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[短編小説]まねくねこまねかれざるねこわらうねこ

 夜勤明け、バタンキューで布団に入り、次に目を開けたら昼過ぎだった。
 俺はしばらくぼんやりと天井を見上げた。
 しんとして物音ひとつない。妙だな。
「おーい、ハルッペ、居るのかい?」
 女房に呼び掛けてみたが返事はない。
 あ、一応言っておくけど『ハルッペ』ったって別に外人とかではないんだぜ。本当は春恵ハルエと言うのだけど、昔からずーっと『ハルッペ』と呼んでいるからすっかり癖になってしまったという訳だ。しかし結婚したからには女房と言わせてもらうぞ、エヘン。
 話が逸れた。それで俺は布団から這い出して用足しに行ったんだ。
 が、行く途中でも最中でも、人の気配はやっぱり感じられない。猫の額ほどの狭い家だ、誰か居れば大体分かるんだから。
 でもそんなに深刻に考える事もないか?、単に買い物に出かけただけじゃないか? とも思う。
 とすればじきに帰ってくるだろう。そうなると、いつまでも寝てたら文句を言われるかも知れないな。もう一度布団に潜り込みたいが、ここはぐっとこらえよう。茶の間で新聞でも読みながら女房の帰りを待とうかな。
 ところがそこで更なる異常が発覚した。
 茶の間に一匹の見知らぬ猫が居たのだ。この家では特等席である縁側の掃き出し窓の日当たりの良い場所に腰を下ろし、しきりに左手で顔を擦っている。
 猫はいわゆるキジトラというやつで、胴も頭も丸々として実にふてぶてしい雰囲気を醸し出している。見たところ首輪などはしていないようだが有り余る肉と毛皮に埋もれているだけかも知れない。
 試しに座布団を手に取りバタバタ動かして追い立ててみたが、猫の奴、俺がどちらかというと乱暴できないタイプの人間だと見透かしているらしく、ちらりとこちらを一瞥したきりその場を動こうともしない。見るうちスルリと横になって香箱を組んでしまった。なんて奴だ。
 それにしてもいつから我が家に入り込んでいたのだろう。昨日までは居なかった筈だ。どこか壁に隙間でもあるのかしらん。何しろ古い上に安普請で家賃がべらぼうに安いのだけが取り得のボロ借家、どこに隙間があっても不思議は無い。ただ、一応新婚家庭であるから、例え猫でも邪魔者には入ってきて欲しくはないというのが正直なところだ。
 それにそもそも俺はそんなに猫が好きではないのである。
 小学生の頃、猫に酷い目に合わされたのだ。あれは学校からの帰りだったか、道端のごみ箱の蓋の上で日向ぼっこしていた大きな灰色の猫にちょっかいをかけたのが切っ掛けだった。
 奴は物凄い剣幕でフー!と声を上げ、一瞬で跳びかかってきた。あまりの勢いに尻もちを突いた俺を、噛むわ蹴るわ引っ掻くわ、執拗に攻め立てるのだ。
 そこへ救世主が現れ、俺は九死に一生を得た。俺の悲鳴と泣き声を聞きつけ、当時近所に住んでいた中学生の女の子が駆け付けて来て、暴れん坊のドラ猫を追い払ってくれたのだ。
「もう、ロンちゃんったら、男の癖に何よ」
 そう言って彼女はアハハと笑い、俺を立たせて優しく土埃つちぼこりを払ってくれた上に、ハンカチで涙を拭ってくれた。俺はそれ以降彼女に、すなわちハルッペに頭が上がらなくなってしまったのであった。
(ちなみにロンちゃんというのは俺の渾名あだなだ。女房含め俺は未だにそう呼ばれている)
 一方女房もまた特に猫好きという訳ではなく、気紛れに猫を拾ってくるなんて事は考えにくい。むしろ犬を飼いたいと言っているくらいだ。
 何しろ最近は物騒だからね。やれ殺人が起こっただの強盗に入られただの過激派が立て篭もっただの新聞もテレビもラジオも毎日かまびすしい。番犬が居れば少しは安心だろうという訳だ。しかし犬の世話をするというのも大変だ。必要な時にちょっと借りてくるなんて訳にもいかないしな。
 俺はそこではっと思い当たった。最近流行りのレンタル業というやつだ。そういえばこの前、何でもレンタルするという店が隣町で開業したというチラシが新聞に挟まっていたではないか。
 そうか、さてはこいつレンタルのペットだな。最近は訪問販売が流行ってるというし、きっとセールスが回ってきて押し付けられたに違いない。ゴム紐だの百科事典だのはよく聞くが、猫とは斬新だ。女房も大概情に厚い女だからね、きっと猫のこびほだされたんだろう。となれば返しに行かねばなるまい。猫を飼う気なんかこれっぱかしもないんだから。
 レンタル屋のある隣町まではそれなりに距離があるから自転車だな。心配なのは、猫の奴が大人しくカゴに入っていてくれるだろうかって事だが、考えていても始まらない、駄目で元々、とりあえずやってみようじゃないか。
 まずは抱き上げるため腹の下に手を差し入れた。腹の毛は何とも言えない柔らかな感触で、背中の毛とは違ってふわふわとしている。この感触は小学校の前で行商のオッサンが売りに来てたヒヨコの感触を思い出させた。
 いろんな色のヒヨコがいるもんだなと思ってたら、あのオッサンがスプレーで色を着けてるんだと兄貴にバカにされたんだっけ。余計な事まで思い出してしまったな。
 気を取り直し、腹の下に差し込んだ手を持ち上げてみると、何だかきたてのモチみたいにふにゃりとする。そういえば雑誌か何かで『猫は液体である』なんていう言説を見た事があるな。その時はバカだなと思ったけど、なるほどこれは言い得て妙だわい。
 そのまま抱え上げると、キジトラの奴、腕の中にすっぽりと納まった。まるで赤ん坊を抱いているような恰好だ。まだ女房との間に子供はないが、赤ん坊が生まれたらこんな感じで抱っこする事になるのだろうか。猫撫ねこなで声で猫かわいがりする自分の姿が目に浮かぶ。しかしそんな事でいいのか? 多少なりとも父親の威厳を保たねばならんのではないか? ……でもきっとそうはいかないんだろうなあ。デレデレになりそうだなあ。ま、女房は俺のそんなところが好きだと言って結婚を承諾してくれたのだから良いんだけどね、えへへ。
 それにしても、このキジトラときたらまるで暴れる素振りもなく大人しいな。子供の頃に遭遇した灰色の猫はあんなに凶暴だったのに。レンタルだけに借りてきた猫ってか。暴れるどころかゴロゴロ咽喉のどを鳴らして、全くリラックスした様子だ。人間をかごとでも思っているのだろうか。実にふてぶてしい。あ、そういえばアヤトリの事を英語で『猫のゆりかご』と言うんだっけか。つまり俺はヒモって訳だ。ちゃんと働いてるのにヒモとはこれ如何いかに。
 俺はそんなバカな事を考えながらキジトラの奴を抱きかかえて玄関まで行き、サンダルをつっかけるとそのまま右足のつま先で戸を引いて、左足のかかとで閉めた。お行儀が悪いが両手が塞がってるのだ、許してほしい。
 そうして玄関脇の垣根の裏に停めてある自転車のカゴに猫を入れてようやく一息だ。
 タバコを吸いたくなったが、茶の間に忘れてきてしまった。でもこのまま茶の間に戻ったとして、万一その間にキジトラの奴が逃げ出してしまったら、レンタル屋に損害賠償を請求されるかもしれない。
 涙を飲んでタバコは諦め、自転車にまたがった。

