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夜明け(「森での一夜」より)

森での一夜」より

バスの集合場所にのろのろと歩いて行くと、人影が見える。クラスメイトのトーマスが僕に向かって手を振っている。手を振り返し、周りを見渡す。僕ら二人以外にはまだ誰もいないようだ。「森での一晩はどうだった?」と聞く。トーマスが「一晩中起きてた。早く帰りたくて、集合場所に一番乗りした」と眠そうな目をこちらに向けて答える。ああ、僕だけではなかったのか。何かしゃべろうとするが、言葉が上手く出てこない。固いネジか何かで頭がきつく締められているみたいだ。沈黙が流れる。そっと横を窺うと、トーマスが欠伸を噛み殺していた。

僕が歩いてきた方向からグォォンという低い機械音が聞こえた。音がした方に目をやると、黄色い車体のスクールバスがちょうど角を曲がってくる。「海外の映画でよく見るバスと同じだよな」とバスに乗る度、何度も思う。バスは僕らの前でガタンと車体を揺らし、停車した。排気ガスに小さくケホッと咳き込む。閉まったままのバスのドアをのぞき込むと、運転手は前方を一心に見ている。こちらに気づいていないのだろうか?手を大きくブンブンとふるが、反応はない。早くバスの中に入りたいのに。しばらくすると、教官が満面に笑みを浮かべ、こちらに向かって歩いてきた。バスの脇まで来ると、「開けてくれ」というジェスチャーをしながらドアを軽く叩く。運転手はこちらをチラリと見て頷き、レバーを引く。バスのドアが開いた。力を込めて重い身体を動かし、バスのステップを上がる。足に鉛でもついているのだろうか。車内に入ると、ふんわりとした柔らかい空気が頬を撫でる。このバスに乗れば、学校に運んで貰える。脱力しそうな身体に喝を入れ、自分の定位置である真ん中の席までたどり着く。倒れ込むように座席に座る。シートは固いが、文句はない。ハアッと安堵のため息が洩れる。もう動けない。

少し経つと、クラスメイト達が続々とバスに乗り込んできた。僕の席の横を誰かが横切る度、焚火のにおいが漂う。自分のジャケットに鼻を近づけてみると、思わずむせかえる。身体に煙りが染みついているのではないだろうか?頭がぼんやりとし、視線が宙を泳ぐ。あちらこちらからクラスメイトの声が聞こえる。焚火のにおいと包み込むような暖かい空気の海に溺れてしまいそうだ。バックパックを両手でグッと抱き締める。瞼は重く、うつらうつらし始める。教官に感謝を伝える大きな声がどこかで聞こえる。森で一夜を過ごすことなんて、カナダに来る前は想像もしていなかった。ふと隣に人の気配を感じると、親友のジムが大きな身体を隣の席にねじ込んでいる。冬服のごついジャケットに大きなバックパック。ジムに「ヘイ」と声をかける。ジムが座った瞬間、焚火のにおいがフワッとこちらに振りかかる。クラスメイトの声がBGMのように聞こえる。「コヨーテの鳴き声は聞いたか?」と誰かが叫ぶ。「クーガーじゃないのか」とドッと笑い声が上がる。冷めやらぬ興奮。「皆、席に座れ、点呼とるぞ」と教官。「1、2、3、4、5…」と出席番号がどこまでも続く。「皆、よく無事に戻ってきたな」という声と同時にガタンと大きく身震いをしてバスが動き出した

気が付いたらバックパックに顔を埋めて眠っていた。いつの間にかバスは校舎の裏側に到着していた。ゾンビのようにふらつきながら、バスを降りる。後はもう寮の自分の部屋に戻るだけでいい。クラスメイト達はもう方々に散っている。ジムは喫煙所に向かったようだ。フワフワする足どりで寮を目指す。ちゃんと前に進めているのだろうか?寮の前まで来ると、後ろから来たクラスメイトと同じタイミングで、開いたドアの隙間に身を滑り込ませる。階段をゆっくり、ゆっくり上がる。ようやく自分の部屋の前にたどり着くことができた。バックパックを肩から降ろし、部屋の鍵を探す。ガサガサとバックの中身を漁るが、中々出てこない。すぐにでもシャワーを浴びて、ベットに飛び込みたいのに。もどかしい。数分後、ようやく鍵を発見し、ドアを開く。靴についた泥が部屋のカーペットを汚すが、今は気にしていられない。バックパックを部屋の隅に投げ捨てる。ジャケットをグイッと力ずくで脱ぎ捨て、カーキのパンツも靴下も全部床に脱ぎ捨てる。Tシャツから、身体から焚火のにおいが溢れ出した。シャワー室に駆け込み、ハンドルを全開までひねる。シャワーヘッドからザァザァと勢いよく水が飛び出す。少し待つと、狭い室内は蒸気で満たされた。シャツもパンツも脱ぎ捨て、熱いシャワーの中に飛び込む。頬がヒリヒリと痛い。固くなっていた手と足の指先がチリチリとする。口を大きく開けて、落ちてくる熱いシャワーを受けとめる。口の中にあった嫌な感触がどこかに消えていく。シャワーと一緒に焚火のにおいが排水溝に流れていく。

裸のままでベットに移動し、壁にかけていたタオルで濡れた身体を拭く。下着を履いて、Tシャツを着る。そのままベットにダイブ。頬にあたるブランケットが柔らかい。もみの葉のようにチクチクしない。もみの木の匂いもしない。ブランケットの中に潜り込む。焚火のにおいはもう消えてしまった。頭の芯がだんだんとぼやける。今日はもうカフェテリアには行かなくていいか。長い、長い森での一夜がようやく終わる。

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