見出し画像

2ヶ月で人生が一転


愛知県で生まれた彼は、
小学校の高学年のときに島根県に引っ越した。

小学生のときから野球をしており、
高校でも野球部に入部した。


上級生が引退すると投手がいなくなってしまい、
当時はまだまだ小柄だった彼が投手になった。

「体は小さかったが、左利きという利点を活かせると思った」という監督の判断からだった。


コントロールにバラつきがあり、
球速も数字としては遅かったものの
打者の体感球速はとても速かったそうだ。


2年時の夏に甲子園初出場。
初戦、2点リードで最終回を迎えたものの逆転サヨナラ負け。最後は四球を与えての決着だった。


この悔しさをバネに3年生のときの夏も甲子園に出場。
3回戦では強豪・帝京高校と対戦し勝利するなど躍進を見せ、ベスト8に進出した。


帝京戦での彼のストレートの球速は120キロ台。
しかし試合後のインタビューで帝京の選手達は「150キロに見えた」と語っていた。


甲子園ベスト8という実績を引っ提げ、
早稲田大学に進学。

「大学卒業後は高校野球の指導者になろう」
と考えていた。


高校時代から徹底的な走り込みを続け、
球速が少しでも上がるように自分なりに努力していたが、球速は120キロ台のままだった。


「もう少し速くならないのか?」と悩んでいると、
同級生のトレーナーから
「フォームを矯正すれば130キロ出るよ」
と言われた。


そのトレーナーは、
投げ方だけでなく走り方やグローブの型の付け方にも修整を加えた。


二人三脚で試行錯誤を重ねると、
それまでの野球人生で130キロすら出なかった球速が、僅か2ヶ月で142キロを計測。


一気に主力へと駆け上がった。


以降は群を抜くペースで三振を奪い続け、
大学4年間で476奪三振を記録。
東京六大学新記録を樹立。
一躍、プロ注目のサウスポーになった。


複数球団の争奪戦の末、
自由獲得枠で福岡ダイエーホークス(現:ソフトバンク)に入団。


1年目からエース級の活躍を見せ、新人王を獲得。
日本シリーズでは最終戦で完投勝利。胴上げ投手になった。


4年目で年俸は1億円を突破。
球界屈指の投手に成長した。


その後、メジャーリーグに移籍。
メジャーでは肘の故障もあり不本意な成績に終わった。

5年間アメリカでプレーしたあと、
古巣ソフトバンクに復帰。

36歳での日本球界復帰だったが、
年齢を感じさせない投球を披露し、
15勝を挙げ最多勝を獲得した。


以降の3年間は、
肘の故障の再発もあり成績は下降。


数少ない「松坂世代」の現役選手として
2020年シーズンは完全復活を目指す。

 
 

彼の名前は、

 
 


和田毅

以上、「2ヶ月で人生が一転」でした。

記事は全て無料です。よろしくお願いします。