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「シン・ゴジラ」と「ゴジラ-1」の比較

今年の3月10日、山崎貴監督作品「ゴジラ-1」(以下マイゴジ)が視覚効果賞を獲得した。その後、あろうことかスピルバーグ監督などが所属するエージェンシーにスカウトされるという代々大快挙を成し遂げたことは日本映画界に衝撃をもたらした。最近ではNETFLIX、Amazon primeで本作の視聴が解禁されたことから、新たに本作を鑑賞された方などもおられるのではないだろうか?

バンクーバーはサレーにあるギルフォードショッピングモール。そこに併設されるCineplexでマイゴジを見た時のことは今でも鮮明に記憶に残っている。ドミニカ人の友人から「すごくいい作品だから見るべき!」と勧められたはいいものの、当時の僕はシンゴジラファン。「どうせシンゴジの焼き増しで、あそこほどの名作ではないだろうね」、ぐらいの下世話な批評家根性でポップコーンにバターをかけていた。実際、日本系の実写ゴジラはここ20年間この2作しか制作されておらず、両作品に優劣をつけて通ぶりたかった僕の無礼も、しょうがないとご容赦いただきたいところだ。あまり大きくないスクリーンで居合わせた、行儀の悪い若いインド人2人と3人きりで本作を見終えた後、「これなんかシンゴジラと違う、、!」という感覚とともに帰路についた。

さて、ようやく本編に入るのだが、本稿の目的は題名の通りだ。同じゴジラという題材を扱ってはいるものの、映画全体としては全く異なる風貌を帯びる両作品を比較してみよう、というもの。そして、端的に言うとその雰囲気の違いを創出しているのは、異なった映画として目的の違いが故だと僕は考える。そのため、両作品に優劣はつけがたいのだ。暑い日にすすっと食べたい冷やし中華と寒い日にハフハフすすりたい味噌ラーメンが違うのは当たり前だし、それぞれの良さがあるよねっていう。なので双方は全く異なる作品とし、この点はこっちが優れててこの点はそっちが劣ってるはという順位づけではなく、純然たる相違のみを抽出したい。それが本稿の目論見だ。論法としては、最初に根本的な目的の違いを述べ、のちに目に見える具体的な違い(ゴジラの戦い方、主人公の扱い)を露わにし、再度それを生を確認するという、帰納法を採用したい。


両作品の数値的比較

両作品の数値的比較

まずはわかりやすい軸として、日本と海外の映画評価サイトそれぞれの点数、そして最終的な興収の比較をしているのが表だ。比べてみるとマイゴジが海外において、より結果を残していることがわかる。どうやら


ゴジラとは?


まず比較の前に、ゴジラとは一体何のキャラクターなの?ってとこをささっとおさらい。ゴジラとは、1954年に公開された特撮映画「ゴジラ」に登場する固有のキャラクターのことであり、太古の恐竜をほうふつとさせる見た目が特徴的だ。キャラ設定としては、米軍の水爆実験によって汚染された太平洋において偶然生まれてしまった原子力怪獣というもの。これは、同年ビキニ環礁において発生した第五福竜丸被ばく事件と酷似している、というかその影響をもろに受けていると考えていいだろう。また、制作が終戦から9年ほどしか経過していないという事実から、日本に投下されたに初の原子爆弾との関連性にも注目せねばならない。ジャーナリストの佐々木はそれに関して以下に述べる。

しかし『ゴジラ』の企画は、第五福竜丸事件の以前から進められていた。作品の描写は、水爆実験よりも太平洋戦争の影の方が色濃く出ている。なにしろまだ終戦から9年しか経っていない。

たとえばこんなシーンがある。「政府 ゴジラ対策に本腰」という新聞記事に、通勤中の会社員たちがうんざりした表情で話す。「もう、いやなこったあ……。せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた、大切な身体なんだもん」「そろそろ疎開先でも探すかな」「ああ、また疎開かあ。いやだなあ」

佐々木俊尚が分析、原爆の象徴『ゴジラ』シリーズが伝える「戦後」


そして、初代ゴジラの監督である本多猪四郎へのインタビューにおいても

戦後の暗い社会を尽く破壊、無秩序に陥らせる和製キングコングを作りたかった

という言質が取れている。
すなわち、ゴジラという記号は原子力というテーマに悩ませられた日本に上陸した無秩序な破壊存在と定義できるだろう。

比較本編

さて、両作品は映像作品としての目的を異にすると思われると述べたが、結論から先に言おう。シンゴジラが「日本VSゴジラ」、マイゴジが「敷島VSゴジラ」すなわち国家VSゴジラと個人VSゴジラを描きたかった、というのが最も根本的な違いであると僕は感じた。言い換えると、シンゴジラが叙述的である一方、マイゴジは叙情的なのだ。すべての子細な違いはそこから派生して生まれているといっていいだろう。なのでこれからの本編では、映画にちりばめられた具体的違いを感じ取り、それを帰納的に上記の式に当てはめていく作業が主になる。

