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森での一夜【完全版】

周囲を見渡すと既に闇に覆われていた。焚火の炎だけが目の前で揺らめく。人の声も動物の鳴き声もここまで届かない。空気が冷たく澄んでいる。静寂の中、風に吹かれた樹々が、時折ざあざあと音を立てる。普段は、喧しいぐらいのクラスメイトが誰一人いなくて、ひどく心細い。森の中では、何だか自分が弱くなったような気がする。目の前に視線を戻す。ジジジッと炎が音を立てた。

林業学校のカリキュラムの一つであるブッシュクラフト。自然の中にあるものを利用し、森や自然の中で過ごすための技術。このクラスでは、木の枝や葉を利用し、寝床や風避けのためのシェルターを作る方法を学んだ。そして、クラスの最終課題として、カナダの森で一夜を過ごすことになった。

11月のこの森ではまだ雪が積もっていないが、兎に角寒い。森で一夜過ごすのであれば、一晩中火を絶やさないこと。夕方に、もみの木の葉と小枝をかき集め、さらに乾いた苔を出来るだけ多く集めた。これらを使ってまずは火を起こす。幸いなことに苔は乾燥していて、火が付きやすそうだ。うず高く盛った苔の山に、マッチで火を付ける。小さな火が乾いた苔につき、一気に火が走る。しかし、苔はすぐに黒くなり、燃え尽きてしまう。もう一度、苔を集めて火をつける。火に先ほどよりも勢いがある。すかさず、もみの木の葉を火の上にかぶせる。パチッ。パチパチッ。もみの木の葉が勢いよく燃え始めた。集めておいた葉と小さめの枝を投入すると、火がさらに勢いを増す。火を囲むように、小ぶりな倒木を並べる。倒木になかなか火が移らすに、プスプスと白い煙が立ち上る。こちらの方に向かって煙が漂う。目がチクチクとして涙が溢れ出す。昨日降った雨で、木の内側が湿っていたのかもしれない。もみの木の葉や剥がれた白樺の木の皮を急いで火の中にくべる。弱くなっていた火がたちまち勢いを取り戻す。葉や木の皮を何回かくべると、倒木がゆっくり赤く煌めき始めた。

バックパックの中をまさぐると、昨日スーパーで買ったハーブ味のソーセージとスープの缶に手が触れる。それから、手ごろな枝を見つけ、ナイフで先端を尖らす。小枝にソーセージを突き刺し、炎の回りに3本設置した。スープの缶を開け、焚火近くの倒木の上に置く。炎の周りは明るく照らされているが、ソーセージの焼け具合やスープの温かさまではよくわからない。座るためにとっておいた倒木に腰を下ろし、手袋を外す。焚火に手をかざすと、じんわりと火の温かさが伝わってくる。温まっていると、靴下がびしょびしょになっていることに気がついた。夕方、森の中を木の枝や葉を探し回った時、靴も靴下も濡れたに違いない。濡れた靴は固く収縮していて脱ぎにくい。力づくでぐいっと靴を剥ぎ取る。湿った分厚い靴下も手強い。ぐいぐいと剥ぎ取り、靴の上にのせる。燃えないように距離を取りながら、靴と靴下を焚火の近くに置く。冷たくなった足の指先と足裏を焚火に向けると、温かさがじんわりと伝わってきた。さて、缶の中身は温かくなっただろうか?手袋をして、缶を手に取る。鼻を缶に近づけると、熱さを感じる。スプーンで中身をすくい、口に含む。均等に熱が通っていないのか少しぬるい。まあ、しょうがない。缶を片手にソーセージに火が通っているかを確かめる。暗くて焼け具合がよくわからず、臭いを嗅ぐ。肉の焼けた香ばしい匂い。ちゃんと火は通っているようだ。ソーセージに勢いよく齧りつく。肉汁とハーブの味が口の中いっぱいに広がる。うまい。あっという間に3本を平らげた。

