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アイヌ文化:文字を持たなかったことで生まれた独特な表現とその不思議について

北海道に行く機会が、社会人になってから増えている。

もちろん仕事ではなく、旅行で。

春夏秋冬、いつでも楽しめるものが溢れている。

夏が涼しく過ごすことが出来、冬が最高級のパウダースノーを楽しめるというのは、とても素晴らしいこと。

そして鮭に昆布、じゃがいもにたまねぎ、ウニやホタテやいくらなど様々な幸に恵まれている。

この恵まれていて、とても厳しい環境に昔からずっと住んでいた、先住民としてのアイヌ民族。

学校の歴史では出てくる割合が少ないこと、どちらかというと蝦夷として本州側の和人と戦った時期もあったことから、アイヌ側の目線ではなくどちらかというと和人側の史観が当たり前の状態。

だからこそ、アイヌ側から描かれる歴史について旅行の際に北海道の歴史資料館をいくつか訪問して初めて分かることも沢山ある。

そして、九州や本州で起きたこととは全く別の世界の中であったことがよくわかる。

そして、言語についても今の日本語とは全く似ても似つかない言葉。

どのように似せても今の日本語とは別のもの。

カムイ・ウポポ・ワッカ・チセ・イランカラプテ・イヤイライケレ。

初めてこの言葉に触れたとしても、この言葉からいきなり概念を思いつくことはかなり難しい。

都市の名前でも、数多くのアイヌ語のゆかりがある。

知床に帯広、稚内に札幌、留萌に名寄。

アイヌ語の音をうまく漢字を当てはめた様々な場所。

同じ日本であるかもしれないが、全く別のバックグラウンドを持っているという事を強く感じる。

日本であっても、そこはいわゆる日本とは全く別の世界が広がっている。

北海道に繰り返し行けば行くほど、そのことをより強く感じてくるようになる。




アイヌ語については、元々文字を持っていない。

発せられる音に対して日本語のカタカナに合わせて、それを残して記録したのが初め。

なぜ持っていないのかということについて、色々なことが想像される。

そもそも文字として残す必要がなかったのか、それともあえて文字として残さないようにしたのか。

文字が存在していなくても、数多くのアイヌの神話があることから、伝承そのものはずっと続いているもの。

全てが口伝であり、音だけで表現されている。

そして自然に生きる動物や植物を観察して、その表現の真似をした踊り。

これら音や踊りを組み合わせて、様々なことを表現して未来を伝えていく。

そして目に見える形では残されないため、人そのものがいなくなった場合に何も残らない。

ある意味、秘密主義のようなものを感じされる。

文字という伝達手段を使用しないことによって生み出された、音と身体を使った表現による芸術。

時間芸術であるため、一回きりであることを強く感じさせる。

独特な表現が今でも残り続けている。




もし文字がなかったとするならば。

多くのことが別の形で使えられるに違いない。

そしてそれらはすべて一回きりで、繰り返されることがない。

その1回きりに対して、今この瞬間を強く感じる。

より丁寧に今を過ごすようになるかもしれない。

文字によって様々な蓄積があり、それによって人類の文明が発展した面が多くあるのも間違いない。

ただその一方で、文字がないことによってこそ磨かれる技術や表現があるのも確か。

あるものが制限されることで、別の何かが発展する。

当たり前にある文字というものがない世界。

それはそれで興味深い表現の世界が現れるということを強く感じさせられる。

アイヌという文字を持たなかった文化だからこそなせる、その神秘性。

もし彼らをより深く学ぶことが出来れば、もしかしたら現代を生きる人たちが越えられない何かをつかむきっかけになるのかもしれない。



ありがとうございました。

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