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09. Angel Echoes

あぐっと、大きく開けた頭部だけの生命が栄養価の高いラム肉を口の中に放り込んで下品な音を立てながら噛み砕き飲み込んでいる。

彼の喉頭から先がどこにあるのかはわからないけれど、通常の人間と同じように流れ出す唾液によって溶かされた肉塊は喉の奥へと吸い込まれるようにしてどこか違う空間へと消滅してしまった。

いまだに彼が食事を必要としているのは古い映画の台詞にあるように、きっと習慣から逃れることが恐ろしいからなのだろうかと『卯紡木下弦』は異世界から来た自分とは違う形の生命体のことを理解しようとする。

「けっ。安い肉だな。俺が食事を必要としないからといって手抜きになっているのだろ」

コクっと『卯紡木下弦』は頷いて『傀没』の悪態に特に嫌がる様子もなく応えながら、この次元には存在していない体内に栄養分として吸収されることのない形骸的な食事風景が繰り返されるたびに、『卯紡木下弦』は胸元で十字を切り祈りを捧げる。

「どちらにしろさ、意志を剥奪され統制された機械化兵の量産で『執務室』が主導する人間の発展的研究という企みを台無しにしてやるっていうなら、暴力の概念を理解する段階からすでに履き違えた人形どもに対する復讐みたいなものを私たちは実行するつもりなんでしょ。けどさ、やっぱり私は友達のほうが大切かなー」

『傀没』と『卯紡木下弦』のいる真っ暗な部屋で──SOUND ONLY──とだけ表示されたホログラフィックモニターから女の声が機械的な音響をまとって発せられる。

「げらげら。それならよ、穢れの濃度を高めてまた隠匿者どもを呼び出すか。影が落ちればやつらはやってくる。俺たちは手を汚す必要もなく、手柄だけを手に入れられる」

──SOUND ONLY──と書かれた別のホログラフィックモニターから下卑た笑いと下品な声が聞こえる。

『卯紡木下弦』は暗闇の中で偏光を拒否するようにして少しだけ顔をあげてつい人間的な嫌悪感を表情に出して露わにすると、まるで抱えた憎しみを小さく抉り取るようにして『傀没』の前に置かれた仔羊のロティをフォークとナイフで切り分けて首だけで生命活動を維持している『傀没』の口元に運ぶ。

マナーも作法も無視してただ運ばれた肉塊を消化する『傀没』の食事に『卯紡木下弦』は安心して誰かの話を聞いて自分の意志をねじ曲げるのを辞めて首を下に傾けてとめどない憂鬱を優先する。

まるで、殉教者のように薄汚れた白い布だけをまとっている『卯紡木下弦』の法衣には血液のようなものが付着して洗われることすらなく汚れだけが幾重にも重ねられていくようだけれど、不衛生な臭いのようなものは自然と漂わず不快感が増幅される様子も感じられず、それがまるで神の身技とでも呼ぶべきような聖性すら帯びて『卯紡木下弦』を包み込んでいる。

「なんにせよ、工程表に残された時間は二百四十七時間だ。引き渡しまでには、おれたちの介入が完了するはずだ。『アセチルコリン濃度』の上昇を終え、人を殺すということを受け入れたけれど意志を持続出来なかった腐敗衆を完全に統一された機械にアップデートするんだ」

部屋の中央左には眼鏡をかけ縦縞のストライプのスーツと品のいいカッターシャツに臙脂色のネクタイをしたインテリ風の男がホログラフィックモニターに映し出されて右手のexplorer Ⅱで時刻を確認する。

「げはは。じゃあ、まずはリンネのやつに頑張って貰おうか。初恋の味に思う存分、悲しみと孤独を添えて快楽の境地と一緒に提供させよう。俺たちが次のファーストフードって事だ」

──SOUND ONLY──と文字が表示されていた左上の画面が真っ黒に染まると赤い丸が浮かびあがり真っ白な剥き出しの歯がげらげらと笑う映像が映し出される。

『卯紡木下弦』は食事を終えた『傀没』を抱えたまま四つのモニターに囲まれた真っ暗な部屋の入り口に向かい、ウィーンという電気音とともに自動扉が開く入り口に立つと、室内を無言で退出する。

