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『共感のキケン』について

電柱の影にじっと隠れている猫を見つけて近付いていって微笑みかけたらレジ袋だった時のあの気持ち、きっと共感してくれる人は多いはずです。
下手したら私は人間よりセブンイレブンの茶色いやつに微笑んだ回数の方が多いかもしれません。

ところで『共感』て「あるある〜」「わかる~」と日常でライトに扱う分には楽しいんですけど、シリアスな場面ではけっこう危険な現象に思えます。

共感とひと言に言っても、その言葉で何を指すのかは人によって微妙に異なると思いますが、共感という状態を2つに分ければ認知と情動ですよね。
たとえば辛い目に遭っている人を確認した時『この人は辛いのだ』と認識するのが認知で『自分も辛い』気分になるのが情動です。

認知的な共感性は高いに越したことはないと思いますが、情動的な共感性に関しては高けりゃ良いというものではないと思います。全く無いのも問題でしょうが、そうしたものに判断の多くの部分を担わせると、大概、問題は悪化していくことが多い気がします。

"人の気持ちが手に取るように分かる"ということは、どんなに近しい間柄でも起こり得ないわけで、
だから人は言葉を使ったり、アクションを用いて、他者との共有事項を増やそうと『気持ちに頼らない』コミュニケーションを発展させてきたわけですが、昨今においては、そうしたコミュニケーションは段々と退行してきたように思います。

現代では効率的に情報を取捨選択することを優先するからなのか、何かしらの判断にあたっては、情動的共感性が高いかどうかが主軸になり、"自分の外側にあるものを見る・聞く"ということよりも、"自分の内側で都合良く消費する"ということが、生活の様々な場面で無意識に行われがちな気がします。

ことSNSにおいては、悪気はなくとも、当人の代弁や肩代わりの形を取って「彼・彼女らの話」を「自分・私たちの話」にすり替えてしまう『主語デカ話法』を頻繁に目にしますが、これも自分の外側にあるもの(異物)へ接触しているつもりが、実のところ自分の内側に籠っていく『共感』の罠に足を取られている感じがしますし、もしそうした言動の奥底に能動的な「共感したい/されたい」の依存的欲求があるしたら、もう相手がどうとか関係なく自分のことしか見てない訳ですから、そいつはもうちょっとしたホラーのようにも感じます。

だからといって「フン、他人とは分かり合えないのさ」みたいな永沢くんみたいな事を言いたいわけではなく、not双方向but同方向の共感はとても大事なことだと思うのですが。
なんか、図にするとこんな感じでしょうか。

双方向。こわい。
同方向。いかす。

ギリギリのラインで訴えられない絵柄だと強く信じています。
イラストとは一切の関係はありませんが丸尾くんと花輪くんの名前の由来は、丸尾末広と花輪和一というのは本当なんでしょうか。


ところで日常だけでなく、創作においても「共感できる/できない」「共感したい/されたい」という価値観は、昨今わりかし重きに置かれがちな気がしますが、作り手や観客が初めからそこを求めるのは、ちょっと人類補完計画的と言いますか、危険な匂いが個人的に致します。

観客として何かの作品を観たときに「自分はこういう話だと解釈した」とか「自分の人生の似たような経験を思い出した」みたいな思いは、個人の感想としては勿論良いと思いますが(或いはその個人的解釈がブッ飛んでて作品そのもより面白い場合も結構ありますけど)、果たして”モノを見る”時の観点が内側に終始してしまうと醍醐味が無いというか、自分の外側にいる他者(異物)をストレートに感じなければ何だか勿体なく感じてしまいます。


昔、著名人が出身小学校で授業をするという「課外授業 ようこそ先輩」というNHKのテレビ番組があり、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんが、かつてそれに出演した際に『地図を描く』授業をしていました。

番組では、学校から自分の好きな場所まで、初めてそこを訪れた人が迷わずに目的地まで行けるような地図を描かせる授業をするのですが、その中で「大事なのは物事をしっかり捉えて正確に伝えること」「人が見て分かるようにするということは、人のことを考えるということ」だと子供達に伝えていました。

最後に『魔女の宅急便』をクラスの子ども達に見せた後、鈴木さんは感想なんかどうだっていいと「皆さんには今見た映画の、キキが暮らしていた街の地図を描いて欲しい」と地図を描かせました。

モノを見る時、自分の思いより先ずはそこに何があるのかを、素直に正確に受け取ることの方がよほど大事で難しいということと、
創り手が雰囲気ではなく、実際的な部分で作品を作っていれば見た人も正確な地図が描けるのだということに対して、
「きちんとモノを見る・モノを創るというのは本来そういうことなんだ」と私は感動してボロ泣きしたんですけれども、それは今でも自分の中でとても大事な心得になっています。

こないだ横浜に行きました。このnoteの売りは唐突さです。

情報過多な世の中ですが、情感>認知の共感で勝手に他人事を自分事にせず、他人事は他人事・客体は客体という意識をしっかり保つことが健康的サバイブの秘訣な気がしますし、それが出来る人は一見冷たく見えて他人に優しい人だと私は思いますので、自分もそんな人になれたらいいですよね、はは。(他人事)


そんなこんなで、目指せ週1投稿の目標は五月病により見事に叶わぬ夢となったわけですが、病もようやく終焉を迎えつつありますので、ぼちぼちライトで明るい話題もブリブリ振り撒いていきたい所存です。

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