恋愛に興味がない≠性に興味がない
このブログを書き始めたときから言っていることではあるけれど、
恋愛に興味がない≠性に興味がない。
でも、恋愛と性は"世間"では、強固に結びついている。
そんな結びつきが自身の中にも確かに強くあった。
半年前でも、その結びつきの影響で凝り固まった部分がまだ少しあった。それにより、性に関する独特な不快感を形成していた。あるいは不快感に「悩んで」いた。
半年前と比べて今は、自分の中でその結びつきがほとんどなくなってきていることに気づいた。
コリがほぐれてきている。
頭で「理解」するのと、「体感」として感じるのは違う。特に最近は、「体感」になってきたのかもしれない。
性的な欲求。
この欲求は恋愛や性行為でのみ受け応えられる、前はそう思っていた。
今は、性的な欲求が「性的」なのかもわからなくなってきた。内から湧き出ると同時に外から来るとも感じられる、これをエネルギーとして感じるようになり始めた。すると、「性的な欲求」としてのエネルギーと、その他の身体・精神感覚との境界が曖昧になった。
性行為をしたい、その感覚は今もあるように感じる。
でも、「恋愛」をしたい、この感覚は今はない。
さらに、重要なのはこの「性行為をしたい」の感覚でさえ、本当に「性行為をしたい」なのかもわからない、ということ。
性行為なんて、「現実的」な面では、ただの物理的な接近。肉体を擦り合わせるだけだ。
したいのは性行為ではなく、自分の殻を破り、何かの境界を超えていきたいという欲求なのかもしれない。
そういう意味では、確かに性行為はその要素を多分に持っている。お互いのパーソナルスペースの侵食どころか、肉体的にも境界がなくなっていくわけだから。
でも性行為それ自体が重要なのではなく、その高揚感と境界が消える、あるいは境界を超えていく感覚を求めているのだと思う。
これはもはや「性」ではなく、「生」の広がりそのものなのかもしれない。個の枠を破って広がっていく。そこには「死」と、広がっていく新たな「生」がある。
エネルギーとして感じるこれは、恋愛や性行為に向いているのではなく、「生」のエネルギーそのものなのだろうと思う。
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