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田中康雄さん(児童精神科医)インタビュー後編・4

生活を大事に


杉本:僕も社会的な能力という意味では何もないし、何て言ったらいいんでしょうね。ともかく、今の世の中ってどうしても社会的な能力があることが重視されているような印象がありまして。ここら辺のこともスムーズに言いにくいんですけど、生活というか個人としての魅力みたいな。僕のバイト先のリーダーさんは定時制高校すらきちんと卒業していない(笑)。

 でも僕が思うにこの人とは話が通じるとか、センスがあってユーモアも通じるとか、別に本を読まなくてもビビットに響く言葉を持っている。「良いこと言うなぁ」みたいな、「その言葉響いた」みたいなものを持っている人なんですよ。でも学力とかという意味ではないし、そういう意味では一人で生きていくために清掃のリーダーとして、毎日大変だなぁと思いつつ見ている人ですけど。やっぱり人としての優しさというものは大したもんだなぁと思ったりもするんですよね。でもそういったことが残念ながら世の中ではあまり評価されない。僕、どうしても学生時代にすぐ戻っちゃうんですけど、人と応じていい奴だっていうような感じですね。現在の大学はわからないですけど、かつての大学では別に勉強がどうこうとか、「こいつ切れる」とかいうよりも、人としての優しさとか、力ある人なら包容力とか、同情する力とか、「弱いもの連合」みたいな形で困っている人と俺も同じだみたいな形で寄り添えるレベルのことのほうが大事だっていうものがあったような。ちょっと思いつきだけで言ってますけど、それが世の中でちゃんと評価されるようになったら敢えて精神科に相談しなくてもいいんじゃないかな?と。


田中:その通りですね。


杉本:昔のイメージという感じなんですけど。ノスタルジックな。


田中:いや、そうだと思いますよ。


杉本:今はなんか凄く怖いですよね。そうしてると食えなくなっちゃうんじゃないかとか。それは違うのではないか。みんな弱いじゃないですか、って言いたいというか。でも社会の競争能力みたいなものが高く評価されるんだよなぁみたいな。何か「曳かれ者の小唄」のようですけどね。


田中:いえいえ。でもおっしゃられるとおりだと思いますよ。


杉本:だからひきこもったり不登校したりというのも、そういう意味では1960年代は声高なプロテストが出来たけれど、沈黙のプロテストみたいな、消極的な反抗というか(笑)・・・「そういうことなんだよ」って言ってみんなが「そうか」って納得してくれたらいいんだけど、世間でそれはこの歴史の段階上、「納得できませんね」という話ではあるんですけどね。


田中:心情的には僕もそのとおりだなぁってずっと思っていて、ここに来る子どもたちも青年のかたたちも凄く良い力を持っているし、本当に大事にしてほしい感性もあるし、その優しさや謙虚さは僕はいつも好きだなぁって思うんです。「それだけでは多分生きていけない」って彼らに言われた日には「そうだよねぇ」って思うので、「それで生きていく為にどんな生きかたがあるだろうね」って一緒に考えていくしかないんですけどね。


杉本:なるほど。それで生活・・・


田中:はい。将来の生活を一緒に考えていくということでしょうね。でもそういうのって彼ら何人かは自分から色々と引っ張ってきて、「在宅ワークを見つけました」とか、「住み込みで農業始めました」とか色んなことを言っていて「大丈夫なの?」とかって言うと、「これが意外にいいんですよ」と言われると、なるほどねぇ~といつも思わされて。後は今働いているところからたまに電話が来たりして「今こうしてます」とか「ああしてます」と言われると偉いなぁって思って。それぞれがどこかで自分の生きかたを見つけることがちゃんとできるんだなっていうふうに思っていて、ひきこもりにしても不登校にしてもどこかに何らかの転回点があって、それは治療したからとか、通院したからではなく、その人のなかで何か納得した時期というのが必ずあって、たまたまそれを運よく僕がその時間軸で一緒に見させてもらって、そういうふうに変わっていくんだなぁっていうのを教えてもらうのが僕の財産です。