さて、大枠の構造的違いを仮定したところで、具体的な違いを追っていこう。

戦うゴジラ

第一の違いとして、人間との戦闘に際するゴジラの行動に違いがみられる。以下参照。

ゴジラの行動原理の違い


雄たけびを上げるゴジラ (マイゴジより)


雄たけびとは生物が敵を威嚇する際に行う行為であり、マイゴジではゴジラ(以下マイゴジラ)が人間を「敵」として認識していることがわかる。それに合わせて、攻撃にも主体性が感じられるのも特徴の一つだ。明らかに個人を狙った初登場時のやぐらへの襲撃からはじまり、海上での戦闘も自らが仕掛けた攻撃である。戦い方も、光線による攻撃だけではなく、しっぽを用いた物理攻撃を駆使したり、体を劇的に動かす様子も見受けられる。

一方、シンゴジラでのゴジラは、一言でいうと「反応」としての攻撃がほとんどだ。初登場時の初期形態から最終形態にかけて、一貫してゴジラが自ら興す行動は単なる「上陸」。それに対する(特にゴジラから攻撃を受けたわけではないのだが)自衛隊による軍事行動へ反撃する形をとってのみ攻撃がなされる。攻撃方法も基本的には光線による反撃が主で、体を大きく使う様子は特にない。我々が恐れるサメが、ほとんどの場合人間を襲わないように、このゴジラも人間への主体的な攻撃は見られないのだ。

この対立から鑑みるに、マイゴジラは明らかに人間に相対する敵である一方、シンゴジラのゴジラは、あくまでそこに現れただけの「巨大不明生物」として定義づけできるだろう。

ちなみに、ビジュアルに関してだが、マイゴジラのほうが手が長い。どこか人間に近い形状のように感じられる。


コラム(ゴジラのモデルの違い)


上記の違いに関してだが、これらはゴジラのモデルの違いから生まれたものだろう。そして、おそらくマイゴジは「原爆」もしくは「戦争そのもの」、シンゴジラは「原発」がモデルだろう。シンゴジラの公開が3.11の5年後、2016であり、マイゴジが終戦直後であることからもそれは感じられるが、すでに述べたゴジラの行動の違いからも結び付けられるものがあると考える。例えばマイゴジラが明らかに攻撃の意図を持っていることは人間の意思を端に第二次世界大戦がはじまり原爆が投下されたことにつながる。実際監督の山崎貴氏もインタビューで以下述べている。

「『戦争で傷ついた人たちが、ゴジラという、ある種、戦争のメタファーのような存在と向き合った時にどういう行動をするのか?』という状況設定も、「映画」的というか、文芸的的だなと感じました」

ダ・ヴィンチwebの監督本人へのインタビューより抜粋

一方、シンゴジラに関しては、原爆というより原発の比喩としてのそこにあるように思われる。福島第一原発の事故が、東京電力の不手際があったものの、自然災害によって偶発的に起こったものであることは、シンゴジラの非・恣意性と結び付けられるだろう。また、ゴジラ自体、海に投棄された放射線廃棄物を食べ続けた結果、体内に核融合を基としたエネルギー生成器官を備えているという相似っぷり。おまけにシンゴジラのラスト。日本政府はゴジラを一時凍結したものの、その場にとどめるほかなく、さらには周囲の放射線濃度は非常に高いまま、というなか「これからこのゴジラと付きっていかなければならない」というセリフまで放たれる。この一連のナラティブは福島第一原発の爆破事故のメタファーと考えても無理はないだろう。

個人的に印象に残ったのは、ゴジラの初登場時、その対処法を暫時的に迫られた閣僚たちの間に「まあ大丈夫でしょう」的な融和なムードが流れる中、矢口が「先の大戦では『こうあってほしい』といった希望的観測のせいで~」というシーン。「失敗の本質」や「空気の研究」で歴史家たちが指摘するように、事実確認を怠った希望的観測による見当違いの目算は悲劇を招いてきたようだ。ミッドウェー海戦では敵艦隊の破壊状況を見誤った結果想定外の攻撃を食らうことになる。対戦全体の要旨も、東南アジアの獲得によるアメリカ軍の「士気喪失」という他者心理依存だった、と同書では語られている。また、この様なある種決めつけによる失敗は3,11にもみられた。2008年、東電設計によって行われたが第一原発に起こりうる津波の目算が15メートル(敷地内の壁は10メートル)を超え、経営層に増設の進言をするも棄却されてしまう。結果論になるが3年後に実際に大型の津波が発生し原子炉が設置されている区画は浸水、機能を失うことになる。このような希望的観測による結果的損害は二回の原子力事変で日本が経験してきたことだといえる。庵野秀明は原子力の化身としてのゴジラをそれらと重ねて語りたかったのかもしれない。

