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「身体に残る」いい舞台について

私は日芸の演劇学科出身なのですが、私の所属する演劇団体COoMOoNOの舞台に、殆ど欠かすことなく足を運んでくれる、母校の演出コースの先生がいらっしゃいます。

COoMOoNO主宰のモコさん(伊集院もと子)は演出コース出身で、先生は在学中からとても応援してくれているのですが、
私はと言いますと演技コース専攻で、しかもあまり学内活動に積極的な良い生徒ではなかった為、先生とは在学時に接する機会が全くなく、卒業してからも、いつも観に来てくれるあのイケオジはどなたかしらと暫くのあいだ思っていたのですが(最低だ…)。日芸の講師であったと知ってから、演技コースの先公達に嚙みついて悉く授業をサボタージュしていた身としましては「こ、こんな素敵な大人が大学にいたのか…」と激しく後悔したものです。
舞台を観て、自分の演技について最も言及してくれるのも先生かもしれませんし「そいつが何をやっているか」をちゃんと見てくれる人がいるのは背筋が伸びますし、日々とても感謝しています。
そんな私が”先生”と呼ぶのもおこがましいので普段はお名前で呼んでいるのですが、ここでは先生と記すことにします。

先日、その先生の、立ち方(俳優)としては最後となる舞台を観に行きました。

横浜市・大倉山記念館ホールにて

ミーム(マイム)の無言劇でしたが、本当に心震えるステージでした。

氏は基本的には演出家であって立ち方が本職というわけではないと仰っており、私も先生がステージに立つ姿を観たのは初めてでしたが、
品があって、色気があって、歴史があって、技術があって、お洒落で、それでいて表現は静かで、とにかく格好良く、素晴らしい作品でした。舞台観て泣いたのなんて、何年振りでしょう。
『演出家は演技が出来なくてもいい』という考えの方もいますが、私は『手本が出来る』ことは演出家が演出家たる理由の一つだと考えているので、本当に尊敬しかありません。

良い舞台というのは、鑑賞ではなく体験になり、舞台に立つ人の重さが、記憶ではなく身体に残ります。「手に汗を握る」という言葉がありますが、観客が目の前で起こっているものを”傍観”するのではなく、前のめりに参加しながら”目撃”しているといった体感が、そういった作品にはあるものです。
『他者の重さが自分の身体に残る』という体験は、人生を豊かなものにするには、なくてはならないものだと私は思っています。


子供の頃、熱中して観ていた特撮やアニメの登場人物の真似をしていたような経験が多くの人にあったんじゃないかと思います。大人でも、かつては任侠映画を観に行った帰り道に高倉健よろしく肩で風切って歩いてみたり、といった時代があったかもしれません。
しかし現代で、そうした体感を伴いながらモノを観られる機会はとても少なくなっている気がします。

音楽やスポーツその他のジャンルの芸事には、今でもそういった体感や伝染力はあるのかもしれませんが、しかしこと芝居に関して言えば、『参加』ではなく、『傍観』の姿勢での鑑賞体験が通例となっている空気を痛切に感じることがあります。
それには、披露する側の力が足りていないという問題も勿論あると思いますが、それとはまた別軸で、観客側が芝居を”どう観たらいいのか分からない”という根本的な鑑賞姿勢への戸惑いが根底的にあるようにも思います。とりあえず、今そこにあるものが「本当か嘘か」を観ていれば、けっこう楽しめるんじゃないかとあたしゃ思っているのですが…。


芝居は『今、そこで何かが本当に起こっているかどうか』が生命線です。
ドラマはフィクションであり、どう始まってどう展開してどう終わるのかが予め決まっています。しかし『だから嘘である』とは限りません。
作戦や狙いを以て稽古をしたり演出をつけてもなお、最終的に演者がやらなくてはならないのは、”予め用意しておいたものをそれっぽく披露する”という嘘ではなく、”その瞬間に生きたやり取りを1から組み立てる”という本当のことでなくてはならないわけです。それが出来れば、そこで行われる(共演者や観客との)実際のやり取りは本当のことになりますが、
しかしその『今、目の前で本当に何かが起こっているのか/いないのか』を判断できる感覚が、やる側も観る側もだんだんと鈍くなってきているように感じます。

