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恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死 リフレイン考

 タイトルに惹かれてこの記事を見てくださっている読者のみなさま、もし(万が一にも)わたしの恋人に関する話を期待していたら、ごめんなさい。短歌の話です。あぁ、帰らないで!きっと、おもしろいから。

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死

 タイトルにもなっているこの文章は、穂村弘の歌集『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』に収録されている短歌です。

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
           穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

 穂村弘という歌人が現代短歌界において、どのような位置を占めるのか、とか、あるいは、この短歌を短歌のルールに沿って解読していく、とか、そういった営みは今回はあまりしません。しない、というより(個人的には)そこまで意味がない気がするし、そういったことは少し調べれば、ごまんとでてきます。
 だから、この記事では、リフレインが持つ効果、つまり、「言葉の繰り返し」が私たちに何を与えるのか、ということについて(乱暴に)書こうと思います。この記事に目を通してくれた皆さんに、わたしが感じているリフレインの神秘さや奥深さ、面白さを感じてもらえれば幸いです。

案外、身近なリフレイン

 リフレイン──言葉の繰り返し──は、案外身近なもので、みなさんも少し考えれば、何か思い当たるかもしれません。とりわけ、わたしにとって心に残っているリフレインといえば、アイドルAKB48の楽曲『会いたかった』が思い当たります。『会いたかった』のなかのサビ部分で、「会いたかった 会いたかった 会いたかった yes!」というフレーズが繰り返されます。このリフレインは、曲の調子を整えつつ、(デビュー当時の)AKB48の潑剌なイメージとマッチしていて、『会いたかった』をAKB48の門出にぴったりな曲に仕立て上げました。他にも、山口百恵『プレイバック Part2』、THE BLUE HEARTS『リンダリンダ』、少女時代『Gee』、Official髭男dism『I Love...』、……と古今東西のヒット曲のなかにはリフレインが含まれています。
 そして、リフレインは音楽に留まらず、日常会話でも多用されます。「だんだん(段々)」とか、「ますます(益々)」といった強調に関する表現は日常よく使われます。そして、これらはしばしば、''more and more''と訳され、強調におけるリフレインの使用は日本語に限ったことではないことがわかります。

短歌におけるリフレイン

 リフレインが私たちにとって身近な表現であることを確認できたところで、翻って短歌におけるリフレインをみてみましょう。ここでは、穂村弘の短歌に加えて、笹井宏之の短歌も参考に言葉の繰り返しを考えていきます。

恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死
           穂村弘 『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください
              笹井宏之 『えーえんとくちから』

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(画像はamazonへのリンクになっています。)

 この二つの短歌は、現代短歌においてリフレインといえば必ず上がるような名歌なのですが、わたしは、この二つを最初に目にしたとき、「これが…短歌??」と困惑しました。抽象画を目の前にして、何を鑑賞すればよいのか皆目見当がつかない時に襲われる気持ち、そんな感情を覚えました。
 ただ、そんな感情は、わたしがこれらの歌を「短歌」という括りの中で必死に鑑賞しようとしていたから陥ったある種の誤謬であり、純粋な字面とそこから得られる心象風景に焦点を当てれば、これらの作品はとても生き生きとした楽しい作品に見えてきます。

