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【映画感想文】ラーゲリより愛を込めて

すみません…

本当はお休みなんですけど、どうしても今投稿しておきたくて記事にしました(笑)

かなり長文になりましたが、お楽しみください!


本当は、観る予定はありませんでした。

上映から2~3か月は経過していたので、もう上映は終わっているものだと思っていて。

だからこそ、小説版を購入して読みましたし、あとはNetflixとかで観れるようになるのを待つだけだと思っていたんです。

なので、映画館の上映スケジュールを見てみたところ、まだ上映がやっていてビックリしました。

じゃあ、観よう!となりまして、先日観に行ってきました!

みんな、僕も含めて鼻をすすってました(笑)

上映前

映画館の収益として、食べ物が重要な役割を果たしていることは学んでいるので、フライドポテトセット、ドリンクは抹茶ラテを頼んで上映中は楽しみました。

109シネマズで観てきたんですけど、フライドポテトめちゃくちゃ美味しいです!

塩味も強くて、それがフライドポテト全てに満遍なくかかっていて。

存外の喜びでした(笑)

抹茶ラテも美味しかった!

今回はアイスで頼んだので、今度はホットで頼みたいなと思ってます。

上映内容

小説と映画

正直小説版は読んでしまったので楽しめるのかな、とか思っていたんですけど、そう思うこと自体が失礼だったなと思うくらい凄かった。


小説版は、視覚や音から情報が得られないので、情景や心情とかを詳しく書くことになる。

だからこそ、すごく面白かった。

全ての情報や感情がダイレクトに伝わってくる感じが心地よかった。


けれども、映画も凄かった。

視覚や音から得られる情報量やエネルギーは、途轍もなく大きかった。

単純な衝撃で言えば映画がダントツだった。

特に、最初の満洲で起きたソ連からの空爆シーンで感じた。

緊迫した感じや絶望感が心身に突き刺さった。


その他のシーンでも、それはすごく感じた。

言葉の量で言えば、圧倒的に小説の方が多い。

けれども、それ故に視覚や聴覚から得られる情報に映画は集中しやすくて、集中するからこそ、文章からでは得られない膨大な情報が入ってくる。

言葉の間や声量、声質、動きのスピード、距離、顔の表情、背筋など。

小説ではそれを想像で補っているが、映画は、自分の想像を超えてくる。

絶望、悲しみ、怒り、喜び、生きる力、希望。

これらが自分の想像を超えて、そこにあった。

だからこそ面白かった。


なので、両方観てみると面白いかなと思います。

順番はどちらがいいのかは分からないんですけど(笑)

すずめの戸締まりのときも小説→映画だったので。

絶望と希望

この映画では、圧倒的な絶望と、希望を持つことの大切さ、希望を持つことの難しさを、学びました。


物語の初めである貨車でのシーンで希望を持っていたのは、山本幡生だけでした。

そこでは誰しもが、絶望を抱いていたにも拘わらず。

そこでは、希望の炎を持った人間はたった1人だけでした。

生きて帰ることができるかも分からなくなった状況で。


そして、その希望の炎は他の人にも種火として移っていった。

営倉に送られて心折れた松田健三のような人間もいれば、ソ連兵に従いながらも希望の炎を絶やさず持ち続けた人たちもいる。

山本幡生は、何度営倉へ入れられようと希望の炎を消さなかった。

だからこそ、希望の炎を持った人たちがソ連兵へ働きかけ、環境を変えて、今まで希望の炎を持っていなかった人たちにも種火が移っていった。

それは、山本幡生が病気で倒れ、希望を失い絶望しようとも、誰一人として絶えなかった。希望の炎を絶やさなかった。

生きて日本に帰るために。

生きて家族に会うために。


これほどの絶望の中で、希望を見出すことなんて生半可なことではない。

ほとんどの人が絶望で苦しむはず。

その証拠に、山本幡生に会っていない人たちの悉くが絶望に苛まれていた。

けれども、だからこそ大切なんだと。

人が生きるのに必要なのは希望なんだと。


「生きてまた会える。日本で落ち合おう」

「必ず生きて帰るんです。家族とそう約束しましたから」

「生きる希望を捨ててはいけません。ダモイの日は必ずやって来ます」


この言葉、この想いが、遺書が全て家族に届いて、モジミの

「お帰りなさい、あなた」

という言葉で締めくくられたとき、心からそう思いました。

諳んじる

書物などを見ないでもそのとおりに言えるように覚えこむ。

これが、諳んじるの意味です。

これは、松田、相沢、新谷、原の4人が、山本の遺書を4分割してそれぞれ覚えるときにした行動であり、この映画の主題歌のタイトルにもなった言葉。

山本の言葉を、想いを家族に届けるために、希望を捨てないためにした行動。

遺書は、山本の生きていた証であり、山本の最後の希望そのもの。

この物語で一番重要なシーンであり、根幹でもあるこの言葉を抜き取った主題歌のタイトルは流石としか言いようがないですよね…(泣)


主題歌は、一見「幡生からモジミや家族へ送った歌」に聞こえるんですけど、全ての人に共通した歌だなと思いました。

特に、夢を諦めようとしている人や生を諦めようとしている人に突き刺さる言葉じゃないかなと思います。


そんな遺書とは違って、この物語は記憶に刻まれたものだなと思います。

この物語は事実に基づくものであり、語り部は松田。

けれども、決してこれは諳んじてきたわけではない。

松田の魂に刻まれた出来事が詰まった物語。


遺書は山本幡生の家族にどうしても届けたかった。

けれども、山本幡生や他の人たちとともに生き抜いた日々は諳んじるまでもない、絶望と希望に満ちた大切な日々だった。

そう考えると、胸に来るものがありますよね(泣)

遺書

遺書は、原、松田、新谷、相沢の4人によって届けられました。

届けたときは、笑顔だったり涙を流していたり、様々でした。

けれども、よくよく考えてみると4人の笑顔や涙には理由があったことを映画を観て思い出しました。


原は、遺書の本文を届けた。

「私の家族には笑顔で会ってください」という遺言を守り、ラーゲリで生きる希望を思い出させてくれた後輩への恩返しとして。


松田は、山本の母親であるマサトへの遺書を届けた。

松田は、ラーゲリ内で心配でならなかった母親を失っていたことを知った。

遺書を読んでいる山本の母親と自分の母親を重ねて、涙していた。


新谷は、子どもたちに対する遺書を届けた。

ラーゲリで山本に言葉を教わっていた。

教わっていた当初は、大人にすら読めるかどうかだったと思う。

けれども、ラーゲリでの捕虜生活を終えて、遺書を届けるころには子どもたちにも読めるくらいの文字が書けるようになっていた。


相沢は、山本の妻モジミに対する遺書を届けた。

相沢は、ラーゲリ内で妻とそのお腹の中にいる子どもを失った。

絶望の中で、山本に生かされた。

妻に対していい思い出を作ってあげられなかったかもしれない。

そうずっと思い続けていた相沢にとって、他人の妻であれど、遺書を届けることができたのは、嬉しいことだったのだと思う。


希望を持つということ

こうして、希望を持ち生き抜いてきた物語は、何より尊い。

時代を超えて多くの人たちへと自分たちの想いを伝えることができた。


愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。


希望を持つことを忘れず、生きていきたい。

そして、その希望をいつか他の人に伝えることができたのなら…


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