焚火の前にいたが、身体が少し強張ってきた。さすがに疲れを感じ始めたのかもしれない。暗くなる前に木の枝とロープを使って簡単なシェルターを作ることができたのは幸いだ。シェルターの中には、手ごろな大きさの倒木を運んできて、ベッドの枠のようなものを作った。マットレスの代わりに木の枝を敷き詰め、その上にもみの木の葉を敷き詰める。寝心地は悪くなさそうだ。手作りのベッドに横になる。もみの葉がチクチクする。何重にも重ねられた葉は想像していたよりもふかふかしていた。ごろりと身体を横に動かすと、もみの木のスッとする爽やかな香りがほのかに漂う。外に比べるとシェルターの中は少しだけマシだが、依然として冷える。替えの靴下を持ってきていなかったから、足の指先が痛い。指先にタオルをかけるが、眠れるわけがない。さらに悪いことにシェルターの骨組みである木の枝と葉の隙間から冷たい空気が入り込む。服を纏っていない頬がチクチクして痛い。目を閉じる。呼吸する音。やけに大きく聞こえる。澄んだ空気が心地よい。しばらく暗闇でじっとしていると、遠くで動物の吠える声が聞こえた。ワオォゥー、ワオォゥー。甲高い叫び声が森の中にこだまする。犬ではない。コヨーテ?そう言えば、カナダの森にいるはずのないクーガーを見た人がいたとクラスメイトの誰かが言っていた。眉唾な話しだ。しかし、暗闇の中、存在はあやふやに溶け始めている。ぶるりんと震え、身を固くする。じっと耳を凝らす。獣の鳴き声がもう一度聞こえる。クーガーなのか? 


足の指先にチリチリとした痛みを感じる。目を開けようとするが、瞼が重い。ゆっくりと目を開けると暗闇が広がっていた。頭の上に手を伸ばし、ヘッドライトをONにする。手元がパッと白い光で照らされる。腕時計を見ると、既に1時を過ぎていた。気づかないうちに少し眠っていたみたいだ。上体を起こそうとするが、思うように動かない。バキバキと音を立てて、折れてしまうのではないか。重い身体をスローモーション動画のように動かす。横になった時、眼鏡をどこかに置いたはずだ。頭がぼうっとして、どこに置いたのか見当がつかない。マットレス代わりのもみの葉の中に落ちてしまったかもしれない。それとも、バックパックの中か。バックパックに手を入れる。しばらくガサゴソしていると、底のほうで眼鏡のフレームに触れた。安堵のため息が漏れる。眼鏡をかけ、スゥッーと大きく息を吸い込む。喉を通り、肺に空気が入ってくる。まるで鋭い針で刺されているようだ。ぼんやりしていた頭が徐々にはっきりとしてくる。

寝る前に大きく揺らめいていた焚火は、今は小さな赤い煌めきになっていた。焚火に近づくと、まわりの空気はまだ温かい。もっと火の勢いが必要だ。地面に落ちていた枝を何本か拾い、ぽきりと折る。小さくした枝を火に放り込む。パチパチッ。白い煙が漂う。目がしぱしぱする。パチッ。パチッ。落ち葉や白樺の皮も拾い、火の中にくべる。ゴオォッと一瞬だけ火炎の勢いが増す。闇の中にオレンジ色の炎の柱が立ち上がる。今のうちにと、大きめの倒木をいくつか焚火の中に入れる。倒木に座り、オレンジ色に揺らめく炎をぼんやりと見つめる。確か、6時が学校に戻るバスの集合時間のはずだった。あと、4、5時間ぐらい。頬のまわりがじわじわと温かくなってきた。それにしても、靴下の中がまだヒンヤリとしている。気持ちが悪くてしょうがない。寝る前に靴下を乾かしたはずだが、しっかり乾いていなかったようだ。防寒用の服の替えは持ってきていたのに、靴下の予備だけは用意していなかった。そう言えば、夕暮れ時にクラスメイトのジョンがふらりと現れたが、彼から乾いた靴下をかりておけばよかったと今更になって後悔する。

夕暮れ時、焚き火用の枝や葉を集め終わり、倒木に座って呆けていた。急に背後から「ヘイ、キミ。シェルターは出来たか?」と声をかけられた。一人だと思っていたので、急にかけられた声にビクッと飛び上がる。慌てて背後を振り返る。森の中は薄暗い。声の主が誰なのか全く判別がつかない。声が聞こえた方向にジッと目を凝らす。すると、大柄でごつい冬用のジャケットを着たジョンが現れた。こちらに向かって手を振っている。「おう」と手を振り返すと、こちらに向かって歩いてくる。ジョンは、僕の作ったシェルターを横目に近くの木に寄りかかる。普段、彼とはあまり話したことがない。何をしゃべったら良いだろうか。やはり、ホッケーの話が盛り上がるかもしれない。ジョンは、どのチームのファンだっけ?頭の中がぐるぐるしてきた。彼も手持無沙汰のようだ。手で小枝をいじっている。ふいに「森の中ってやることないな」とジョンが言う。薪用の木を集め、シェルターを作ったら、やることがなくなったらしい。こうやってぶらぶらとクラスメイトのところを歩き回って時間をつぶしているそうだ。一人で、森で一晩過ごすと。これが今回のブッシュクラフトのクラスのルールだったはずだが。沈黙が訪れてしまう前に、何かしゃべらなければと四苦八苦する。「夕方、薪を探していたら靴下がびしょびしょに濡れてさ。散々だよ」と無理矢理に話題を作る。「そうだったのか。良かったら予備の靴下持っているから、持ってこようか?」と言う。予期しない答えに慌てふためく。「大丈夫だ。自分で乾かせるから」と断ってしまう。ストレートな優しさ。上手く甘えることができない。せっかく靴下をかしてくれるのだから、素直にかりてしまえば良かったのだ。ジョンは、僕が断ったことに怒っていないだろうか?うじうじと考え込む。そんなことで悩んでいるとは知らずに、ジョンは「隣のエリアのクラスメイトにチョッカイ出してくるよ」と来た時と同様に唐突に去っていった。嵐が過ぎ去り、あたりが静まり返る。木々が風に揺れる。ざあざあと音を立てる。また一人になれてほっとした。いや、もう少し話していたかったような、いたくないような。


