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【学生が地方創生を考える】のは傲慢であるのか。#1

1.はじめに《学生の活動範囲の拡大から見られる影響》

  「県内の高校生と地元企業が協働して…」「地元の大学生が主体となって…」夕方ローカルニュースを見ていると、そのような報道を目にすることが増えた。意識的にそうした情報に目を向けるようになったからというのもあるかもしれないが、少なくとも私が小学生・中学生だった頃と比べれば、その変化は分かり易い。学校という枠組みを離れ学生の地域・社会に対する間口が広げられるような取り組みは、個人単位から民間・行政単位に至るまで随分と参画しやすくなった。「形式的な学習」からの脱出である。結論を極めてシンプルに言えば、きっとそれは「良いこと」なのだと思う。少なくとも、社会のために精力的に活動する若者を見て悲観的になる人はそんなにはいないはずである。人口減少・少子高齢化が加速する地方において、若いエネルギーが社会に出てくることは、各所においても新たな知見や出会いをもたらし得るほか、生々しい話そこに携わること自体が企業・行政の広告の代わりにだってなり得る。学生にとってみれば、教室の中では得られない学び・経験を積むことができ、それらを通して地域に対する愛着が醸成され、更なる社会参画のきっかけにもなる。そうしたシナジーがある種文化的に生まれるようになれば、《社会(企業・行政)―学校・学生》の《Win-Win》な関係の構築も可能であるし、同規模の地域にとってはロールモデルにする可能性だって見えてくるのだ。一見するとメリットしかないようにも思われる。


2.授業の一環で実感した活動の意義と、覚えた違和感


かくいう私も、昨年は大学の授業の一環で岡山に根付く祭り「うらじゃ」(参考:うらじゃHP)の運営に携わっていた。当日までは地元の大人の協力も得ながら、イベント構成の検討から踊り連や小学校との打合せ、広報物作成、ポスティングなどあらゆる作業を学生主体で行う。チーム結成当時、私以外のメンバーはそもそも”うらじゃ”を知らなかったという状態のスタートであったため、どこにやりがいを見出してもらうかというところでは苦労もあったが、踊り連対象の勉強会に足を運びメンバーに内容を共有したり、総おどりの練習会を開いたり、各個人の特性を考えたうえでタスクを分配するなどしモチベーションの維持に努めた。そうしたプロセスが関係しているか断言はできないが、結果として我々のチームは打合せの出席率も他チームと比べてトップであったし、各メンバーの自己重要感も比較的高かったように思われる。知識としてはゼロベースで始まった当企画も、最終的には皆うらじゃの楽しさに気づき、ぜひ来年も参加したいという声も各所から聞こえた。そして何より提携先の小学校の先生や地域の児童たち、保護者の皆さまに非常に喜んでいただけたことからしても、成功に終わったとして良いのだろう。授業を通して仲を深めたとあるメンバーは、沼にどっぷりと浸かってしまい、彼とは4/7に踊り連が集まって行われる合同新歓祭に参加する約束をしている。嬉しい副産物だ。

イベント会場となった小学校にて、踊り連(岡山うらじゃ連旭)の皆さまと一緒に。

 ただ、ここで私には一つの疑問が生まれた。

‐本質的な地域活動が、学生に可能なのだろうか。

 なんとも抽象的な疑問であるが、この疑問が私の行動意欲に対してかなりのブレーキをかけることになったということは、後になって気づくことになる。もともと学生団体や学生主体の活動を好んでいたため、どういった団体・プロジェクトがあるのかという部分における知識に関しては聊かばかり自信があった。例に倣い情報収集をしていくうちに、あることに気が付く。それは、各組織・企画にジョインするメリットとして多く挙げられているのは、

●一生の友達ができる
 ●就職活動に有利
 ●珍しい体験ができる

などが多く、「『なぜ』地域で活動するのか」という根本的な部分に触れているところはさほど多くないということである。全く理解できないわけではない。パレートの法則に関連付けてみても、意識レベルの高い学生は全体的に見て稀であり、さらにその中でも価値観や方向性の違いが生じるリスクを考えれば、団体の存続という面で見てもいかに入り口を広げジョインするハードルを下げるかと言うのは、中にいるメンバーから見ても重要な検討事項であるだろう。

私も大学のサークルに所属する身として、その辺りのジレンマは分かっているつもりだ。おそらくこれまで見てきた各組織の幹部メンバーの中にも、そこに悩みを抱えている人も少なくないのではと思う。少し話を戻して「うらじゃ」の授業において考える。当授業は岡山大学に通う学生は指定単位数以上の取得が卒業要件として課せられる《教養教育科目》に含まれる。一般的な授業は教授が教室にて講義をして、出席回数や指示された課題、期末試験・レポ―トなどにより評価される一方的なものであるのに対し、こちらは教授が干渉することはほとんどなく、オリエンテーション以降は本番当日までほぼすべての準備を学生と地域の振興会の方々で行う。無事に本番を終えると、2単位が付与されるというものだ。