赤い丸と白い歯のモニターの光量があがっていくと真っ白な化粧で塗り固められたピエロの隣のインテリ風の男の映像は既に途絶えてしまっているのか何も映さない状態のままで、右側二つのモニターは──SOUND ONLY──という文字列が表示された状態で一番右側のモニターから少しだけ迷いのある女の人の音声が再び聞こえ始める。

「嫌いな食べ物を残さず食べる感じ。私はただ普通の魔法少女でいたかっただけなんだけどな。お金の為じゃないって言いたい。けど、深入りしすぎて食べたくないものを私は食べようとしているのかもしれない」

甘ったるい女性の声が聞こえる一番右側のモニターに反応するようにしてピエロがヘラヘラと笑い下品で下卑た声に反応するようにして今まで押し黙っていた右から二番目のモニターから喉がガラガラにしゃがれた声の陰険そうな男がはっきりとした口調で話し始める。

「何を言ってんるや。わいらは大人やろ。うだうだ言ってないで時間通りに物事を進めるべきやわ。とりま、わいからはインチキのお手本をみせたる。世迷言より金や。はよ、片付けてしまいましょ」

ピエロは当たり前の面白くもない話にすっかり笑うのを辞めて口を閉じることを選択すると暗闇に溶け込むようにホログラフィックモニターが消えてなくなり、音声の発信されているモニターもプツリと途絶えて電源が落ちる。

唯一女性の声が聞こえてきた右端のモニターも後悔と逡巡を妖艶さで打ち消すようにして暗闇の中に潜り込んでいくと緊急通信の為に用意された一室には右から二番目のしゃがれた声で話す人物のモニターだけが──SOUND ONLY──と表示されて存在を明示している。

「けど、大人ってなんやったっけな。金ならぎょーさんもーとる。ま、深く考えるのはやめときましょか。どないになってしまってもわいはわいや」

最後まで居残っていた右から二番目のモニターの電源も掻き消えた生命と同化するようにして漆黒の空間へと落ちてしまうと室内は完全な暗闇に包まれて視覚認識が奪われていく。

「私には確かに視覚器官は必要がない。他の感覚器官が完全に両眼を補完しようとしているからです。網膜から光を摂取することが出来ず視覚野にイメージが想像される色のない世界という状態が貴方の世界とどう隔絶されていくのかということに関しては確かに興味がありますが」

「いやいや、そんなこと言ってもちゃんと見えた方がいいでしょ。第二視覚野の改良を拒否って別にそこまで暗闇にこだわる必要ありますかね。『Ιイオタ』がお送りしています」

「少なくともこの沈むような暗闇は先天性ではなく後天的なものです。視覚の本来の形もおぼろげながら記憶に残って知っている。だからあの脳髄に刻み込まれる記号だらけの世界のことを私は眼球の獲得とまでは考えていませんよ。もしかしたらあなたたちには理解できない時空を認識し始めているとしか言いようがない」

「けれど、それじゃあ、やっぱり私たちはいらないね。『Σ』だよ」

ぼくの元に『非可聴領域』を利用した非音声化通信がぷっつりと途絶えてしまうと、おそらく彼に植え付けられ拡張された脳髄に切り刻まれた破片たちのネットワークがなんらかのジャミングによって阻まれてしまう。

開放された感覚によって久しぶりに脳味噌を一人きりで独占出来るという至極当たり前の事実が訪れたことに喜びを抑えながら受け入れて、けれど、その日が来ることを事前に予期していたかのように斎藤誠はにこやかに振る舞いながら『不知火』を杖にしてリズミカルに渋谷の街を叩くようにして歩いている。

カツ、カツ、コツ、カツ、コツと革靴で地面を叩き、少しだけ跳ねて、左脚の革靴の踵で右側の革靴の踵を叩き、『不知火』でカツン、カツン、とアスファルトを叩く。

渋谷TSU+AYA前で無限の喜びに満ちた歌でも歌うように軽快なステップを重ねて歩き回りながら、ほんの少しずつ憂鬱めいた空間から微かな祈りに満ちた状態へと位相を反転させるように心象風景が描きだす軸線をずらしていく。

『不知火』を使って空気の層を断裂させて彼がいた場所を子供たちが無邪気に遊び回る閉鎖空間から遠ざけていく為の儀式を敢行して軽薄で軽快で無慈悲なリズムが人の中で鳴り響いて喧騒を伝えたのだとしても許可されるだけのステージを作り出す。