目の前の炎がだんだんと小さくなってきた。慌ててまわりにとっておいた枝や葉を焚火の中に入れる。枝や小ぶりな倒木はいくらかあるので、白樺の木の皮をもう少し集めておいたほうがいいかもしれない。白樺の木の皮はとてもよく燃える。夕方に薪を集めた際、シェルターから数メートル離れたところに白樺の林があったはずだ。眠い目をこすり、重い腰を上げる。数分程度の距離であればGPSは必要ない。大丈夫だ。白樺の林の方角に検討をつけて、歩き出す。ヘッドライトで目の前を照らす。木に服が引っかからないようにゆっくり歩く。少し歩き、ふいに後ろを振り返る。小さなオレンジ色の灯り。まわりは漆黒の闇。怖気着く前に歩き始める。一分ぐらい歩いただろうか。目的の白樺の林に辿り着く。正しい方角に向かってちゃんと歩いていたようだ。ヘッドライトに照らされた白樺の幹が白く輝いている。半分めくれている木の皮をベリッと剥がす。剥がれかけの皮をいくつか集める。落とさないようにしっかりと両手で抱える。シェルターに戻ろうと後ろを振り返るが、オレンジ色の灯りがどこにも見当たらない。ヘッドライトの光が弱々しく、暗闇に吸い込まれていく。心臓が早鐘を打つ。シェルターの方角はこっちのはずだ。闇雲に歩きまわるが、暗闇から全然出られない。もう一度、白樺の林に戻ろう。後ろを振り返る。目の前には暗闇以外何もない。どこから来たのかさえわからない。何か叫びたい。絶望のあまりその場にしゃがみ込む。しばらく座ったままで動けない。ヒュッー、ヒュッーと呼吸する音が耳に入ってくる。もう一度、ゆっくり空気を吸い込む。喉を通る空気がヒリヒリとする。ゆっくりと空気を吐き出す。目を凝らし、辺りを見渡す。相変わらず暗闇しか見えない。それでも、まわりを何度も見渡す。何メートルか先に小さなオレンジ色の点。その点に向かって一直線に走り始める。絶対に見失わないように。足元の木に躓きそうになり、よろけた。走れ。小さな点がだんだんと大きくなっていく。ようやく焚火の前に辿り着いた。涙が零れた。


空が白み始めた。倒木に座りながら辺りを見渡す。真っ黒だった暗闇が少し薄らいでいる。目の前の焚火は小さいが、じんわりと身体に熱が伝わってくる。暗闇の中で迷い、シェルターに戻った後、ずっと眠れずに焚火の前で時間をつぶしていた。頭がぼんやりとして鉛のように重い。唇が乾燥して、少し痛い。昨晩、歯を磨けていないから、口の中が妙に粘つく。気持ちが悪い。バックパックからペットボトルを取り出し、口に水を含む。ペッと勢いよく吐き出す。バスの集合時間は6時だったが、もう帰り支度を始めようか。腕時計に目をやる。ぼんやりとした蛍光色の針が4時半を示している。少し早い気もするが、ゆっくり片付ければ問題ない。まずはシェルターの分解に取り掛かる。骨組みに使っていた枝を木の蔓で結んでいたので、サバイバルナイフで切り落とす。ばらけた枝を拾い集め、森に戻す。隙間風は酷かったけど、このシェルターのおかげで一晩過ごせたのだ。ベッドに使っていたもみの木も森に戻さなければ。大きめの木は少し重い。ほとんど寝ていない状態でこれを運ぶのはキツイ。息があがりながらも、何度か往復してベッドを解体することができた。フウッーと大きく息を吐く。身体がだんだんと温まってきた。そう言えば、バックパックにもう一本ペットボトルがあったはずだ。取り出したボトルのキャップをグイッと開け、消えかかっている焚火にかける。ジュウ、ジュウ。白い煙が一斉に立ち上る。煙はあたりにゆっくりと広がり、そして消えていく。後には、黒くなった燃えかす。残り火がないか、ぐりぐりと踏んづける。止めを刺す。火は完全に消えたようだ。何だか急に頬がチリチリと痛む。

