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BFF ベタ・フラッシュ・フォワード[3]Aokid ダンサー 【ぼくらは"偶然のダンス"の上映された街に住んでいる。】

     *『建築ジャーナル』2019年3月号の転載です。 
         誌面デザイン 鈴木一誌デザイン/下田麻亜也 

ダンサーには舞台衣装がある。Aokidにとってのそれは、水泳パンツに水 泳キャップ 、そしてゴーグルだ。高校生の夏を最後に、それらを身に着け ていない人は多い。

なぜAokidは、寒空の下でも、それらで踊り続けるのだろうか。

教室の隅で、階段の踊り場で、雪の降る校庭で、誰もいない昇降口で。制服姿の高校 生が一心不乱に踊っている。ブレイクダンス やバレエのような動きの映る一方、デタラメに動かしているような体も映る。

ザラついた 4:3の画面に映るそれらは、2002年放映の清涼飲料水MATCH◆のテレビC Mだ 。MATCHはその発売以降、いつも青春を後押ししてきた。低彩度な制服の彼ら彼女らの傍らにある、ビビッドな水色と黄色。学校という広い場所の、 中心たる体育館のステージではなく、傍らや隅で踊る姿を写し取るこのCMのまなざし。
社会における中高生の存在はまた、都市の隅でわき目もふらずに踊り続ける存在のようでもある。

一方 、近年CMで見かけるダンスとはどのようなものか。

校庭いっぱいに並んだ高校生たちが一斉に踊る、楽しそうに、そして上手に。

そんなポカリスエット◆のCMでなくとも 、群舞がインターネット上で話題になることの多い最近である。単一の正面舞台、そして群舞であること。それは舞台芸術の古典的な 形式であり、それゆえ訴求力の高い、われわれに根源的に訴えるものの多い上演形態だ。人数の多さは、参加者の広さを指し、誰しもが仲間であるかのように見せる。

しかし、この群舞の、校庭の向こうに見える校舎の中、教室の窓辺には本当に誰も残っていないのだろうか。
多様さを包含しきることは本当に可能なのだろうか。  

クリアになっていく世界の広がりに追いつききれない私は、ポカリスエットの群舞に一抹の疑わしさを抱いてしまう。
窓辺の一人をこそ掬いあげてきたMATCHの まなざしは、多様さすべてと対峙する解決法ではないが、少なくともそのありようと困難さを示唆している。

Aokidにとってのダンスとは、こうした状況をなるべく多く拾い上げられる、そんなまなざしの獲得へ向けた練習を指す。

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