「雨乞いが正確に行われた。祈りが通じて、渇いた皮膚を悲しみに満ちた水分が濡らしていく」

一週間ほど前に、ちょうど七日と七時間ぶりに会った彼女が初めて出会った時のように指先に触れて、あの時とちょうど同じようにぼくの杖の代わりになって手を握り返してくれた時みたいに、彼女にはぼくと同じ名前の男の匂いや記憶が否応なく染み付いていて剥がすことなんて出来なくて、そうやって現在いる時空からわずかにずれた場所に存在している過去の残穢は願い事を届けるように幾度も立ち現れて痛みによって忘却を拒否している。

見えない残像と存在するはずのない霊素によって脅され続けているという彼女の病は眼に見える形でいっそのこと消えかけた心の傷跡そのものが実像へと転換するのを待ち望んでいるように感情を揺さぶりながら彼女の居場所を探り続けているようだ。

今日はやはりいくら望んでも彼女と出会うことは出来ないけれど、そうやって七日と七時間ずつずれてしまうぼくと彼女の邂逅の原因が『預言の書』にいつの間にか書き込まれてしまった虚偽が取り繕われてしまうことが原因であるとぼくの後ろをぴったりくっついてくる影が教えてくれる。

彼女と出会い狂気にも似たうんざりするようなお願いごとがベッドの上で繰り返されるたびに、身体中に染み込んでくる劣情が光を感じることの出来ない眼球を通さない出来事たちの記憶を再生してぼくに視力が存在していないんだということをまざまざと伝え続けてくる。

大人になる前の僅かな記憶がゆっくりと形になって幼児性が掻き消えたばかりなのに襲い掛かってくる。

「見えないから足掻くのですね。私たちに頼ることなく病的なまでに聴覚に固執する理由がなんとなく分かりました。私に毎日しがみついてください。すがりついてください。祈りを捧げてください。『φファイ』には限度はありません」

例えば、ぼくがこの脳髄の自由を完全に手に入れて、もしごく普通の世界を二度と見ることが出来ないのだと教えられてしまっても、甘い誘惑に身を委ねていること自体が逃避なのだったとしても、皮膚を削り落とされそうな時間が重ねられていることについて、ぼくは結局のところ白杖の先についた水滴に殺意をこめる程度のことしか出来ないのかもしれないとつい弱さと一緒に露呈した自我の拠り所を、ヘッドインセプターをつけた彼らに求め始めているのかもしれないと気づき始める。

「まあ、時が止まっていることに気づけば恐ろしくなるよ。私ってさ、生理中だからって君に痛覚細胞の反応を冗長に感じさせている時があるもん。『γガンマ』がお送りするよ」

肉欲が肌を求める。

静脈を走り回る覚醒物質のように離れることが恐ろしくて少しでも血液中に、粘膜に、快楽中枢に、彼女の残滓が感じられてしまうことが堪らなく憎らしくなり、記憶に押し寄せてくる破壊衝動で右腕を掻き毟り皮膚を剥がし、あなたを求めることがなぜこんなにもいけないことなのかという思いに断ち切られそうになる。

「欲しいのか。実はあれは俺たちが用意したお前の為の餌なんだ。飼育されたペットみたいに懇願しろ、欲しいと願え。俺たちにすがりつけ。『αアルファ』は『Ωオメガ』を許容することはあり得ない」

そうやって受信する信号と記憶を頼りに満たされない情欲を思い焦がれてみたとしても、指先には白杖の柄のプラスチックから伝わる無機質な誘惑だけで私に何も与えてくれはしない。

外気と私を隔てる境界線が曖昧になり指先に伝わる感覚が眠りかけている自我に関して何故私がここにいるのかを自問自答を促してくる。

『非可聴領域』に関する限定的通信がぼくに僅かばかり残っていた病を素材にしたあなたの破片なのだと少しだけぼくは気付いてしまう。

「繋がりあっていたのだから、引き剥がされないようにすることが当たり前だと思ってくれているんだと私はつい伝えてしまう。だって私があなたに苦しみを与えることがどうしていけないことなのかしら。あなたは私を求めてくれている。私は片時もあなたを離すつもりがないの、本当に」

