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”喪失”と向き合うということ

皆さんは、日々暮らす中で”喪失した”という経験はどれだけありますか?
私は、高校2年生の9月と大学1年生の5月に大きな喪失と向き合った経験があります。

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今では10年以上も前の話にはなりますが、高校の同級生が1人は在学中に、もう1人は卒業後の5月に亡くなる出来事がありました。(その後、もう1人亡くなった話も聞きました。)
今でも知らせを聞いた時と葬儀の時は明確に覚えています。

当時の私にとって、とても親しくしていた同級生が2人も亡くなってしまったことは大きな出来事で、3年から5年くらいはどことなく心の中に引っかかりを持ちながら過ごしていました。

「久しぶり!元気にしてる??」

そんなひと言すらかけられない状況になってしまったことは、苦しさとしてまた「どうしてこうなってしまったのか。自分には何かできたんじゃないか。」と考えさせられることもありました。

あの時の心の痛みの和らげるには、誰かが答えを教えてくれるものではなく、ただ自分がどんなことができたのか?過去のことを考えたりすることしかできていなかったように思います。

なんとなく気づいていてもわからないこと

当然、大学生活は進んでいくわけで、時間が経つことで前を向いて考えることや行動することが増えてきていました。
社会人になり、あるご縁から”グリーフケア”という概念に出会い、あの時感じていた痛みは一人じゃ到底取り除けないものだったんだと改めて考えさせられました。

”グリーフケアとは”
配偶者や子供、親などの家族、親しい友人などと死別した人が陥る、複雑な情緒的状態を分かち合い、深い悲しみから精神的に立ち直り、社会に適応できるように支援することをいう。グリーフgriefは深い悲しみや悲嘆を意味する英語で、悲嘆ケアや遺族ケア(bereavement care)ともよぶ。
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%B1%E3%82%A2-485968

概念の中では、「親しい人との死別が陥る・・・」となっていて、この言葉にであったことで、自分の心のなかには一つの障害があったんだなと気づくことができました。また「親しい人との死別」だけでなく、もっと広い意味での”喪失”も同様に小さなグリーフを抱えることになることを知りました。

そしてこの概念と出会ったことで、これまで向き合っていた”喪失”を周囲に前向きな形で伝えることでき、一つ何かを超えた感覚がありました。
自分がなんとなく整理ができていたことも、案外わかっていないこともあるんだなと思うと共に、日々何気ない小さな”喪失”の積み重ねが心を縛り、自分の中に閉じ込めておくことで生きずらさに繋がることもあるんだなと感じました。

この状況になる前から存在していたこと

思いがけない大小なりの喪失に、東日本大震災などの大きな災害や今の社会の状況になる前から多く出会っていたと思います。だけど、それに気づくことや立ち止まることよりも日常の暮らしや仕事、経済が優先される社会でもあったのだと思います。

そして大きな災害だけでなく、40代になって急に大病が見つかり亡くなってしまう方や、20代の健康体でもがんが見つかり、闘病を余儀なくされる方など、いつも過ごしていた状況と異なることが急に突然やってきてしまう話を伺うこともありました。
大きな災害だけが”喪失”につながるわけじゃない。どんな人でもいつ何時やってくるかわからないところに”喪失”は潜んでいると思います。

私もどことなく同級生のことを思い出すことやその出来事に向き合うことはこれからもあると思います。ただ常に”喪失”と向き合うことはきっと心を苦しめてしまうことになると思うと、少し肩の荷を降ろして、いつ死が迫ろうが、病を患おうが、災害がやってこようが、その日を(できるだけ)満足して過ごそう。という心持ちで日々を生活しようと私は考えています。(毎日できているかはわかりませんが。笑)

自分のことをちょっとでも考えようと思える時間がある方は、こんな状況だからこそ、これからどんなことを大切に日々を過ごしていきたいと感じますか?
どこかの機会でそんな話もできたならちょっと楽しいかなと思っています。

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