繰り返しの効果

 さて、「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死」において、誰が死んだのでしょうか。最初の「恋人」が「わたしの恋人」だとして、死んだのはいったい誰なのでしょうか。おそらく、わたしとは無関係な、顔も名前も知らない誰かが死んだ気がします。そして、なぜか、「わたし(読み手)」と「死んだ人」の間には果てしない距離感を感じます。「なぜか」と書いたのは、実際は詠まれているのがあるカップルのことで、すると「恋人の恋人」は「(わたしの)カレ/カノジョの恋人」、つまり「わたし」と読め、それが3回繰り返されたのだから死んだのは「わたし」なのだ、と読むことが可能だからです。そこまで極端に解釈しなくても、例えば、恋愛が盛んな大学のサークルなどを想定して、「あいつの元カノはオレのイマカノで……」と人物相関図を作ったら案外、死んだ人は顔見知りだった、といった読み方もできないことはないです。
 そういった読み方は十分可能だとして、それでも「わたし(読み手)」と「死んだ人」の間には果てしない距離感を感じてしまうのはどうしてでしょう。
 この果てしない距離感を生み出す要因が二つあると思います。
 一つには、短歌全体におけるリフレインの占有度、そしてもう一つに、リフレインの短調さが生み出す意味の広がり、が挙げられます。
 短歌全体におけるリフレインの占有度、というのは「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死」において「恋人の」というフレーズが6回繰り返され30/31音を占めている状態を指します。そもそも、距離というのは絶対的(1km、2cm)な尺度である一方、距離感は相対的な尺度(遠い、近い)に過ぎません。東京-大阪間は渋谷-代々木間よりは遠くてもソウル-ニューヨーク間よりは近い、といった風に。
 「相対的な感覚を絶対的な尺度に昇華させる」、短歌においては、繰り返すことがこの役割を担います。31文字という空間の広がり、32文字目はいってしまえばもはや世界の外側、そんな短歌の構造の中で、リフレインは感覚的な距離感を絶対的な距離への変換作業、として捉えることができます。すると、距離感の原始的な単位たる「恋人」を世界の端っこまで永遠と辿ってみる果てしなさ、そういった感覚が立ち上がってきます。
 恋人という身近さから世界の果てへの接続、これを「人間誰しもつながっている」と捉えるか、「身近な人を辿っていけばいずれ他人」と捉えるかは個人の自由ですが、どちらにせよ、身近さと果てしなさの綺麗なコントラストが感じられます。
 二つ目の、リフレインの短調さが生み出す意味の広がり、というのは、言葉の性質に由来します。「あの人もあの人も…」と言った時、「あの人」は同じ人を指さないように、同じ言葉の連続は異なる対象を想起させます。リフレインは言葉の繰り返し故に文字面は短調になるが、その短調さと裏腹に意味内容は豊かになってゆく……。「恋人の恋人の恋人の……」と繰り返される中の「恋人」は同一人物ではなく、文字面の短調さとは反比例して豊富な個別の対象を想起させるに至る、ある種の言葉の性質がこういった読みを可能にさせるのです。

えーえんとくちから

 さて、穂村弘の短歌へ一定の解釈を与えた上で、今度は笹井宏之の短歌を見てみましょう。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください
                     笹井宏之 『えーえんとくちから』

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 「えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください」は、先ほどの短歌と違って距離感といったものは感じられない。そもそも、順に読み進めた時、最後の「永遠解く力をください」を読むまで「えーえんとくちから」が何を示してるのかわからず、かろうじて思い当たるのは「くちから」が「口から」かもしれない、ぐらい(わたしは、初め、「えーんえーん(子供の泣き声)と口から」だと思って読んでいた)。意味を捉えるぞ、と意気込んで読めば読むほど、意味がわからなくなっていく、そんな短歌に思える。
 読み進めていくと、「えーえんとくちから」は「永遠解く力」であることがわかり、どうやらそれを欲している。
 一通り読み終えると、この短歌のリフレインは少し特殊な形をしていると気づきます。リフレインはその短調さと裏腹に意味を豊かにしていく働きがある、と述べましたが、今度はむしろその逆で、同じ発音かつ同じ意味の記号(えいえんとくちから)を異なる表記方法で記す(えーえんとくちから、永遠解く力)リフレインとなっています。意味が豊かになってはいません。
 意味は終始そこにあって、表記がその意味を捉えていく様子を描いているのだとすれば、なんとなく心象風景が見えてきます。たとえば、仕事やバイト、人間関係などに疲弊しきっている時、無意識に「つかれた」と口からこぼれることはないでしょうか。口から突如こぼれ落ちた「つかれた」という一言にわたしはすこし驚く。そして次に、疲れをちょっとだけ意識しながら呟いてみる、「つかれた」と。そして、その一言は、「疲労」という、くっきりとした概念と結びつき、わたしは疲れているのだ、という確信へわたしを導く、はっきりとした口調で「はぁ、疲れた」と言ってみる。
 このように、無意識の発話が意味を伴ってわたしに理解されていく過程を描いた短歌だと読めます。だから、リフレインによって言葉の意味が増減することはありません。むしろ固定された意味への接近という、わたしのダイナミズムや躍動感をリフレインが絶妙に演出していると感じられるのです。