私は黒い眼帯を抑えながらうずくまっている。

暗闇の中で彼に近付こうとして、どうにかして彼の考えていることを少しでも理解したくて、未だに私にだけ残されている正しい右眼なんてものをどうにかして抉り取ってしまいたいけれど、そうやって嘘を許せない偽善的で偽悪的なあなたに近付けば近付くほどに焼け焦げてしまう身体の在り処がまだほんのちょっとだけ優しさが残していることに嫌気が差すぐらいに絶望を感じて何も見ないように何も聞かないようにただじっと私はうずくまっている。

「いいか。お前が私から逃れることは出来ないんだ。ほら、よく見てみろ、心の奥底で感じ取るんだ。お前の左眼は既に膿み始めて脳髄を侵食してどんなに入れ替えたところで新しいお前は現れない」

影の形が強まっている。

有り得ないものが、見えないものが、存在し得るはずのないものが、形を作り始める。

それは、まるで太古の昔に、信仰と呼ばれる集団的無意識を担保する抽象的思考が実体化して信じることをやめさせようとしていた時代の夕闇の始まりに起因する超常的現象として燃える人影を定義しようとし続ける。

「だから私が信じれば信じるほどにあなたの存在は知覚の領域まで近付いて私の傷痕にゆっくりナイフのようなものを突き立てて痛みを与え、苦痛を与え、未来を除去しているの」

「わかっているさ、だからぼくは君を求めているんだ」

亀裂が入り込む。

鬱陶しさが滲んで境界線をぶち壊しにする。

投げ入れられた希望を求めようとする意志がぼくの中に混入して破壊し尽くそうとする奇妙な連鎖が不自然な連結を見せる。

ガガガとまるで不自然な帯域の無線が急に割り込んでくるようにして自我と他我の境界線を曖昧に溶かしてぼくと私の座標が重なり合おうとしている。

「せやろ。お前が感じている認識はインチキな魔法使いが作り出した錯覚なんじゃ。今お前がどこに向かっているかわかっとるか」

やはりというべきか、当然の帰結というべきか、時計の針が進み続けることはどのような行為であっても遮断することが出来ずに、秒針と短針と長針が必ず時を刻み続けて夢に溺れないようにして居場所を特定させようとしている。

歯車の動きは一分の乱れもないはずなのに必ずどこかでずれ始めていて都合のいい物語を作り続けてしまう。

終焉も始まりも最初からそこにあったような顔をしていつのまにか正常な時間軸へ法則性のない事象を混入させる。

「電波干渉を遮断。まずはここだな。『赤い蝙蝠傘』と黒い丸サングラスの男を見つけるぞ。精神干渉を得意とする対象との接触に関する視覚の補助は『πパイ』が担当する。よろしく」

「何度も伝えたことだけれど、例え補完されて合成されたとしても色と形は私の領分ではない。お前たちが見栄を張り、現を抜かして座標系をミスれば余分な死体が増える。くれぐれも間違いなど起こすなよ」

『赤い蝙蝠傘』を持った俺は降り始めた雨が作り上げたマジックのインキをうっかり落としてしまわないように注意しながら渋谷の街を歩いている。

『赤い蝙蝠傘』はふわふわと揺れて、例えばこの街では誰もが誰にも興味がなくて、ただ歩いているときに突然訪れる違和感など放置したまま過ごしているようで、たくさんの男と女が傘を挿して歩いているさらにその上に『赤い蝙蝠傘』が浮かび上がってくるたびに垣間見える黒い丸いサングラスは、きっと誰かにどうにかして見つけてもらいたかったはずで、雨音が笑い声を遮断している訳でも、雨雲が嘲笑から逃れている訳でもなく、ただ作法に則って選びとられた形なのだと街ゆく人々に伝えるようにして渋谷の象徴を俺は『赤い蝙蝠傘』を持って歩いている。

不自然な色で乱雑な絵を塗りたくられたピアノが三人の男に取り囲まれて悪戯に無作法にビショ濡れのまま鍵盤を叩きつけられている。

傘を持った人集りが出来てしまい『赤い蝙蝠傘』を持った男がずっと昔から予め決められた座標を通り過ぎるのにちょっとだけ遅延を生じさせる。

街ゆく人々が気付いた時にはもう何もかも遅くて、だからいつの間にか人混みを避けるようにして雨が降り注ぐセンター街へと抜けていた『赤い蝙蝠傘』を持った俺は、何故なのかは分からないけれど、空気中を跳ね返りながら鼓膜に届いたビルの窓ガラスに跳ね返る降り注ぐ雨音から、黄色い歯車のオブジェが意固地に前に進むのを嫌がり始めているのを感じ取る。