具体的なことを省いて平たく言ってしまえば、観たものが『身体に残る』かどうかは、ステージ上の人間の『肉体が必死かどうか』がキーポイントであって、仮に気持ちや心情が一生懸命であったとしても、残酷なことに、結局身体にそれが乗っからなければそこに全く真実味は帯びません。
演技行為も、スポーツや演奏と同じくアクション(働きかけ)ですから、”気持ちが先行して後から身体が付いてくる”ことはまず起こり得ません。『悲しいから泣く』『楽しいから笑う』のではなく『泣くから悲しい』『笑うから楽しい』という”肉体が先行して後から気持ちが付いてくる”というアプローチしかできません。気持ちは自己の内側で勝手に作るものではなく、他者とのあいだで生まれるものだからです。『予め用意すること』は出来ないのです。もし自分の気持ちで世の中を動かせるなら、私は札束溢れるバスタブで美女を両手に抱いている日々を送れていたでしょうに(最低だ…)。

しかしまあ自身も含めて、自分の内側が自分の気持ちでいっぱいになってしまって、自分の外側にあるものを自分の身体の中に取り込める余裕がない状態・頭がいっぱいになって身体が付いてこないという状態が、特に若い世代には何だか慢性化しているように思えます。前回の記事で共感についても書きましたが、自分と他者とのあいだ、もしくは自分とそれを見ているもうひとりの自分とのあいだに、適切な距離感がつかめないと言いますか…。


現代は余裕のない時代です。
錯乱した国内財政がもたらす30年以上続くデフレの中で金銭的余裕もなければ、身に余る液晶越しの情報過多にもまれて精神的余裕もなく、その中で時間的余裕や身体的余裕を確保するためには、何が必要かではなく何が不要かを優先的に処理して生きていくことが強いられ、
とにかく”目の前の物事にじっくり対峙できるような”余裕がありません。そりゃその判断力や身体が鈍感になっても不思議じゃないかもなとは、ちと思います。

しかし厄介なことに、そんな中でも”とりあえずの”衣食住が揃った生活はほとんどの人が出来るわけですから、それ程その余裕の無さを実感することはないのかもしれません。戦後、焼け野原の状態から再興しなければならなかった時代の人々は、その意味では今より余裕はなかったでしょうから、現代のその仕組みを贅沢なことと受け取るか、貧しいことと受け取るかは個々の考えによるかもしれませんし、現行の時代感に沿った中で損をしない生き方を模索することも大事なことだとは思います(まあ個人的にはあんま思わないけど...)。厭世的になってしまっても良いことはないのですが。

しかしそれでも、『予め用意されているという幻想への油断』で必死な肉体が獲得出来なかったことで、他者と関わることに臆病になったというような弊害は確実にあると、自分自身思うところはありますので、昔からカウンターカルチャーが好きで芸事をやっている身としては、懐古主義的と思われたとしても「いーえ、温故知新です!」とギリギリまで抵抗していきたいという所存です。


上の世代の方の創った良いものを観ると「うぅ…だって生きてきた時代が違うしよぉ…モノが違うぜ…」とウジウジしてしまうウジウジ星人な私ですが、そんな中で今回のステージで背中を押されるような、勇気付けられるように感じることが出来たのは、ひとえに先生の愛の力だと思います。ビッグラブ。とにかく立ち会う事ができて、本当に幸福な体験でした。

そもそも劇場という処は、気負って行くのではなく、キュートな女の子(キュートな男の子でもいいんですが)とのデートコースに組み込めて、その後そのままの流れで食事に行けるような、でも観劇のことを忘れるわけではなく、観る前と後とでは、1段自分のステージが高くなっていたり、見える世界が広がっているような、そんな実感や心持ちを掴める清々しい処であるべきだと常々思っているのですが、今回その正解を見た気がして、とても晴れ晴れとした気持ちになりました。

先生の表情や、手つきや、観客を誘ってタンゴを踊り始める様も、今もさっき観たばかりかのように残っています。
自分も腐らずいいもの創らないとなあと改めて思ったのでした。

またなんか長くネチネチした作文になってしまいましたが、もう自分の性格ということで諦めましょう。
しかし!次回は俺が地球上でもっとも可愛い生物だと思う〇〇についての、マジで内容のないものを書く予定なので安心してください。履いてますよ。

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