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祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#20

 岩国駅も復興し小さくはあったが、大ぜいの人が利用していた
汽車の発者がおもしろいのか、はたまた、父の帰りをまっているのか毎日毎日、日には二度も三度も駅まで見に行っていた。
夕方、幸枝と薫がハアーハアー息を切らして走りながら「カアシャン、カアチャン」云いながら帰ってきた。「今兵隊さんが、こんなさきに帰っちゃた。駅から姉チャンと二人で内の方へ行くから、これが父チャンじゃろーと、喜んで後ろから追ってきたらこの先で違う方へ、すーと行っちゃた。ありゃあ、どこの父チャンじゃろうかなー」、期待と喜びが裏切られた様に半泣きになってうったえたことがある。

 二十一年七月、薄曇りであったが、風のない静かな日であったと覚えている。
何の前触もなく、ひょっこり義兄さんが来られた。以前私共家の隣にいられたが、三原の会社に行かれ再度海軍に召集を受け、終戦まで務めて、その後柳井の生家に一家で引上げてこられた。今は伊陸の方に田畑を持ち百姓を営んでおられる。
その義兄さんが何で来られたのか、家の中に入らず庭に立ってジートしていられる。あまり様子がおかしいので義兄さん石井に何事かあったんですか。そこでは話も出来ませんから家に上って下さいよ。
私は畑仕事をしていたので、手足を洗って、内に入って見ると義兄さんは仏壇に両手を合わしている。
先ほどと同じ質問をする。
義兄さんは「ふーん栄がよう帰らんらしいよ」頭を下げて云われた。
私も戦場に征ったからにはあるていどは覚悟はしていたつもりだが一瞬目がくらみ息の止まる思いだった。
義兄さんの膝にのったり、肩に登ったりしてはしゃいでいた薫が、瞬間私の顔を見つめ、目を伏せたと思ったら、おんおん泣き出した。
あの時薫はどんな思いで泣き出したのであろう。父親との約束が出来なくなったからか、父親の死を聞いて寂しさを感じたのか、父親にはもう会う事は出来ない、その悲しみのためか、私には分らない。ただ、私に分っていることは、この時から片親という辛さと、父親の居ない寂しさを背負って行くことだけを・・・・・・
大家のおばさんが、風呂に入れと呼びに来たので、義兄さんを待たせて薫をなだめて風呂に行く。しくしく泣くので、おばさんが「薫君二年生にもなって、お母さんを困らしてはいけんじゃろうが」これで酷く泣き出す、おばさんは薫がなぜ泣くのか知らない。
訳を話せばいいのだが、戦死が会社に分かれば召集手当がもらえなくなる。
手当が今、な一くなると生活が困るのだ。
「ぐずぐずいって困るんよー」おばさんをそんなふうに云ってごまかした。
風呂の中で、小さな声で「のー薫、お兄チャンが泣き虫じゃあいけんようのー、父チャンがよう帰らんかったら、母チャンがあんた達を大きうせにゃならんで・・・恵子も栄子もまだ小さいし、姉チャンは女だし、男の薫がしっかりせんけりゃーいけんで」薫に云うともなく、自分自身をはげます様に云ってきかすのだった。
涙が、ほほをとめどもなく流れた。
その夜は、義兄さんが薫を抱いてねて下さった。
学校も夏休みではあるし、疎開でなじんだ山や川、友達にしたれば、薫の感情もうすらぐであろうと翌日昼前に石井に連れて行かれた。
義兄さんが家にいられる内は深く考えなかったが、薫をつれて帰られると、夫の死の知らせが現実として淋しさ、やる瀬無さが後から後から涙と共にこみ上げる。

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