「ねぇ、知ってる? 最近マルキューの女子トイレで噂になって幽霊の話」

「なにそれ。盗撮マニアかなんかでも忍びこんでいるんでしょ」

「違う。最初はさ、小さな物音。誰もいないはずなのに足音」

「気のせいかなんかでしょ。だいたいドアの向こうじゃ誰がいるかなんてわかんないじゃん」

「洗面台の前に立っていると鏡に映るんだって。首筋の系動脈から血が流れる銀髪の男が。で振り返ってもいない」

「うわっ。でたその手の話。で、その姿をみた人は一週間後に死亡。お前、吊り橋効果でも狙ってるのかよ」

「私の場合は、トイレの中にいたら足音が聞こえて、けど足なんて見えなくて、パッと足元のドアの隙間を覗いたら視線が合った」

「え? なにその変態。頭おかしいだろ」

「それでね、──お前じゃない──って」

停滞した歯車によって飾り付けられたショーウィンドウを通り抜けて公園通りに向かう若い男女のカップルが渋谷周辺で巻き起こる視覚にまつわる怪異の話をしている。

ぼくは彼らとは反対方向に歩いていきながら、聴覚に意識と感覚のチューニングを合わせて盗み取るようにして道路を濡らす水の音をすり抜けて聞こえてくる会話に聞き耳を立てながら乱された歯車の結果として生じた小さな異変が渋谷の街を歩き回っているのを感じ取る。

まるで夢の中から舞い戻るようにして白い闇がぼくの意識に訪れる。

どこから声が届いて暗闇の底から救い出すようにして近づいてくる。

「少しは落ち着きましたか。珍しくあなたの方から薬の量を増やして欲しいと言いだしてくれたので、アザピロンを処方しています。あなたの幼少期の記憶からすれば当然の話ですね」

御茶ノ水医大の外来診察で『安倍医師』は、私に処方箋の分量に関する問題についてそう答える。ちょっとだけ溜息をついて私は『安倍医師』の黒ぶちの眼鏡に映る自分の姿を見つめ直す。

「不安が大きくなって咎められている気分になることが多くなってきているんです。左の義眼だけが意志を持ってどうしても違う世界を見ようとしてしまう。そういう感じかな」

「人格の乖離などは起きていないけれど、極端な精神のぶれについていけていない時がある。強くなり過ぎているのかもしれないし、いい兆候が出始めるきっかけが訪れているのかもしれない。安定した生活と適切な食事、少し無理をしているようですね。お仕事忙しいのですか?」

「少しだけ。切り取る世界の幅が広くなってきていて、見えない場所が少なくなってきている。光ばかりが私を訪れて影が薄く形を潜めている。私自身を取り戻そうとしているみたいについ夢を見てしまう」

『安倍医師』はカルテに私の症状を書き込みながら、注意深く彼女の様子を伺っている。

歯車の動きに乱れが生じている。

脚本家は消えたはずなのに、書かれた筋書きだけが一人歩きをして新しく産まれた世界に居座っている。

『作られた人』たちですら、管理出来ない予測不可能な世界が訪れようとしていると彼は伝えようとしている。

「わかりました。処方に関しては先ほど伝えた通りで問題はないでしょう。ただしばらくの間月に二度の診察が必要なのと出来れば意識的に仕事の量を減らしてみて下さい。わかっています。眼が見えているんですよね?」

コクリと頷いて、当然の帰結と当然の返答を受け入れるようにして、私は黒い眼帯を外す。

まるで私の気持ちを汲み取るように左の義眼がギョロリと動いたような気がするけれど、左眼に私の意志は届かない。

そうだ、真理は私には訪れてはいけない。『安倍医師』はそのように私に伝えようとしている。

「どのように解釈すればいいかはわからないです。けれど、私は、私と以前に恋人同士だったと位相のずれた世界から来た人から伝えられ、同じ名前の違う人と出会いました」

「そうですか。『私たち』はあなたに干渉はしません。ただ不必要なパーツや不適切な部品を正しい場所に戻すことはあります。そうですね、今日はこの辺りにしましょう。きっとこの変化はあなたにとって良い兆しを示している。個人的な話ですが、私はそう思いますよ」