 そうするといま目の前でそのタイミングが見失ったり、まだ掴めずに「いつ、そういった時期がくるんでしょう?」とか「どうなるんでしょう?」と戸惑っている親御さんに、「こういうふうになった人もいるんだよねぇ。びっくりしたんだけどねぇ」と言うことは幻想ではなくて、希望になってくれればいいなぁっていつも思っています。だから、「君はある程度納得いくような生活を続けていいと僕は思うよ」って言いますね。「ただ、せめてこれだけはこんなふうに変えてみたらどうだろう?」みたいな、「生活リズムぐらいは整えようよ」とか、「お母さんが寝てるときぐらいは家事をやってみたら」みたいなこととか、「ゲームをもう少し縮めてくれたら、なおありがたいんだけど」みたいなちょっと嫌なことは言うけれどでも、「言ったところでやるかやらないかはあなただし、僕が言っていることが絶対正しいとも思ってないので、いいんだけどね」というようなそんなところでの付き合いでしょうかね。
 それは、一番最初に幸いにも僕は不登校が少しずつ増えた1983年に、旭川で適応指導教室のモデルができた頃に医者になって、学校に行かすのではなくて日々をどういう生活をするかということのほうがいかに大事かというふうに思っていたので、学校にちょっと行かないだけでも、「こんなに先生って怒りだすんだ」とか、「不当なこと言うんだ」と思って。学校の先生とどうタッグを組むかという、どう巻き込むかが凄く大事だったので、旭川時代は学校の電話帳のタウンページを全部コピーして、どこの学校か聞いて「その先生に手紙書くよ」とか「相談するよ」っていうふうに言って「ふざけてるわけではないので。怠けているわけじゃないので」と伝えて、「応援するからね」って言っていたのが僕の不登校の子との付き合いの始まりで、そうするとみんな適当に力ある人は家でいろんな生活をつくりだしてくれて、「いいねぇ」というので、そうこうするうちになんか学校に行かなくてもいろんな人生歩める人が結構多かったので、その中でも難しい人は伴走する僕の努力が足りなかったし、僕の見立てが悪かったと思います。生活環境だけでなく、今でいうところの、そのかたの発達障がい的な特性の生きづらさを理解できなくて何とかなるよって言っていただけで、そうじゃなくてもう少し君の苦手さを周りに知ってもらえたら何とかなったよねという意味では、発達障がいというのは今の苦手さを説明する上の武器にはなりますし、一生背負わなければならないラベリングではないと思っているので、そこを説明すると、ふざけているとか怠けている訳ではないという意味をもうちょっと伝えることができるという意味では、使えた時期がありましたね。ただ、今は発達障がいと言ったらひきこもりや不登校と同じように、一網打尽の魔法の言葉になってイメージされるような部分があるので、君の個性が消えちゃうから、発達障がいというのは「いいんじゃない?言わなくても」とか、「まず学校の先生に会ってから、キミのことを伝えるかどうか判断しよう」と言うようになりましたけどね。


杉本:そうですよね。人間のもっている存在のいろんな側面を言葉によって切られちゃうと、これも不登校に接近した人間というか、家から自立することを絶った人間としては常に心外だなという気持ちはありますね。どうしてもメディア的な切り取りかたとかそういうふうにならざるを得ないというのはわかってはいるんですけどね。誠実な人はわかって、メディアの役割としてどう伝えればよいのか悩まれている人もいるようではありますが、それでとうとう業を煮やしたのか、いまはもはや当事者側のほうから頑張って直接発信してますね。どっちにしてもマイナーはマイナーなんですが、実数は相当数多いみたいですけど。


田中:そうですね。


杉本:声自体がなかなか届かないですけれども。

時の力


田中:マイナーなうちにちゃんと注目されて、そこが分かってもらえるのは意味がありましたが、メジャーになってしまうとなんか当たり前になってしまい、そこにある辛さが伝わりにくくなるのかと思って。


