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性欲が鬱陶しく「なくなって」きた。未知の方向へ。

このブログを通して「性欲」「性」と向き合うことをこの半年以上してきた。

最近、投稿記事数が減ったのは、「性」から受けるモヤモヤを「言語化したい」という思いが減ってきたからだと思う。

経験は、言語化・記号化されることによって、牙を抜かれる。
言語化により、未知のものが既知になる、と思い込む(幻想を作り上げる)。
未知だとモヤモヤする。たいていの人は、モヤモヤを嫌うのでなんとか記号に当てはめて(言語化して)しまいたくなる。これは「悲しい」「楽しい」などの感情に当てはめる。あるいは、「モヤモヤしてるのは〇〇のせいだ」と事象や人に因を求める。その因果関係が実際に合っているかどうか、ここでは問題にしていない。少なくともそのような心の動きがある、ということだ。

ある身体感覚・精神感覚を言語化しても、その経験自体を全て表せているわけではない。むしろ、言語・記号ではほぼ何も表せていない。
その瞬間の感覚は、完全には言語化され得ない。


前は「性欲」が鬱陶しかった。なんでこんなものが出てくるのだろうと思った。
そういったものは、「私」の外側から来るように感じられた。「私」のコントロール外から。
これは「性欲」に限った話ではない。嫌な気分、モヤモヤしたムード、何かに対する恐怖、嫌悪感など、コントロールできない「私」の外側から来るような感じだ。
もう少し話を広げると、頭で広がる思考やイメージでさえもコントロール外にある。「次にこれを考える、こういうイメージが来るようにする」ことは基本的にできない。今日1日、どのような思考・イメージが具体的に繰り広げられるのか、それら全ての内容や順番を、朝起きた瞬間に分かっていることなどありえないだろう。
そういう意味では、それらもコントロールの範囲外にある。肉体的な話で言えば、消化の遅速のコントロールもできないだろう。もちろん、消化を早く、遅くするように「促す」ことはできても、直接コントロールできる人は通常はいないだろう。

上記は単なる例であって、ここで言いたいのは、全てをコントロールできるわけではないということ。それが自分自身に関してでも。
むしろ、コントロールできることの方が少ない。

それらは「私」ではないものとして扱われ、外側からの脅威として認識される。すると、脅威は排除されなければならない、という構造になる。全てをコントロールに置いた状態が理想状態であるという幻想のもとに成り立つ構造だ。
脅威さえ抑圧、排除してしまえば、全て解決すると感じてしまう。これはさまざまな分野でイデオロギーとして大変よく利用されている。

しかし、外部の脅威さえ排除すれば平和、理想になる、などということはない。
そういった外側のものは実は内在している。
この内在している感覚。これに気づく必要がある。
外側から来ると同時に内側から湧いてくる感覚。
すると、「外側からの脅威」が「内在するエネルギー」にもなる。

上記の、思考の流れさえもコントロールできないという例のように、私たちは常に、この瞬間瞬間に「未知」のものに触れている。
その感覚をどうにか「既知」にしてしまおうとする。なぜなら、外部の未知は脅威だからだ。
ここで、それを「既知」化するのでも、抑圧するのでも、言葉に押し込めてしまうのではなく、ただそれらを感じ、その感覚に自身を飲み込ませてしまう、ということをしてみる。身体に広がっていくエネルギー。ここには小さな「死」がある。
未知を未知のままにしておく。むしろ、未知に進み出ていく「生」の在り様。

中でも「性」や「死」に関するものは、自意識のコントロール外の脅威、あるいは「暴力」として認識されやすい。しかし、それらは内在するものだ。それを受け入れる必要がある。

それらとただ向き合い、屈服する。すると、鬱陶しくなるどころか、エネルギーに満ちている自分がいることが増えてきた。

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