安倍医師はニッコリと笑い、私の不安を少しだけ解消する。丸椅子から立ち上がり振り返らずに心配事だけ置き去りにして診察室を後にする。

「私はきっと少しずつ解放されているような気がするんです」

『安倍医師』はカルテに珍しく書き忘れていた日付を書き入れて、診察室のPCに届いたメールを確認する。

自分勝手な問題を性急されそうだと溜息をついて、深く椅子に腰掛け直す。

目頭を抑えて身体に入り込んでくる重苦しい疲れを逃すように瞼を閉じて、そういえば、この瞼の裏に移る一筋の光は彼らには見えていないのかと、当たり前のことを思い出して、メールを返信する。

【セイメイ@七人目は到着が遅れるようですが、あなたの気を煩わせるほどではありません。悪しからず。必要であれば、抗鬱剤を処方しますよ】

メールを送り終えたPCにはクランケの左の義眼のレントゲン写真が映し出されている。

灰色の画像に映し出される義眼の瞳孔周辺には精密な機械のように歯車が幾重にも重なって取り付けられていて、複雑な機構の機械の写像に、単なる見た目だけの義眼とはまるで構造が違う義眼が『安倍医師』のPCに表示されている。

一つ一つの歯車にもしかしたら違いなど見出す必要性はないのかもしれない。

「バカな話。気のせい。だろ」

「そう。たぶんね。気のせい」

「なんだよ、やめろよ」

「今日で六日目。明日が約束の日」

「一緒にいてってことだろ」

幽霊って呼ばれるもの。

魂と呼ばれるもの。

ぼくがぼくであり、私が私であると規定されるもの。

ぼくが今いるこの空間を感じることの出来る場所の少しだけずれた場所にこっそりと住んでいるもの。

ぼくの視力が奪われて暗闇の中に引きずり込まれた時にようやくずっと傍にいたのだと教えられたもの。

決して知らなかったはずでもなく、見ないふりしていたわけでもなく、聞かないふりをしていたわけでもなく、感じないふりをしていたわけでもなく、ただ単純にいなくても困らなかったし、いたとしても繋がらなかったし、消えたとしても気づくことがなかったから、だから、見えないと分かってから、すべて消えてしまったと分かってから、ぼくの傍から離れることなんてなく、ただ寄り添っていたもの。

つまり、ぼく。

『φ』が『赤い蝙蝠』の視覚認識をぼくに送り届ける。

たぶん、あの『赤い蝙蝠』は嫌がらせのようにして、ぼくが辿る座標軸だけを選んで歩いている。

気付かないと分かっていて、すぐに気付かれると分かっていて、そこを歩けば誰かの肩に当たり、痛みを与えて、喜びを感じさせて、陰湿に意地悪さを露呈させて他者を感じさせようとその境界線だけを姑息に意地汚く誰にも気兼ねなんてせずしつこく執拗に忘れないように忘れさせないように細く美しくて途切れそうなワイヤーの上だけを選んで歩いている。

ひたひたと水溜りを歩く足音が十五メートル先まで近づいてきた時に、雲から落ちてくる涙を通り抜けながら『赤い蝙蝠』が近づいて来てニヤついた顔を向けてきているのをぼくはなんとなく表情筋が緩む音を鼓膜で感じ取ってしまう。

色、と呼ばれる光の反射によって認識される現象を渋谷の街を走る音の跳ね返りだけで『赤い蝙蝠』はぼくに健常者が持ち合わせている当たり前の現実を雨が降る街の喧騒に合わせて踊りを踊れと嫌味をたっぷり混ぜて伝えようとしてくる。

彼はぼくの眼が見えないことを知っている。

だから、わざと、色を感じさせようとしている。

赤色が光のスペクトラムに存在する知覚上の最も外側にいる可視光線であるならば、やはり、彼が境界線上を歩いてわざとらしく、ぼくに消えてしまったはずの色を捉えさせようとしているのは何か訳があるのだろうか。

常人以上の聴覚を手に入れて十五メートル先で動く唇のずれる音を認識出来たとしても、ぼくの両眼は、ぼくの瞳孔は、ぼくの視神経は、ぼくの視覚野は、降り注ぐ雨音に騙されることなく赤い色など感じることが出来ないのだ、だから彼は嫌味ったらしく『赤い蝙蝠』になってぼくに微かな動きで羽のはばたきで距離を感じとらせながら、跳ね返る音でぼくの座標系に赤い色を特定させようとしている。

