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苦労したエリートの話


福岡県で建設会社を経営している家の三男として彼は生まれた。


祖父の指導のもと、
小学校3年生のときに相撲を始めた。

その指導は厳しかったが、
環境は非常に恵まれていた。

自宅の庭に祖父の手作りの土俵があり、
毎日2時間の稽古を続けた。
隣には広いグラウンドがあり、100mのタイヤ引きを40本こなした。

食事面では普段の食事に加え、
毎日牛乳1㍑、学校には煮干しを持参するという徹底ぶり。

まさに英才教育だった。


厳しい稽古を続けるうえで励みになったのが、
「幼少期に貴乃花の膝の上に乗せられて写真を撮ってもらったこと」
だと後に語っている。


中学は地元を離れ、高知県の強豪校に相撲留学。
3年生のときに全国大会で優勝。
「中学横綱」になった。


高校でも全国の舞台で活躍。


高校を卒業後、角界入り。
初土俵から順調に昇進を果たしたが、
幕下に昇進すると上位の壁に苦しんだ。
7場所のうち3場所で負け越しを経験。

勝てない原因を研究し、
周りからの指導も受け改善に取り組んだ。


その後は、十両→幕内へと昇進。
そして三役の関脇の座にもついた。


周囲は大関昇進の期待をかけるが、
ここから安定感を欠く相撲が続き、
三役に定着できない時期が続いた。


それから約2年。
ついに大関獲りに挑戦。
この場所は前半戦は金星を挙げるなど絶好調だったが後半戦では失速。
11勝4敗で殊勲賞を受賞したものの、
大関獲りは次の場所に持ち越しとなった。

本人は、
「次はない。あれで上がれないのだから自分はもう大関にはなれないのだろう」
と好機を逃した自分自身を嘆いた。


次の場所で大関獲りに再挑戦。
最終日まで優勝争いを繰り広げ、
12勝3敗の成績を残し殊勲賞も受賞した。


場所後、
文句なしでの大関昇進が決定。
大関昇進の伝達式では、

「大関の地位を汚さぬよう『万理一空』の境地を求めて、日々努力精進致します」
 
と口上を述べた。



そして大関として迎えた5年目の年。

初場所で3横綱を破るという25年ぶりの快挙を記録するなど優勝争いをリード。

13日目に黒星を喫するが、
14日目と最終日に勝利。
日本人力士としては10年ぶりとなる幕内最高優勝を果たした。



その後は怪我などが重なり大関の座からは陥落してしまうが、36歳となる今年も幕内力士として土俵に上がり続ける。

 
 

彼の名前は、

 
 

琴奨菊

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