退屈な心理劇なのか、と思っていたが上で書いたように簡潔な冒頭の事件の素描からその後本格的法廷ドラマへ見るものを誘っていく。主人公―亡くなった男性の妻であり発見者の男の子の母親―の呑気で柔らかい物腰やかわいい息子と犬のほのぼのした雰囲気がだんだんと警察の厳密な調査、取り調べの包囲網に取り押さえられ深刻なものに変容していき、いつのまにか主人公が夫殺しの犯人として疑われ、それこそ夫を亡くした悲しみに浸れる暇もなく被疑者となってしまう。日常に亀裂が走り、一瞬で非日常の別世界へ転落。現実とは善と悪に明確に色分けされていて、意識的であろうと知らずの上であろうと、その境界線をまたぐということではなく、同じことが同じでありながら突然の出来事により別のものになってしまうのだ。自由奔放はふしだらに、自律は自分勝手に、羞恥心による隠しごとは企みごとに…

牧歌的な始まりからとうとう法廷へ。丁々発止のアメリカのドラマ―objection, it’s a speculation!など相手弁護士の厳しい妨害を巧みにかわしていく言葉の決闘の場!―に比べると、検察の誘導尋問、(事実の提示ではなく)感想の挿入による印象操作が露骨で、それに対して歯切れの悪い弁護側を見ているのは歯がゆいが、そのゆっくりとしたリズムで司法の手続きが丁寧に描かれ―例えば保釈金を17000ユーロの4回の分割払いで小切手に署名するなど―、アメリカのドラマとはまた違った形で、人の罪を問うと言うことは直観的なものあるいは良心に訴えれば済むのではなく、煩瑣な形式的手続きを通してで論証していかなければならないことを痛感させられてくるのである。

検察は記録されたものに固執する。検死、現場検証、精神科医の証言、作家である被告の著作で犯罪が予想されるような文章、そして決定的な証拠として被告が知らずして亡くなった夫が録音していた夫婦喧嘩のUSB上の殴打と推測できる音も含むなまなましい音声。

先ほども言ったように冗漫なリズムでのお話しの進み方には好敵手間の言葉の鮮やかなやり取りはないが、証拠として提出された書類を通して主人公、亡くなった夫の生、実存が浮き彫りになっていく。それは人間のドラマであり、痛快さは感じられないが静かな興奮を促す。USBに記録されて法廷で再現された夫婦げんかは、映画ならではで、回想シーンとして再現され、みごとに中年夫婦の飽和した関係が余すところなく表現されている。互いへの嫌悪、無関心、そしてそれを隠すため、交わされる言葉は自己保身の当てこすりか、空虚な美辞麗句。そこにはもはやいないかつては才気あふれ美貌を誇った男の中年になった閉塞感、やる気なさを育児に逃げて言い訳する怯懦、同じ作家として成功した妻への嫉妬を良心かプライドのためかで表現できないから妻の無理解としてなじるねじれた攻撃性、その果てにある殴り合い(の音)。中年の観客ならほとんどの人は苦い思いを抱きながら深く共感するであろう。そうどこにでもある人生のある段階での喧嘩に過ぎないのだ。

ところが検察はそうは見ない。この音声の記録を決定的なものとみなし、そこに被告の主人公の暴力性を見てとり、山小屋から夫が落下した時も彼女が彼を殴り、ベランダの端まで追いやり突き落としたのではないか、と主張し、それを彼女の著作、数年前の女性との浮気などの証拠で補完し、夫の死は自殺や事故ではなく殺人の動機は不問だが、彼女が関わったことではないか、とするのだ。記録による事件の再構築である。被告は亡くなった夫に自殺願望があったというが、それも彼のかかりつけの精神科医に亡くなった夫は向精神薬を断わるほど生きる意欲を見せていた、と反駁されてしまう。検察側の証人の医者と起訴されている人の言っていることの間でどちらに重みが法廷であるかは素人の僕らにも明白であろう。

ところが結審前の最後の証言、息子の証言がそれまでの膨大な資料である状況証拠、証言、証拠などで論証されつつあった母親の有罪を覆すのである。わずか11歳で数年前に父親の起こした事故で弱視になって―これも夫婦の不仲の原因と検察に見なされる―ものが正確に見えない子供の記憶、犬に起こったある事件を通して父親と話した彼の思い出が記録としての積み上げられたあまたある証拠の確証性を無に帰せしめ、つたない言葉で語られる記憶が真実として人々に迫ってくるのである。法廷で証言としてひろいあげられたから厳密には息子の思い出は記録になるのだが、検死鑑定、現場検証、精神科医という専門家の証言、USBの証拠音声、被告の著作、被告の両性愛者としての不義の記録、そして彼女の生活史、これらの有罪の確証性を示す記録が父親を亡くし母親がその咎を問われている少年―しかも彼は全ての公判を見て、両親の醜い争い、母親の女性との関係などを知り、母親が潔癖であることが信じきれない、非常に動揺しているのだ―であり、その下手をすると子供の信憑性がないと退けられてしまいそうな舌っ足らずの彼の言葉が―もちろん検察官が「個人的な思い出に過ぎない」と弱弱しく留保しているが―真実として人々に迫ってくるのである。(裁判で勝つための)確証性を得るためのもっともらしい証拠から構成される記録を凌駕する真実としての記憶(思い出)。