まるで、弱者を詰るようにして、ぼくと全く同じ方法で近づいてくる『赤い蝙蝠』が健常者と全盲の決定的な違いを語り始めようとするのを咄嗟に感じ取ると、ぼくはすっとチタン製の『不知火』で右手を水平に振り抜く。

ぽとりと地面に何か柔らかくて硬いものが水の溜まったアスファルトに落ちる音がする。

五メートル先で嘲笑う『赤い蝙蝠』の匂いを正確に感じ取る。

悲鳴はまるで蓋をされてしまったように鼓膜に空気が揺れ動く振動だけを伝えて記憶から過ぎ去っていく。

返す刃と一緒に右脚を踏み込んでピシャリと水滴を跳ねさせると、『不知火』と『赤い蝙蝠』の距離を間違えることなく確実に捉えて右の首筋から左肩にむかって研ぎ澄まされた一閃を綺麗に通す。

どこかで空気の層が歪んでしまっていたのか刃先に軽さだけが残り、ふり抜かれた刃から血液がビシャリと音を立ててアスファルトを叩く。

「いややな。お前さん人殺しやないけ。こんな街を堂々と歩いていいわけないやろ。消えてしまってくれや」

しゃがれた声だけがいつのまにか耳元に移動している。

聴覚が追いつくのを辞めてしまえば、脳髄の奥底で眠っていた資格がもう一つ開いたと感じ取れる場所にぼくはたどり着き、待ち構えている不自然なものに取り憑かれてしまうのを許してしまうともっと純度の高い規則性が存在するはずの場所へと連れさられてしまうのかもしれない。

回転運動を持続させて、左脚を七十五度だけ外側に傾けて後を追うようにして右脚を百六十五度回転させて身体で弧を描いていつの間にか色を捨て聴覚と嗅覚に全神経を総動員させて居場所を探す。

身体は雨で体温をすっかり奪われて、ビショ濡れのままとっくの捨てたはずのものに取り憑かれている。

失くしたはずのものが追いかけてくる。

呼吸を一瞬だけ止めて生命が続いているのを確認する。

寒くて震えが止まらなくなり死があたりを漂っているのだと明確に自覚する。

「下劣さを維持したまま呼吸をして悪意を産み出して駒の配置を変えて私を試しているつもりか。盤上からはみ出た駒に与える役割を『赤い蝙蝠』、お前が決めるのか」

無意味を吐き出してみると反響した音で身長百六十七センチほどの人間だとようやくわかり、ぼくを押し潰そうとしていた恐怖が音もなく移動する動作を封じ込めるために機先を制し速度で視覚を強引に追い抜こうとする。

鼓動を忘れずに、ビシャビシャとバラついた足音の中から、意図を理解しているものだけを拾い、真っ直ぐに脇を引いた右手で真っ直ぐに正面に向かって『不知火』を突き刺す。

僅かな布と肉の破片の分だけ刃先が重くなり左から加速してくる嘘に掴まりそうになる。

「わかりやすいほうがええやろ。みんなあんたみたいに暇やないし、余計なものまでみーへんよ。謀略の出番を偉そうに宣いながら暴力の磁場に簡略化してバラバラに置き換えて嘲笑っとる。わいのいうとることなんて頭がわるーすぎて伝わらへんか」

三メートル先で不規則な動きたちが突然立ち止まる。

サイレンが鳴り、邂逅を遮断するサインを与えられ、『赤い蝙蝠』の笑い声が耳元を通り過ぎてそのままゆっくり遠くへ神経を逆撫でするようにして離れていく。

撃鉄の引き起こされる音がして、怒声が三方向から同時に聞こえ、無数のシャッター音に取り囲まれる。

三秒の沈黙の後、強引にアスファルトになぎ倒されると地面に激突した衝撃で左頬を強打して頬骨に僅かな亀裂が入り込む。

身体中が空から落ちてきた雨で濡らされてしまうと、ぼくの意識と結合して鋭利性を保っている『不知火』は姿を隠してぼくの右手に握られたまま笑うのを辞めている。

『赤い蝙蝠』はもう見えない。

ずぶぬれのアスファルトの地面を伝わって辿り着いた街角を歩いていただけの見ず知らずの血液が口元を汚す。

三台のサイレン音に刺激された無数の人の声が円を描く。

無線機で連絡を取り合っているのはぼくに対して現行犯を適用するのが不可能だと知らない駐在の警察官だろう。

ヘリコプターの音が聞こえて報道管制がもう間もなくしかれることを理解して潔く力を抜く。

スマートフォンに納められたRawデータに予め用意されたウィルスが混入して『赤い蝙蝠』と同じようにぼくの姿も跡形もなく降り注ぐ雨によって彼らの日常からかき消されてしまうんだろう。

