見出し画像

「青天を衝け」33 論語と算盤

 おばんでがすー(朝読んでいる方は、おはようござりすー)。
 せっかくなので、渋沢栄一が主人公の大河ドラマ、「青天を衝け」で気になったところを考察していきたいと思います。
 とは言っても、あらすじなどは他の方々がわかりやすく書いているので、僕が気になったポイントだけ見ていきます。


「論語と算盤」について、改めて。

 明治も10年程度が経ち、三野村利左衛門が言う「金中心の世の中になってきた」ようでした。言い換えるなら、「算盤」中心の世の中。
 一方、江戸時代は、朱子学的な影響が強く、「金は卑しいもの」という価値観が根強くあったようです。そのかわり、道徳的な素養がとても重視されました。いわば「論語」中心の世の中。
 この時代は、「論語」社会から「算盤」社会への移行の時期だったのかもしれません。

 ところで、「論語=道徳」と「算盤=経済」はトレードオフと思われがちです。「綺麗事だけでは儲からない」や「結局悪人が一番儲かる」のようなイメージは、いまだに多くの人が思っていることではないでしょうか。

 この「道徳」or「経済」の価値観から脱却し、「道徳」and「経済」、つまり、「論語算盤」を提唱したのが、渋沢栄一でした。
 ただ、渋沢栄一が「論語と算盤」説(道徳経済合一説)を主張したのは老年期以降であり、33話時点(アラフォーくらい)では、多忙すぎて自説をまとめる余裕も無かったと思われます。ただ、第一国立銀行(今のみずほ銀行)の経営に関わるころから、『論語』に基づいた経営を志していたことは確かなようです。

 ぜひとも大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは、決して真理の発達をなすものではない。ただ空理にはしり虚栄に赴く国民は、決して真理の発達をなすものではない。
 (中略)これはすなわち物を増殖する務めである。これが完全でなければ国の富はなさぬ。その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである。

『論語と算盤』処世と信条 論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの より

この節は、こっちでも考察しています(考察第1回目の記事)↓


富と貴きとは、是れ人の欲する所なり

 ドラマ中に『論語』引用していた節。※訳は独自の解釈が入っています

 子曰く、富とたっときとは、これ人の欲する所なり。その道を以てこれを得ざれば、らざるなり。貧と賤とは、これ人のにくむ所なり。その道を以てこれを得ざれば、去らざるなり。

 訳 富と高い身分は誰でもほしがるものだ。しかし正しい方法でこれを得たのでなければ、それは長続きしない。貧乏と低い身分は、誰でも嫌がるものだ。しかし怠惰によってそれを得たのなら、甘んじて受け入れる。

『論語』里人第四 五 より

 これは、渋沢栄一が83歳のときに行なった「道徳経済合一説」の演説でも引用されています。

 孔子は、義に反した利は、これを戒めておりますが、義に合した利は、これを道徳に適うものとしておることは、富貴を卑しむの言葉は、みな不義の場合に限っておるにみても、明らかであります。「不義にして富み且つ貴きは、我において浮雲の如し」と言い、「富と貴きはこれ人の欲する所なり。その道を以てせずしてこれを得れば、おらざるなり」と言うたのは、決して富貴をいやしんだのではなく、不義にしてこれを得ることを戒めたのであります

肉声で聞く渋沢栄一の思想と行動 『道徳経済合一説』 より

 
 この渋沢栄一の『論語』の解釈は、従来の論語読みからすると、かなりぶっ飛んだ解釈だったようです。
 ただ、渋沢栄一的に言うと、従来の解釈は道徳と経済活動をトレードオフ(論語or算盤)で考えるものであり、本当は、道徳と経済活動は一致する(論語and算盤)。ということです。

 僕も、これからもこの解釈を貫いていきます。

 

 んでまず、おみょうぬづ(それでは、また明日)。

 

「青天を衝け」レビュー記事は↓

自己紹介記事は↓


読んでもらってありがとうござりす〜。 noteにログインしてなくても左下の♡を押せるので、記事が良がったら、♡押してけさいん。