杉本:声を挙げる人も不登校から始まってのひきこもり、みたいな。結構長期を過ぎてすごく語れる人がでているんですけど、やっぱりそれも渦中だと言葉が出ないんですよね。


田中:そうですよね。


杉本:力関係的にも出ないし、自分の頭のなかでも整理がつかないっていうところもあるし、世間や社会という大きなものとの関係のなかにおける自分の捉えかたになるから、その強大なところにみんなが向き合っていると思うのに、向き合えていないとか、いろいろあるんですけど。そういったあらゆる要因を考えていた様々な人たちが客観化出来てきたり、自分の持っている思いはこうだったという時間はやっぱり必要だったということかも。説得力を持って客観的に人に聞いてもらえる言葉を獲得するにはやっぱり20代ぐらいからひきこもっていた人も、相当な年月をかけてここまで強くなれるものなんだなぁというふうに思ったり。何人か当事者経験がある人に話を個別に聴いたりしてそう思うところがあります。やっぱり時間がかかると確かに社会経済的には損をしているんですけど。存在が抱えた苦しみを(分かりやすい言葉でいえば)乗り越えたことの言葉の強さというのはすごく感じるところがあります。「ああ、乗り越えられたんだなぁ」って。


田中:そうですね。1980年代90年代の頃に、福島大学の准教授のかたが不登校の当事者の会をつくっていて、高校生とか不登校の子どもたちと一緒に月1回集まったりして、その福島大学でその先生はこれから教師になる人の為に1年間のゼミを行うんです。そのゼミは不登校当事者、経験者の子どもたちを呼んで、学生と不登校をしている子どもたちとディスカッションをしていくゼミです。
 その様子をドキュメンタリーで観たことがあって。そのときに不登校を経験した若者がボランタリーになって一人暮らしをしている半身マヒをしている人のところへ行き、入浴介助をしてご飯を作って一緒にご飯を食べて帰る。後は路上で歌を歌っている。もう一人の女の子は不登校になったあと茶髪に染めて学校を辞め、バイトが続かなかったけど、今はパン屋で勤めて頑張っているという話をしたときに、教員のたまごの学生さんたちが「ちゃんと学校に行かなかったらダメじゃないか」というような正論を言ったときに「そうじゃないんだ。僕は先生に不登校になったときに明日待ってるよっていう言葉じゃなくて、ゆっくり時間かけて自分の考えを持ったらいいよとか、ともかくごちゃごちゃ言わずに待っていてほしかったんだ」という話をされたときに「待っているうちに卒業になるじゃないか」とか「そんな甘いこといっているからダメなんだ」とか言われるんです。でも子どもたちは冷静で喧嘩もしないで、「じゃあ少し僕たちの集りに来て下さい」と言って急先鋒だった学生の男女がその会に行くんですね。で、実際に子どもたちと触れあっていたら「口だけで行動に移さないからダメなんだ」と言っていた若者が「彼らがいかに苦しんでそして正しく生きているかがわかった。だからその気持ちがわかる教員になろうと思います」と言って卒業していき、もう一人の女性は「教師の道を最後の一年で辞めて、スクールカウンセラーになるために学部を変えて一から出直して、教員じゃなく生徒の心に触れる人になりたい」と言って方向性を変えたんですよね。当事者の子どもたちの言動が大学生の人生の行き先にこんなに影響を与えたのをみて僕はびっくりしました。同時に、その後の彼らがいまだにちゃんと路上で歌を歌ってボランティアをしている姿をみたときに、しっかり生きているなぁと思ったのと、女の子は何をしているかというと茶髪でパン屋さんへ行くんだけど生活リズムが乱れているので遅刻する。普通ならクビになるので「もう遅刻ばかりするので私のことを見限ってください」と言ったら、「いや、ともかく来てくれるだけでいいから来てよ」と言ってくれて、その日から茶髪の髪に黒い髪のウイッグを被って「店長だけは裏切れないからね」と言って頑張る。できるだけ遅刻しないで行くようになったら、数年後に「レジを任されたんだ」と言って「私のような者にお金の扱いを任せるなんて凄いと思うんだ」と言うようになって、「少しバイトをしてお金を貯めてもう一回通信制の高校に入り直して大学に行って不登校の経験をしたスクールカウンセラーになる」と言ってそのドキュメンタリーは終わったんですけどもね。