「口惜しさというよりも影も形も魂すらも存在を定義することが出来ないシステムを嘲笑ってしまう。さて、諸君。ぼくをパトカーまで案内してくれたまえ」

変革の合図と共に両手を抑え込み雨に濡れる地面に押しつぶしていた二人の警察官がぼくを立ち上がらせて予定調和の乱暴さを押し付けて、ぼくを雨ではなく血液で汚した場所から少し離れた先で無線機がけたたましく交信を繰り返す警察車両の一帯へと連れて行く。

「わかっているのか。これは重大な職務規定違反だ。いくらなんでも多少の拘留は覚悟しておけよ」

事情を知っている四十代前後の男が助手席から話し掛けてきて、ぼくに束の間の安寧を与えてやると約束をする。

「わかっていますよ、田辺先生。けれど、『S.A.I.』の連中は侮ることが出来ない。装備の変更と『従属者』の使用を求めます」

ちぃっと舌打ちをする『田辺茂一』がスマートフォンのガラス面をタップしてぼくの要望を渋りながらも素直に受け入れて操作し始めている。

「『衣笠祥雄』の使用を許可する。死が街を襲って一人歩きをしているならば次回はおそらく『TV=SF』の介入が始まる。いずれにしろ、我々の監視の目を掻い潜って通常周波数に割って入るほどの手練れだ、お前一人では手に負えまい」

ふんっと、鼻息を鳴らし、革製の後部座席にもたれかかり、認定された暴力の効果と無意味に削除されたどうでもいい障壁の差異を笑い飛ばそうとして結局のところ赤い色に意識が囚われて遅れをとったことを受け入れて逡巡する。

「まぁ、『不知火』が血を吸いたがっていた隙を突かれたのは事実です。認めましょうか、第三者として戦争を攪拌したい連中が増加している。零肆玖番はどうせ表には出て来やしないでしょうしね」

身体中が雨によって体温を奪われて死の匂いが近づいてくるのを感じ取りながら乗り込んだ警察車両が緩やかなスピードと共に走り始め、おそらく事後処理の為に八日間は続く拘留先へと迷わず向かうのだろうと『田辺茂一』が以前に伝えてきた『改造医療実験体』としての職務規定を反芻しながら渋谷の街の喧騒が離れていくのを耳元で感じ取る。

決してぼくらは覚悟もないただ見つめるだけのものを巻き込んではならない。

慌ただしくたち起こった出来事は簡単に忘れ去られて洗い流されてしまうと時計の針が進むたびに劣化していく記憶がアスファルトに雨と一緒に染み込ませて少しずつ街の形をいつの間にか歪めて薄めていく。

分かりやすく忘れないようにされた思い出だけが目に止まり耳に入り新しい形とすり替えられる。

たぶん、あの場所に残された人々は物語の中で起きた出来事と履き違えたままもうすでに次の形を求めてぼくの顔など忘れてしまっているのだろう。

ぽとりと落ちた頭部だけがしっかりとぼくを覚えたまま憎悪を剥き出しにしていつかどこかで関係性の違う宇宙で襲い掛かるのを待ち続けているのかもしれない。

憎しみは連鎖していずれぼくとの邂逅を待ち望んでいる。

『田辺茂一』がパトカーの助手席で窓を開けて赤いサイレンで照らされる雨の渋谷の街を煙草の煙を吐き出しながら眺めて作り替えられ置き換えられた代数に関して弁明をする。

「ふぅー。君のいう通り零肆玖番に関しては自由意志の範疇だ。管理しきれていないわけではないが、おそらくはあのままの形の方が好まれる。『作られた人」にとってはその方が好都合なのだろう。わかってくれ。これは全てエンターテイメントとして処理されるべき日常の外側なんだ」

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