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人生観の乖離、恋愛、結婚。

「結婚において人生観の一致・類似は重要だ」
これに賛同する人はまあまあいると思う。ほとんどの人はそうではないだろうか。

そもそも人生観の枠組みにおいて、私は多くの人と異なる気がしている。

私と他人の人生観の類似、ましてや一致など起きることなどほぼない。

「生活を互いに助け合っていく人たち」であれば、いると思う。人生観の一致はそこには必ずしも必要ない。
(ただ、互いに「他者に開いた人」でないと、双方ともにストレスが溜まっていくことは避けられない。)

しかし、人々は言う。「それと結婚はまた別」と。
結婚を"目指す"「カップル」は、「人生の方向性や目標・目的が一致しているべき」と考えていることが多いらしい。

「人生の目標・目的」という言葉を使う時点で、私の人生観とは違う。

目的があるなら手段もある。むしろ、目的以外は手段化される。今この瞬間も目的のための手段となる。そこには生産性という基準も生まれる。
そして、目的は達せられると、目的ではなくなる。だから、別の目的が設定されるのが常だ。

目的へ向けた生産性は、「今」を道具・手段化して不完全なものにする。
当人は「生産的」であると思っているが、「今」しかないエネルギーをその場では発散することもなく、逆に無駄にしていることには気づかない。

私は「今」のエネルギーを最大限に感じたい。
当然、社会で「生活」を営む上で、ずっとそんなカオスな状態ではいられない。
程度の問題である。しかし、そういった瞬間がない状態が続くと、当人にとって「悪い」形でエネルギーの放出が"無意識"にいつかどこかで起きる。

もちろんプラクティカルな面では「目的」も「目標」も持つ。
ただ、「人生」という漠然としたレベルに広げたような目的・目標、夢、理想などは、特にない。
ニヒリスティックに「あるべきだが、あっても仕方がないから、特にない」ということではない。
そもそも「人生の〇〇」の欄があろうがなかろうがどうでもいい、ということ。

そもそも人の人生観が一致・近似することはほぼないと考えているので(というより「他者」はそもそもそういうものだから)、一致を基準にしたら「他者」と接することさえもできなくなる気がする。
「他者」のいない、外部拡張した『私』」との「結婚」を望んでいる人は多いのではないかと思う。

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