 やっぱり学校に行くとか行かないとか、こもっているという現象よりも,そこで考えていたり可能性をいっぱい秘めているというところにきちんと向き合って、その人の話を聞いていると凄く当たり前の立派な姿がみられて、そこにちゃんと触れることができると、そのことも知らずに教師になるよりも凄い経験を積めて自分の人生になるんだなぁと思いました。医療はノータッチなんだけど、凄い話だと思ったことがあって。そう思ったとき、あんまり薬だ治療だ認知行動療法だとか言って、「あーだこーだ」みたいな、そのときも不登校の子どもに困ったとき、行動療法でまず靴を履いて玄関に立つ、玄関出てから三歩戻っていくみたいな、だんだん*脱感作しましょうみたいな本が出たときに、「これはないだろう」と思ったことがあったんだけど、その日を境にやっぱり学校に行かすとか行かさないとかを目標にしていたらこの子たちとは付き合えないと思いました。その辺が今仰ってくれた50代になってからよく言語化できる、その人たちの言語化が僕ら支援する立場の人間側に色々と教えてくれて、いま十代の子に「そういう気持ちなんじゃないか」というふうにその言葉を活用させてもらって投げかけることで、言葉にならない思いに「それなんだ」っていうふうに思ってもらえるっていうのはあるんだろうなぁと思ったので、かつての不登校児だった大人の人の言葉というのは凄く大事なんだと思いますね。


杉本:僕もバイト先でも自分がひきこもりってことはさすがに恐くて言えませんけど、ただ両親を介護しながらとか、小さな理由だけは言っていて。清掃業界というのはおおむね互いのプライベートは干渉せず、というのが暗黙の了解なので誰もプライベートな話は聞かないですけど、一般的には「変」なはずなんですよ(笑)。僕もアウトサイダーになるとはまさか思わなかったけど、こっちの側にもちゃんと人はいるじゃん、みたいな。僕のようなバイトやっているとなかなかそういう機会に出会わないですけど、そういう響ける相手の人は時々はいるので、もうこれしか僕はやらないと決めた時期に出会えた場所の責任者が幸いな人で本当に良かったと思っているところです。社会的外見より自分が出来る範囲で安心感があればいいんじゃないかと。あと親がコロナに罹らないで欲しいです。もうしばらく頑張って生きてほしい。とりあえず一旦こういう感じで。本当に貴重で、示唆に富む話をありがとうございました。


田中:こちらこそ。ありがとうございました。

             (2020.3.29 田中康雄先生のクリニックにて)

*脱感作ー系統的脱感作法(けいとうてきだつかんさほう Systematic desensitization )のこと。行動療法の一技法。考案者は南アフリカで戦争神経症の治療を行っていた精神科医、ジョセフ・ウォルピ。古典的条件づけを理論的基礎とする。不安の対象となる状況・モノに対して、それらを対象者の主観的刺激の強弱によって階層化する。また脱感作と呼ばれるリラクセーション(主に筋弛緩などを用いる)を学ぶ。そして十分にリラックスした状態で階層的に低い不安対象に暴露してゆく技法。

田中康雄さん 略歴
1958年 - 栃木県生まれ
1983年 - 獨協医科大学医学部卒業。旭川医科大学精神科神経科医局入局
1985年 - 市立士別総合病院精神科神経科医員
1987年 - 旭川医科大学附属病院精神科神経科助手
1988年 - 市立士別総合病院精神科神経科医長
1992年 - 北海道立緑ヶ丘病院医長
2002年 - 国立精神・神経センター精神保健研究所児童思春期精神保健部児童期精神保健研究室長
2004年 - 北海道大学大学院教育学研究科教育臨床講座教授
2006年 - 北海道大学大学院教育学研究科附属子ども発達臨床研究センター教授
2008年 - 北海道大学大学院教育学研究院附属子ども発達臨床研究センター教授
2012年 - こころとそだちのクリニックむすびめ開院
現職 こころとそだちのクリニックむすびめ院長。北海道大学名誉教授

                        (インタビュー後記)

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