以上のように、ゴジラが「原子力」の影を感じさせる存在であることが確かである一方、それを表す具体的な出来事を両作品は異にしているといえるだろう。


主人公(ひいては物語として)の違い

怪獣としてのゴジラの違いは、翻って登場人物の意思の濃さと比例関係にあると考える。そう、先に述べた通りシンゴジラが日本対ゴジラである一方、マイゴジは個人対ゴジラを描いているため主人公の扱いが違うのだ。例えば、個人対ゴジラを描きたい場合、もしゴジラが基本歩き回るだけの受け身ゴジラだったらどうだろうか?そうなった場合マイゴジのように主人公がゴジラに私怨を抱くことはないし、ボケボケ歩いてるだけのゴジラに鬼気迫る顔で特攻する主人公がいたら、はたから見るとどこか暖簾に腕押しのような虚無感を感じてしまうのではないだろうか。そう、アグレッシブに攻撃するゴジラだからこそ、主人公の戦う意思が浮かび上がってくるのだ。

戦う理由

主人公のキャプション。wikipediaを基に作成

上記は各映画のwikipediaページに記載されている登場人物紹介文の冒頭部分だ。お気づきの通り、矢口の説明文では彼の政治的地位のみにフォーカスしている一方、敷島については彼が「何をしなかったのか」、転じてこれから彼が「何を克服するのか」が書かれている。それ以外にも特攻に行かなかった自己嫌悪や守りたい家族の存在といった戦う理由も積もっていく。言うなればゴジラと戦う個人的な大義名分があるということだ。画面に映る映像も、彼、もしくは彼らの心理的描写を映したものが大半だ。

だが、矢口達一行のたたかう理由としては「首都圏を破壊されることによる日本国の機能不全を防ぐための巨大不明生物の駆除、もしくは機能停止」でしかない。そこには自己実現や大切な人の守護などといった内発的動機のナラティブは特にない。(もちろん敷島達も日本のために戦うが、よりフォーカスされる動機は敷島の個人的なものである)政治家、官僚たちの意思決定が淡々となされていくさまがスムーズに

実際、敷島はゴジラと相まみえて戦う一方、シンゴジラで実際に戦うのは自衛隊とアメリカ軍。矢口は指揮を執る文官である一方、敷島は実際にゴジラと戦う武官であるという違いが、以上の違いを生み出している。

ゴジラの倒し方

最終的に両作品ともにゴジラを倒す(?)ことに成功するが、その方法も以下のように異なる。

シンゴジラ
ヤシオリ作戦によるゴジラの凍結。爆撃とそれに伴うビル群の崩壊を使ったゴジラの転倒、および血液凝固剤投入によるゴジラの活動停止

マイゴジ
詳しい原理はわ駆らないが、とりあえずゴジラを海に沈めようというわだつみ作戦。いろいろあり失敗するかもしれない、というところで主人公の飛行機がゴジラの口内に突撃し、成功。

ここで特筆すべき点は、マイゴジにおいて、実際にとどめを刺したのが主人公であるという点。そして、ゴジラと特攻から逃げたという過去のコンプレックスを解消した点である。かつて腰を抜かして逃げてしまったゴジラに飛び込んでその勇気を証明した。同僚である橘が取り付けた脱出装置のおかげで「特攻」にならなかったのも、それを美談にしたくない制作側の意思の表れだろう。


まとめ

大変長引いてしまって恐縮だが、以上が両作品の比較である。シンゴジラは日本VSゴジラを、マイゴジは個人VSゴジラを描きたかったのではないかという仮説から入り、それを補強する具体的な違いを作品内から抽出して述べてきた。お見せした通り、細かい主人公の特性、ゴジラの戦い方等が、物語の目的を達成するためにカスタマイズされ、その個々のパーツの違いが物語の雰囲気の違いを醸し出している。


ゴジラマイナスワンを鑑賞してすぐに「シンゴジラとの比較書いてみて~」と思ったものの、当時の自分は怪物の感想を書くのに全神経を注いでいたため本稿の作成がなーなーになってしまっていた。ネットフリックスに本作が公開されたのは、本編の詳しい内容も忘れかけてしまったそんな矢先のことだった。両作品は日本という国への大いなる期待が込められた、素敵な作品だと思う。山崎監督が述べているように、これは敗戦国たる日本で作られる必要があると感じたし、日本ではしばらく評価されるゴジラ作品は生まれてこないと思う。なぜなら2つのパターンの最高峰がすでに生まれてしまったから。

不安定な世界情勢であるが、ゴジラに比喩されるような事故や事件が今後起きないように願うばかりである。




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