作成したポスター。プライバシー保護の観点から一部改変している。

スケジュールも時間割どおりに決まるわけではないし、本番までの約4か月間は途中でドロップアウトすることも許されないため、オリエンテーションの際に40名程度いた学生は、翌週の振興会の方々との顔合わせの時には20人以下に減っていた。(聞けば、参加する学生が多すぎても困るため、初回でセグメントをしておくという戦略に則ているらしい。)参加した学生にその理由を聞いてみると、やはり想像通り「単位が欲しかったから」「つまらない講義を聴くよりも楽しそうだったから」「貴重な経験だと思ったから」などが多く見受けられた。別に悪いわけではない。きっかけは人それぞれであるし、最終的に彼らが一つでも大切な学びや経験を蓄積できるなら参加する意味は十二分にある。ただ、”うあらじゃ”はもともと【共生と融和】という理念を基に、郷土を愛し、思いやりを持った人の育成、地域コミュニティの活性化など、「おかやま魂」の醸成という目的を持って生まれた祭りである。本来ならばそうした理念に共感し、大学の授業という枠組みではなく地元・あるいは新天地である岡山への想いを馳せた若者が集うことが理想形なのではないか、と若干の引っ掛かりを覚えたのは記憶としてさほど遠くない。

3.経験の場として利用される「地方創生」

 前章との内容の重複が懸念されるが、私は「あること」をこの目で確かめたく、2月に市川市文化会館(千葉県)を訪れた。その日は日本最大の”旅”をテーマに扱う学生団体「TABIPPO学生支部」主催のイベント《BackpackFESTA》が行われていた。実は以前から当団体のことは気になっており、真剣に入会を検討した時期もあった。

私のイメージでは、当団体に属しているメンバーは皆エネルギーに満ち溢れており、SNSでの発信活動も非常に活発に行っている。正直、ここまで活気に溢れた学生団体を他にあまり知らない。ただ、気になっていた。当団体はメンバーの数も200名規模を誇るマンモス団体である。その中で皆が皆同じような熱量なのであろうか。さらに言えば、扱うテーマが”旅”ということは、おそらく各個人の間での”旅”の捉え方は非常に多様であろう。(日帰りや1泊程度の小旅行は経験した人も多いであろうが、日本一周や海外バックパックの旅など、規模の大きなものになれば団体の中でも経験や知識のあるメンバーは一気に減るだろう。)そういったところからメンバー間でのすれ違いは頻発するのではないか。そして何より、「旅を発信している立場でありながら、自分自身に大した旅の経験がない」というフラストレーションも人によっては溜まるリスクもあるのではないか。これらが疑問として生じてから、私はこれまでよりもさらに注意してメンバーのSNSやnoteなどを見るようになった。そうするとやはり、これまでにあった苦労話として、そうした行き違いや葛藤があったメンバーは少なくないようだ。現地でイベントに参加した際にもメンバー間での熱量の差を感じた場面も正直無いことは無かった。会が終わり、参加者も運営側もホールの外に出る際、泣いて抱き合い、各々の努力を称え合う人もいれば、意外と涼しい顔をしている人もいる。おそらくこれまでに見えたこうした違いは、「どれだけ団体の活動にフルコミットしてきたか」や、「自分の人生の中で『旅』がどれだけの比重を占めているか」などの違いを表しているのだろう。(本人の性格タイプも関係しているだろうが)TABIPPOクラスの団体であってもこうした現実が垣間見えることは、私にとってはある意味の安堵を覚えることにも繋がった(どこまで行ってもおそらく意識レベルの上下関係は絶えず、それはいかなる組織・社会においても共通の課題であると思えたため)。ただ一方で、これを縮小しつつある地域での活動に落とし込んで考えると、やはり本質的な活動というのには限界があるのではと半ば諦観の意を抱くきっかけにもなった。ここで私がしたいのは当団体やイベントを批判することではない。寧ろイベントは素晴らしかったし、ぜひ来年も足を運びたいと思った。それは結局、同じ世代の学生があれだけ大きなイベントを創ったり、観衆の前で堂々とスピーチをしたりと、そんな姿に希望を抱いたと同時に、それまで失いかけていた「ワクワク感」を呼び起こすことができたからである。そう、かくいう私も、感銘を受けた要因の中に「旅」というキーワードは含まれていないのだ。

イベント内企画 世界一周コンテスト「DREAM」結果発表の様子

そしてきっと運営側も、必ずしも旅を人生のターニングポイントとしてほしいという願望はあまり無いのだと考える。それは西日本支部代表の学生のInstagramに投稿されていた動画メッセージから感じ取れたことである。そういう意味で考えると、私の楽しみ方はある意味意図されていたものなのかもしれない。

人を巻き込むのは、そしてそれを持続可能なものにしていくためには、

理念なのか、
カタチなのか。

少し「地方創生」というキーワードから脱線してしまったが、これ以降の思考は次の稿に回すこととする。

(ここまで述べた内容は全て私個人の見解であり、特定の組織等を代表するものではない。)

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