一晩過ごした痕跡がなくなってしまった。少し名残惜しい。薪を拾い、シェルターを立てて。昨日の夕方から、まだそんなに時間はたっていないはずなのに。時計をもう一度見れば、5時半を過ぎていた。辺りが白む。もうヘッドライトはいらない。バックパックにヘッドライトを無理やり突っ込む。忘れ物がないか、シェルターのあった辺りを隈なくチェックする。ここに戻ってくるのは大変そうだ。大丈夫だ。バックパックを担ぎ、それから、GPSのスイッチを入れる。バスの集合場所をセットすると、目的地への方角と距離が画面の右上に表示された。この数値通りに歩いて行けばいい。コンパスで方角を知ることもできるが、GPSの方が簡単で便利だ。便利さに慣れすぎると、万が一の時に困ることになるが。数時間前の暗闇でのあたふたぶりが鮮明に思い出される。

画面を確認しながら、樹々の間を通り抜け、ひたすらに歩く。身体が重い。僕のエリアの隣を通り過ぎているが、ここで一晩過ごしていたジョンの姿が見当たらない。とっくに集合場所に向かったのだろうか?目に映る樹々。このエリアは、Red spruce(Picea rubens、北米東部の中型のトウヒ)が多いみたいだ。僕が過ごしたエリアとはだいぶ樹の分布が異なる。カナダ東側のアカディアに位置するこの森は、温帯林(落葉広葉樹と針葉樹が混じる森林)に属し、多様な樹々で構成されている。この多様さは、とても美しい。歩みをとめて、何度か深呼吸を繰り返す。シンとした空気を思いっきり吸い込む。靄がかかっていた頭の中に尖った空気が入ってくる。もう一度、画面に目を戻し、また歩き出す。

しばらく歩いていると、数メートル先に森と林道の境界線が見えた。少し速足になりながら、林道に飛び出す。今まで森の中を歩いてきたから、樹もなく、低木もない林道は歩きやすい。この道をまっすぐに進めば、集合場所はすぐそこだ。あと15分ぐらいだろうか?林道を歩きながら、カナダの森と日本の森は違うということに対して思いを巡らす。カナダの森は平地にあり、日本の森は山にある。少人数で行う小規模な林業を行っている森の林道を日本にいる時に見学した。伐採した木を搬出するための軽トラが走れるぐらいのコンパクトな道幅に驚いた。カナダの林道は、大型の林業機械や搬出用の大型トラックが通るため道幅が広い。カナダの森は、広大であることを考えると大型の林業機械を使わなければ管理が難しいのだろうな。どちらが良いということではない。その場所に適したやり方がある。そんなことを思い巡らしていると、集合場所に繋がる道に辿り着いていた。あともう少し歩いたら、バスに辿り着く。

バスの集合場所にのろのろと歩いて行くと、人影が見える。クラスメイトのトーマスが僕に向かって手を振っている。手を振り返し、周りを見渡す。僕ら二人以外にはまだ誰もいないようだ。「森での一晩はどうだった?」と聞く。少しの沈黙。トーマスが「一晩中起きていた。早く帰りたくて、集合場所に一番乗りした」と眠そうな目をこちらに向けて答える。ああ、僕だけではなかったのか。何かしゃべろうとするが、言葉が上手く出てこない。固いネジか何かで頭がきつく締められているみたいだ。そっと横を窺うと、トーマスが欠伸を噛み殺していた。

