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海と枝豆と震災復興と / しもつけ随想02

 日光で高校時代まで過ごして、山形で大学時代を、卒業後の約3年間は仙台で暮らした。その後、日光へ戻り、宇都宮で働くことになるが、東北への思いは残った。山あいの小さな町で生まれ育ったので、山形では空の広さに感動し、仙台では都市のにぎわいと海のある環境にひかれた。中でも海には特に思い入れが深かった。通算15年以上東北で過ごしたので、第二の故郷だと今でも思っている。

 東日本大震災で、再び東北へ向かう事になるなど想像もしなかった。
 震災前からのご縁で、仙台の「都市デザインワークス」というまちづくりコンサルタントの一員として、仙台沿岸部の復興まちづくりのお手伝いをすることになった。仙台沿岸部は、なだらかな仙台湾に沿った平野が続き、都市部に近いながら豊かな自然環境が残り、農業や漁業の営みがあった。津波は穏やかな地形を数キロ遡上し、人々の暮らしや命をも取り上げた。

 暮らしやコミュニティの再建方法の検討支援や、失われた居久根と呼ばれる屋敷林や海岸林の再生などのいくつかのプロジェクトに関わった。
 暮らしの再建は急務で、町内会単位で復興計画を作成し、それを指針とした。
 私は約7年間、二拠点居住で年に30往復以上しながら仙台の業務と並行して日光のNPO活動も行った。

 そんな生活の中、沿岸部へ打ち合せ等で出掛けると地元の野菜などを頂くことが多かった。中でも枝豆が多かったと思う。津波を被り塩害がひどかった田んぼでは、そうした土壌に強い枝豆が一時的に作られるようになった。仙台の1人暮らしの部屋で小さな鍋でゆでて塩をふって食べた。うれしさと同時に、少しでも自分が役に立てているという微かな誇らしさもあった。しかし、思えば、自分の役割とは逆に地域の方々のふとした言葉や被災してなお持ち続ける優しさ、おおらかさに支えられてばかりの7年間だった。

 2019年で役目を終え、日光に戻った。地域が自立できれば、我々の役割は終わる。離れてからやっと復興の「現場」での経験を整理できるようになってきた。
 震災復興の過程では決して悪いことだけではなかった。地域の方々は口々にそう言う。地域の課題が明らかになり、新たな風をもって再生活動ができた。私のような役割の者にも成長の場が与えられた。大げさに言えば、私もまた震災によって生き方が変わったうちの一人なのかもしれない。

 今年3月には発災から10年の節目を迎え、本当に多くの行事や報道がなされた。「忘れない」と「忘れたい」が交差したまま、「長かった」と「あっという間だった」という感想もまたさまざまである。さて、この9月に迎える10年半を、半年後の11年を誰が語ろう。

 ここ数年、毎年どこかで発生している自然災害の多さは気になるところだ。経験から、小さいコミュニティ単位での防災と復興が肝要だと感じている。コロナ禍で雨続きのしょぼくれた夏の終わりに、枝豆を食べながらそんなことを思い返している。山あいの日光にいるのに、私にはほんの一瞬、仙台沿岸部のあの潮風が吹いたように感じた。

しもつけ随想_okai_02

[2021/09/01下野新聞掲載]

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