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長編小説:屋根裏部屋のドラマチック⑥

 テストが終わって、一週間が経った。
 学校に通い始めてから、サユリの生活は激変した。それまでは昼過ぎに起きて夜早くに寝るという、十六歳の少女にしては怠惰な、八十歳並の生活を生活苦を繰り返していた彼女だったが、学校の登校時間に合わせて七時には目を覚ますようになっていた。普通、学生諸君にとっては早起きは三文の損だったが――寝られるなら一秒だって長く寝ていたい――、サユリは、初めての規則正しい生活に、身体が少し軽くなった気がして、喜んで早起きした。以前から健康手帳を読んで、人が健康になる方法を多く知っていたが、それを実行するきっかけがなかったのだ。それから彼女は朝ご飯を食べるようになった。朝ご飯は、人間の一日の消費カロリーの大半を補填する。彼女は一週間、朝ご飯を食べるようになったおかげで、体脂肪率が2パーセント減少した。心なしか、筋肉が少しついたみたいで、屋根裏部屋の梯子の上り下りに息を切らすことはなくなっていた。
 それからサユリは人生に対して、前向きに考えることを覚え始めたのであった。まず、彼女はご飯を自分で作るようになった。登校日は二日に一回とまちまちだったにもかかわらず、学校に行かない日でも彼女が早起きをしていたのは、朝ご飯を作るためだった。そう、彼女はテストが終わった次の日に、屋根裏部屋にシステムキッチンを設置してもらっていたのだ。図書館の外壁の一部を換気扇を作るために開け、コンロを置くために部屋の一部を加工し、もともとあったシンクをシステムキッチン用に合わせて取り換えるという大工事を行った。費用は全てハマの父であるユキグニ市市長もちだったが、彼は、日頃から娘がご飯のためにパシリにされているという事実――今までは全ての食事をハマに運ばせていた――に憂いていたため、サユリがシステムキッチンの設置をお願いしたときに、喜んで肩代わりすることを約束したのだった。それから、彼女は料理を始めた。以前から、レシピ本やクックパッド、またガストロノミー関連の本を読んでいた彼女は、初めての料理に心酔していった。その熱中度合いはすさまじく、最初、ソーセージさえ満足に輪切りできなかった彼女だが、今ではたまねぎを半分こにすることができる。無論、彼女の料理道は前途多難で、今朝はめだま焼きの白身をすっかり焦がしてしまった。すっかり黒くなってカスカスした白身をつつきながらも、彼女は自分の、初めての「失敗」に感動して、その失敗を噛み締めながら、しっかりと火の通った黄身を、ご飯の上に混ぜて、塩を振って食べた。
 魔法については、あまりはかばかしくなかった。テスト終わり、学食での食事後、勉強意欲が高まって、図書館で魔法関連の本を読み始めたサユリだったが、やはり市の図書館に魔法が詳しく書かれた本はなかった。書いてあっても、〈人類が探求し始めた科学とは別の現象〉とか〈何も分からないということを言い表すための言葉〉とか、抽象的な定義が多く、その内容も不明瞭だった。それならばと彼女は魔法学校の図書館をあたったが、そこでも魔法関連の図書は、市の図書館と同じようなものばかりがズラリと並んでいた。司書に訊くと、魔法が詳しく載った図書はすべて、許可なしに閲覧はできないという。彼女は担任の先生に許可をもらいにいったが、結果はノーだった。どうやら、許可にはクマ座――つまり一番卒業に近い座に昇らないといけないらしい。つまり、魔法に関して卒業論文が書けるようになるまで、この学校に通わなくてはならないのだ。しかし、もしそうなら――とサユリは考えた。なぜ、私が魔法のことを知らないことに、他の同級生たちが動揺するのだろうか。ミーハもセレナも、私が魔法を知らないというと、ものすごく変な顔をしていた。むしろなぜ、彼女たちは魔法のことを知っているのか。
その日の晩、サユリはハマを屋根裏部屋に呼び出し、問い質した。すると、「言いにくいんだけど――」とハマは前置きを置いてから、「実は、幼稚園、小学校、中学校と魔法を見せてもらう機会が年に一回だけあるんだ……」と言った。
 サユリはなるほどと思った。義務教育を受けていない――つまり、重大な憲法違反の自分には当然の報復だと考えた。そして彼女はハマが、小学校や中学校に行くのを勧めなかったことに若干の罪悪感を抱いていることを知っていた。サユリは、「まあ、分かんなければ、勉強すればいいし」と言った。実に彼女が、初めて誰かに気を遣った瞬間である。彼女は、特にミーハとの会話に、パーソナリティを影響されていた。始終、自分に対して気を遣っていたミーハに、若干の居心地の良さを感じていたのだった。
「何でも言ってね、その、精一杯サポートするから」
「そうか、じゃあゲーミングパソコンを私にちょうだい」
 サユリの気遣いは、長くは続かなかった。

