見出し画像

宗教を知る 未知に対する忌避感を超えていくこと

知らないことは怖いこと。

未知に対する恐怖はあちこちに溢れている。

お化け屋敷はどこからお化けが飛び出してくることが分からないから、怖さを感じる。

突然の出来事や想定外のことに対しては、恐怖が何割も増していく。

正体不明の何者かが近寄ってくることはとても恐ろしい。

だからこそ、出来るだけその未知を減らすために、色々な検討を行ったり対策をしたり、予想をしようとしたりする。

出来るだけ未知の対象に出会わないようにすること、それは恐怖を減らすという意味では効果的かもしれない。

相手という訳が分からない対象に近づけさせないように、相手を理解不能なものとして扱って出来るだけ避けようとする。

もしくは忌み嫌って、迫害の対象とする。

話すことをタブーとする事で、理解を進ませないようにする。

それが続いている限りは、真の意味で和を持って先に進むことは難しい。








未知を感じる対象として大きいもの。

日本人にとっては「宗教」がもしかしたら未知で忌避感があるモノの一つであるかもしれない。

テレビで見る情報を元に、既存の宗教に対しても多くの偏見が溢れている。

得体のしれない対象、急に勧誘をされたり、気が付いたら洗脳されたりしてしまうことを勝手に恐れてしまう。

布教活動とかで道に立っている人や、勧誘で家を訪問されることなどにも忌避感がある。

そして出来るだけ調べて対処しようとするも、ネットだけの情報では片手落ちで、自分自身が初めて感じた印象だけを元に様々なことを想像する。

イスラム教はテロを起こしたりする恐怖の集団。

原始宗教は謎。

創価学会は怖い。

幸福の科学は怪しい。

統一教会は危険。

エホバの証人とはおかしな人たち。

新興宗教全般がとても恐ろしいもの。

そして無宗教であることを良いと感じる人が多いのが、多くの日本人の通常状態。

神道や仏教、キリスト教について、生活の一部に溶け込んでいるモノについてはある程度理解があるかもしれないが、本当の意味で考えることは少ない。

その結果として、信仰する対象や信じるべきものが何もなくなって方針が立たなくなった結果が今の世の中の状態。

未知のものに対する忌避感を、どこまでも続けた結果としての世界が、現在目の前に現れているように感じる。










もちろん何を信じるのか信じないかは個人の自由であり、尊重されるべきもの。

偏見だけが先行して忌避感を持つのは、とても危ないこと。

今だからこそ、宗教の成り立ちや、何を主張しているのか、どのような思考になるのかという事、そのベースとなる情報を本当に理解する必要がある。

キリスト教・ユダヤ教の原点である聖書を読んだことがあるのか。

そして理解しようと努めたことはあるのか。

イスラム教の根幹をなすコーランを読んだことはあるのか。

そしてその思考背景を学ぼうとしたことはあるのか。

仏教における般若心経や法華経など、様々なお経の真の意味するところは何なのか。

そしてその世界を経験したことはあるのか。

池田大作の著作を読んだことはあるのか。

大川隆法の著作を読んだことはあるのか。

文鮮明の著作を読んだことはあるのか。

神道の本当に目指す所は何なのか。

その他多くの宗教が理想とする姿と、その始まりなど含めた背景は何なのか。

どのような歴史的な背景がその宗教の始まりと関係しているのか。

関係が近い宗教や遠い宗教など含めて、多くの成り立ちを認識できているか。

そして出来るだけ多くの理解を伴ったうえで触れているのか。

未知で分からないからと言って、拒絶していいものなのか。

触れる前から忌み嫌う行動、それは色々な意味で対立を生み出す構造になる。

その状態を脱して、次の状態に進んでいく必要がある時代。

だからこそ、今一度多くの人にとっての未知という対象、特に宗教という対象に対して偏見なく触れてみるのもいい機会かもしれない。

そこから見える世界や視座というもの、そこからでしか味わえない何かや発見があるかもしれないのだから。









ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?