法廷をめぐるドラマは言ってみれば記録からこぼれ落ちる真実(の断片)を描こうと腐心している。例えばエピグラフで引用した『運命の逆転』(Reversal of Fortune, Barbet Schroeder, 1990)ではヴォイス・オフで旦那の殺人未遂で昏睡状態に陥り意識がないはずの奥さんが、話題の中心であるはずの自分が「昏睡状態にいる被害者」と等閑視され、また亭主は殺人未遂の容疑者に矮小化され、二人の関係の大切なところ、彼ら二人が愛しあっていた美しい物語は裁判から忘れ去られていると語っており、また”Law & Order”では検察官の限られた証拠構成による不本意な起訴内容に関するむなしさがよく描かれるが、この映画の息子による告白ほど法廷における記録の優位さのむなしさを表したものはないかもしれない。

それにもかかわず近代の司法は正確な判決を下すため事件の全容、すなわち真実を明かそうとして、そして明かしたとしたという取り繕いをして判断をする。そう、罪刑法定主義は奇妙な状況を生みだす。罪に適合したそれ以上でもそれ以下でもなく、また偏見のない公平な刑を見定めるため、皮肉にも罪を問われているものの存在全体―来歴、学歴、職業、性的志向を含む人間関係、経済状態、精神状態―がすべて探査され、証拠・証言として裁判で利用され、もちろんそれは邪な権力の好悪による偏向した罰からその人の人権を保全するためなのであるのだが、その人の罪に関する部分を正確に把握する詳査の結果、その人間性全体が俎上に上げられ、衆目に晒される結果になる。その結果事件はもちろんのこと、被害者、被告の全てを知ったような錯覚に陥り、またそれが報道機関で拡散、誇張され、冤罪とまでいかないが肝心の真実がこぼれ落ちているのに気づかないことがしばしばだ。

現実の裁判には―と言ってもこの映画はフィクションだが―例えばリーズ・ウィザースプーン(Reese Witherspoon)が『キューティ・ブロンド』(Legally Blonde, Robert Luketic, 2001)でお茶目の機知で偽証している犯人の矛盾を指摘し、裁判で勝ち取った後の爽快感はない。無罪は勝ち取ったとしても皮肉にもその戦利品はないのだ。日常に戻るしかない、もどかしさとむなしさ。そのむなしさを抱えながら母親は、息子への接見制限があったため、しばらくぶりに家に戻る。息子になだれ込み、息子は慈愛深く母親を抱きかかえる。庇護の姿勢だ。そのちょっと前にテレビで母親の無罪判決を見た時の戸惑っていた表情―それは果たして10代の子役にやらせていいのかと見ているものの胸が痛くなるぐらい複雑な感情表現であった―をしていた子供の幼さはもはやない。母親の無罪は子供の無邪気さの代償か。息子の部屋を後にした母親はソファもしくはもはや夫と同衾していなかったので彼女の簡易ベッド?に横たわる。そこに息子の証言の中で重要な役割を演じた―つまり彼女を無罪にしたもう「一人」の立役者―犬が飛び乗ってきて、添い寝をし始めたところでエンディング・ロール。

この映画は物語ではなく解剖学なので先ほどの母親が無罪になったことを知った時の少年の両義的(安堵感と不信感とは言わないまでも真実に近づけたのだろうかという不安?)な表情が反芻され思わずそれを解析したくなる。そこで思い出されるのは、息子が法廷で裁判長に証言として付け足すものがあるか、と促されると、自殺未遂かあるいは自殺できるほどのアスピリンの量を調べるため飲んで戻した父親の吐瀉物を口に入れて調子が悪くなった犬を獣医に連れていく車の中で父親が[盲動誘導犬である]その犬を評して、「ちょっと不公平じゃないか、この犬にとって?君がしたいことをわかんなきゃいけないし、それを予測しないと駄目で、要は一生君の必要なことを考えてなきゃだめだ。もしかしたら疲れてもういやだと思う時がくるかもしれない。[だから]彼がどっか行っちゃうときはどっか行っちゃうんだ、それでそれは準備しとかなけらばならない。大変だけど、それで人生は終わらない。」、と何か含みがある言い方をしていた、と最後に付け加える。それが映画ならではの手法で父親のしゃべりはプレイバックされ、ただし声は法廷での少年の舌ったらずのしゃべりが運転中のクローズアップの父親の口に見事にシンクロナイズされているのだ。結局これが決定的な証言となり、母親が無罪になるのだが、映画を見ている人はUSBの音声再現を―これもプレイバックされていたことを想起されたし―思い出してほしいのだが、そこの夫婦げんかで夫が一生懸命彼女に合わせて生活をしているということををまったく顧みないどころか、カップルにおいてreciprocity(お互い様であること)は信じない、それはナイーヴで憂鬱だ。そんなあんたの状態を話し合うのは時間の無駄と、主人公がむげに言い放っていることを。

彼女は死んだ旦那が犬に託して予言したとおり、旦那が死んだことは大変だったけど、彼女の人生は終わらなく、ちょうどなんでもあらかじめ察してお世話をする息子の犬を手繰り寄せて安心した様子で眠りに着くように、誰かまた察しがいい人を探し、日常のお世話をしてもらい、小説の面白い着想があればそれをシレっと盗用し(わずか300頁の27頁でアイデアであると弁明し)、性的に齟齬があった場合はいけしゃあしゃあと女性と関係を持ち(自然な欲求があって拒否されてんだから仕様がないでしょ?しかも愛じゃなく性的な関係でしかないと言い訳し)、子供の面倒を見ない批判に関してはお手伝いが週三回来ているから大丈夫と居直るのではないか、とエンディングの音楽、ショパンのホ短調のプレリュードを聴きながら、smorzandoではかなく消えていくそれとは対照的に主人公の女性のしたたかな生命力を感じるのはあまりにも意地悪な解剖学であろうか。

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