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『映画大好きポンポさん』を鑑賞して――こういう経験したいですよねえという話

少し前の映画ですが、『映画大好きポンポさん』を見ました。映画づくりの苦労と喜びを描いたアニメーション作品です。ゲーム制作にも通じるところがあり、とても感銘を受けました(トップ画像は原作1巻の表紙より)。

全編を通して感じたのは、原作者のかたも制作スタッフのかたがたも、制作現場の現実をよく知っている人たちなわけで、その人たちが自覚的に「現実にはそうそうこんなにうまく行くことはないけれど、理想的な状況がつながれば起こり得るのだ」というクリエイティブの夢と理想を描いた作品なんだろうなあということです。

以下ちょっとネタバレもありで。

一番ホロリと来たのが――あとで原作を読んで元々はないシーンと知って驚いたのですが――既に映画の撮影が終わっているのに完成度を上げるために監督が追加撮影を言いだして、それがプロデューサーに認められるシーンです。

……こういうことを書くと「プロなら最初に与えられた予算とスケジュールでつくるのが当たり前。そういう甘い話ってどうよ?」って怒られそうだし、もちろんそのとおりなのだけど、ここもすごく夢が描かれていると思ったんです。

長年制作の現場にいて、スケジュールを延ばしてもらったおかげでよいものがつくれた経験のある人って少なくないと思うんです。期間や予算内で収めることがプロの条件なのは論をまたない事実で、美化もよくないけれど、常にルーティンで仕事をしているわけでない限り、新しいことに対する経験不足だってあるし、ときに予定外のプラスα要素のおかげで化けることもある。

『映画大好きポンポさん』の場合、作業に大きなミスもなく、予定通りに必要な撮影を済ませたのに、完成度を上げるためだけに追加撮影したいと監督が言いだして、それが認められたからこそ美しいし、じつにうらやましい(笑)。しかも関係者はみんなどこかうれしそうな顔をしている。

もちろん、この監督はそこまでに、新人ながらに映画を見る目もあり実務もできるという信頼を積み上げてきた前振りがあるのですが、とはいえ、どんだけ誰もが欲する美しき世界なんだと。

誤解を恐れずに書くと、人生の中でスケジュールなり予算なりに融通を利かせてもらえるような機会に何回恵まれるか、もしくはその確率が上がる環境に自分を持っていけるか(会社員でも自己資金でも何でも)、それはつくる人にとって、とても重要なポイントの一つだとよく思います。なかなかそうはならない。


他にもこの映画で感銘を受けた点を書くと(全編良いんですけどね)、一見地味な「編集作業」が作品全体の中でキーになっているのもよかった。ぼくは映画の世界のことはわからないけれど、何事もつくりっぱなしじゃよいものにならないのは一緒だなあと。そこで描かれている監督の内的世界がこのアニメの中でもとくに(原作以上の)派手な見せ場になってるところにアニメ版スタッフの思いが表れている。ビデオゲームでいえば、プロジェクト後半の大量のパラメータ調整やテキスト作成やデバッグ等の作業といったところだろうか。

作中で、脚本を担当したポンポさん(プロデューサー兼脚本家)の「自分でつくってしまったらその映画には感動できない(だから監督は別の人に任せる)」という言葉があり、逆に監督は監督で他者の脚本を演出することでの“気付き”があって、その両者の視点が描かれているところもよかった。ゲーム制作でもこれに近いことはあると思います。

あと、やり手の映画プロデューサーであるポンポさんがすごくデフォルメされた子どものようなルックスというのも、あの世界のリアリティライン(どこかにありそうでどこにもない世界)を表す上で思いきっててすごくユニークですね。アニメ『リコリス・リコイル』で、壊れた電波塔を最初にランドマークとして象徴的に見せて「これはあなたの知ってる日本じゃないですよ!」「だから女の子が銃撃戦しますから!!」みたいな。

……と書いてから知ったのだけど、ポンポさんって本当に子どもというか学生の年齢だったのか。ちょっとビックリ(笑)。 了

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