僕が歩いてきた方向からグォォンという低い機械音が聞こえた。音がした方に目をやると、黄色い車体のスクールバスがちょうど角を曲がってくる。「海外の映画でよく見るバスと同じだよな」とバスに乗る度、何度も思う。バスは僕らの前でガタンと車体を揺らし、停車した。排気ガスに小さくケホッと咳き込む。閉まったままのバスのドアをのぞき込むと、運転手は前方を一心に見ている。こちらに気づいていないのかもしれない。手を大きくブンブンとふるが、反応はない。早くバスの中に入りたいのに。しばらくすると、教官が満面に笑みを浮かべ、こちらに向かって歩いてきた。バスの脇まで来ると、「開けてくれ」というジェスチャーをしながらドアを軽く叩く。運転手はこちらをチラリと見て頷き、レバーを引く。バスのドアが開いた。力を込めて重い身体を動かし、バスのステップを上がる。足に鉛でもついているのだろうか。車内に入ると、ふんわりとした柔らかい空気が頬を撫でる。このバスに乗れば、学校に運んで貰える。脱力しそうな身体に喝を入れ、自分の定位置である真ん中の席までたどり着く。倒れ込むように座席に座る。シートは固いが、文句はない。ハアッとため息が洩れる。もう動けない。

少し経つと、クラスメイト達が続々とバスに乗り込んできた。僕の席の横を誰かが横切る度、焚火のにおいが漂う。自分のジャケットに鼻を近づけてみると、思わずむせかえる。身体に煙が染みついているのではないだろうか?頭がぼんやりとし、視線が宙を泳ぐ。あちらこちらからクラスメイトの声が聞こえる。焚火のにおいと包み込むような暖かい空気の海に溺れてしまいそうだ。バックパックを両手でグッと抱き締める。瞼は重く、うつらうつらし始める。教官に感謝を伝える大きな声がどこかで聞こえる。森で一夜を過ごすことなんて、カナダに来る前は想像もしていなかった。ふと隣に人の気配を感じると、親友のジムが大きな身体を隣の席にねじ込んでいる。冬服のごついジャケットに大きなバックパック。ジムに「ヘイ」と声をかける。ジムが座った瞬間、焚火のにおいがフワッとこちらに振りかかる。クラスメイトの声がBGMのように聞こえる。「コヨーテの鳴き声は聞いたか?」と誰かが叫ぶ。「クーガーじゃないのか」とドッと笑い声が上がる。冷めやらぬ興奮。「皆、席に座れ、点呼とるぞ」と教官。「1、2、3、4、5…」と出席番号がどこまでも続く。「皆、よく無事に戻ってきたな」という声と同時にガタンと大きく身震いをしてバスが動き出した

気が付いたらバックパックに顔を埋めて眠っていた。いつの間にかバスは校舎の裏側に到着していた。ゾンビのようにふらつきながら、バスを降りる。後はもう寮の自分の部屋に戻るだけでいい。クラスメイト達はもう方々に散っている。ジムは喫煙所に向かったようだ。フワフワする足どりで寮を目指す。ちゃんと前に進めているのか不安だ。寮の前まで来ると、後ろから来たクラスメイトと同じタイミングで、開いたドアの隙間に身を滑り込ませる。階段をゆっくり、ゆっくり上がる。ようやく自分の部屋の前にたどり着くことができた。バックパックを肩から降ろし、部屋の鍵を探す。ガサガサとバックの中身を漁るが、中々出てこない。すぐにでもシャワーを浴びて、ベッドに飛び込みたいのに。もどかしい。数分後、ようやく鍵を発見し、ドアを開く。靴についた泥が部屋のカーペットを汚すが、今は気にしていられない。バックパックを部屋の隅に投げ捨てる。ジャケットをグイッと力ずくで脱ぎ捨て、カーキのパンツも靴下も全部床に脱ぎ捨てる。Tシャツから、身体から焚火のにおいが溢れ出した。シャワー室に駆け込み、ハンドルを全開までひねる。シャワーヘッドからザァザァと勢いよく水が飛び出す。少し待つと、狭い室内は蒸気で満たされた。シャツもパンツも脱ぎ捨て、熱いシャワーの中に飛び込む。頬がヒリヒリと痛い。固くなっていた手と足の指先がチリチリとする。口を大きく開けて、落ちてくる熱いシャワーを受けとめる。口の中にあった嫌な感触がどこかに消えていった。シャワーと一緒に焚火のにおいが排水溝に流れていく。

裸のままでベッドに移動し、壁にかけていたタオルで濡れた身体を拭く。部屋の片隅に放り投げたジャケットから微かだが焚火のにおいがする。下着を履いて、Tシャツを着る。そのままベッドにダイブ。頬にあたるブランケットが柔らかい。もみの葉のようにチクチクしない。もみの木の匂いもしない。ブランケットの中に潜り込む。焚火のにおいはもう消えてしまった。頭の芯がだんだんとぼやける。たった一晩だったのに、どこか遠くへ旅に出かけていたみたいだ。長い森での一夜がようやく終わる。ゆっくりと溶けるように眠りに落ちた。


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