 この笹井宏之の短歌に対して穂村弘は以下のように評しているので紹介しておきます。

 口から飛び出した泣き声とも見えた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。「永遠」とは寝たきりの状態に縛り付けられた存在の固定感覚、つまり〈私〉の別名ではないだろうか。〈私〉は〈私〉自身を「解く力」を求めていたのでは。
                     笹井宏之 『えーえんとくちから』 解説より

ガチでマジの蛇足:短歌の現象学的鑑賞の可能性

 ガチでマジの蛇足なのですが、今回私が行なった鑑賞、つまり客観的に存在している(であろう)作者の意図を無視して、文字面が鑑賞者に与える感覚を起点に鑑賞する方法は、哲学における現象学と類似性を持つ(気がします)。短歌と現象学の親和性はそれだけで超大作がかけてしまうので、ここでは大雑把なわたしの感覚を述べます。
 現象学という学問は哲学においてE.フッサールが大成させた学問ですが、単純に言ってしまえば、「客観的存在」を「主観的確信」に還元する方法についての学問です(とわたしは理解しております)。たとえば、りんごがテーブルの上にあったとして、そのリンゴが「実際に存在するか」はいったん置いておいて(エポケー)、少なくともリンゴが「存在するように思われる」といったわたしの感覚上に現れた主観的確信に還元する(現象学的還元)、このようにして現象学は客観的存在を主観的確信へと取り込んでいきます。
 今回、わたしが試みた鑑賞は、換言すれば「客観的存在の主観的確信への還元」ともとれるかと。芸術鑑賞において「作者の意図」を読み取ろうとする営みは、「無前提に存在する客観性への接近」と酷似しているように思われます。対して、リフレインがわたしに与える感覚というのは、わたしの主観的体験に過ぎません。ただ、両者を比べた時、前者はどうしても空を切る感覚があるのです。後者は主観的体験に焦点を当てているにもかかわらず、「作者の意図」への接近を試みるより、よっぽど、何か核心を捉えているのではないか、そんな期待があるのです。
 今回はこの辺でご容赦ください。短歌と現象学の関係はきっと存在する、そう思っています。今回のこの雑な所感は、ロランバルトの文学批評や芸術思想におけるシュールレアリスム等と混然一体となっていて、あまり意味を為しませんが、いつの日か、短歌鑑賞と現象学の関係を純化して、お送りできたらなと思います。
 語り得ぬことについて口出しし過ぎました、黙ります。

結びにかえて

 気づけば小論文のように長くなってしまいました。流し読みでもここまで読んでいただいた皆さんには感謝してもしきれません(涙)。今回はリフレインという表現の神秘さ、面白さについて書いてみました。リフレインが読み手に与える作用に着目してみると、短歌が示す意味そのものを理解しようとする鑑賞方法とは少し違った感想が得られるかもしれない、すこしでもそういった可能性の示唆に役立てば、と思います。

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 ここまで、読んでくれた方には何かのご縁を感じることを禁じ得ないのでわたしの稚拙な短歌も是非読んでみてくれると嬉しいです。
 Twitterで、岩木 白(リンクになっています)というユーザーネームで作品を発表しているので、覗いていただけると幸いです(内心:あわよくばフォローしてもらいたい)。
 御精読ありがとうございました。

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