 直談判に行った次の日、サユリは担任の先生に職員室まで呼び出されていた。先生――彼女はミス・グリーンと呼ばれていた――は、サユリの異常性にいち早く気がついていた。すべての教科が満点で、かつそれ以外の知識も豊富だが、致命的に何かが欠けている。サユリの慌てぶりからすると、恐らく魔法関連の知識だろう――と推測していた。しかし、教職員は授業時間外での、魔法の知識の教授は条例で禁止されている。どうにか、間接的に魔法の知識を補ってあげることはできないか――というわけで、とりあえずサユリを呼んだのだった。
「グリーン? なんか用?」サユリは直談判のとき以来、ミス・グリーンを「グリーン」と呼んでいた。
「サユリさん、今何か、困ってることがあるんじゃない?」むしろ、グリーンはサユリを「さん付け」していた。
「図書館の禁書を貸してほしい」
「ダメよ」グリーンは言った。「貸したのがバレたら条例違反で罰金だわ。私、今年は全体的に金欠なの。設備投資に金欠けすぎて薄給のこの魔法学校のせいでね……」
「バレなきゃいいじゃない」
「バレるのよ」グリーンはきっぱりと言った。「それが、魔法ってことなの」
「ふうむ――あ」
 サユリは何かを思い出したような顔をした。こめかみに人差し指をくっつけて、「前にも、なにかにバレたことがあったな――」と独り言をつぶやいた。
 しばらくして、思い出したと言った様子でぽんと手を叩いた。
「みっちゃん――ミチルだわ。グリーン、なんかあの子のことで知ってることある?」
「クラスメイトじゃない。直接聞けば?」
「私、あの子に居場所がバレたことがあったの。絶対にバレない状況だったのに。あれも、もしかして魔法なんじゃない?」
「うーん」とグリーンは少しの間考え込んだ。それから、彼女は慎重に言葉を選んで、「魔法かもしれないし、そうじゃないかもしれない。――今の私には、これくらいしか言うことはできないわ。基本的に、生徒の魔法情報は、先生にも伏せられていたりするの。特に、ミチルさんのような生徒は――ああ、いえ、なんでもないわ」
「へえ、ミチルって子は特殊なんですね」
「でも」グリーンはサユリの返事を聞かなかったふりをした。「直接聞けば、その限りじゃないわ。プライベートで魔法の話をするのは、むしろ推奨されているくらいなの。ミーハさんなんかは、初日に私に教えてくれたわ。大半の生徒は、自分の魔法をおおやけにすることに抵抗はないみたい」
「しかし、ミチルのような例外もいる」
「……いや、直接聞けば、教えてくれるかもしれないわよ?」
 グリーンは慌てて言った。他の生徒に先入観を植え付けてはまずいと思ったのだ。しかし、サユリは無視した。
「それで、分かんないのは」サユリはグリーンを睨んだ。「もしかして魔法ってみんなが使えたりするの?」
「え!?」
 グリーンはつい、大声をあげてしまった。職員室では、各先生に小さい個室が与えられていたが、声が、薄い壁を越えて響いた。三つ隣の部屋を使っていた生物の先生が「ミス・グリーン、どうかしましたか?」と声をかけてきたが、グリーンはなんでもないですと言って追っ払った。
「サユリさん」グリーンは目の前の生徒を見つめた。「サユリさんって、私のクラスの生徒なのよね……?」
「残念ながらね……」
「Aクラスはみんな、そういう生徒が通うクラスなのよ……?」

***

 その日の放課後、サユリはハマを呼び出した。「デラックスパフェを食べたい、ハマのお金で」と口実をつけて。
 待ち合わせ場所の正門に着くと、ハマの他にセレナとミーハが待っていた。セレナが、「あの日ぶりだね!」と明るく、跳ねるような声で言った。足元を見ると、実際に、小刻みにジャンプしていた。
「ミーハもいるのね」サユリが言った。
「ちょっと楽しそうでしたので」ミーハは丁寧な発音で喋った。サユリは釈然としなかった。ミーハは教室では、この敬語キャラとはうってかわって、陽キャスタイルだったのだ。サユリが登校するといつも、彼は真っ先に学校についていて、同じく早くきている生徒たちと一緒になって手鏡を見ながら化粧をしたりアクセサリをつけたりして遊んでいるような人間だった。サユリは、このギャップに心底驚いていた。フィクションの中では普通に存在する、この〈闇抱えギャップ女装主人公〉も、現実で目の当たりにすると頭がクラクラする。このギャップにあてられて以来、サユリはミーハに話しかけられずにいた。
「デラックスパフェなんて、あのもっとオシャレな集団と食べればいいのに」サユリはハマを見ながら言った。ハマは普段から、一つもアクセサリを身に着けていない。制服も一番スタンダードなスーツタイプだ。対照的にミーハは、今日も校則違反のピンク入りのカーディガンをダボっと着ている。目にはアイラインが濃く描かれて、二重瞼と相俟ってより目を大きく見せている。カラーコンタクトをしているのか、目の中に青い複雑な万華鏡模様が描かれていた。
「失礼なことをおっしゃりますね。セレナさんは決してダサくはありませんよ」
「ちょっと待って」と、セレナ。「今、私、関係なくない?」
「これは失礼しました。――それにしても、今日も相変わらず……」
 そう言ってミーハはセレナの服装を微妙な顔して眺めた。セレナは今日、ドレスタイプの制服に、金色に光ったブレスレッドとイヤリング。長い金髪は緑色のレース付きのシュシュでハーフアップにしている。サユリは、この格好ならティアラが似合いそうだと思った。
「相変わらず、なんなの!」セレナはミーハの頭を叩いた。木魚のようないい音がした。
「とりあえず、いこっか!」
 ハマは平常運転で、いつもの大げさな笑顔を浮かべていた。私たちは歩みを揃えて、ファミリーレストランへと向かった。

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