*  *  *

 自転車は便利だが、坂道は辛い。
 唐突に何を言い出すんだ?と思ったかもしれないが、隣町に行くためには丘を一つ越えねばならず、これが中々の坂道なのだ。分かってくれるかい?
 迂回する道もあるけど、ひどく遠回りだ。いつもそう考えて丘を一直線に登って下りるこの道を行くのだけれども、思った以上にきつくて必ず後悔する。
 そして、上り坂で減速するのなら迂回しても大して時間は変わらないのではないだろうか……と、重力にあらがってペダルを踏み込みながらいつもそう思うのだ。
 しかし丘のてっぺんまで来ると、風は爽やかだし街並も一望できるしで、それまでの辛い記憶は全て吹き飛んでしまう。こんなんだからいつも同じ失敗を繰り返してしまうのかもしれない。
 短い平場を過ぎればもう下り坂だ。一度ひとたび下れば加速を重ね、満ちる空気を一刀両断、家々たちまち流れ去る。
 はっはっはっはっ!
 何だか楽しくなってきた。スピードとスリル。まるでジェットコースターに乗ってるみたいじゃないか。風が顔に当たって少しばかり息苦しく、目を開けるのもまた苦しい。もちろん本当に目を瞑ったら大事故だ。必死に薄目で耐えるのだ。やがて火を吹くタイヤとホイール。星を降らせるチェーンとギア。さあ走れ、我が自転車よ。駿馬しゅんめの如く駆けよ。間もなくくだんのレンタル屋だぞ。さあ今だ、ブレーキレバーをむんずと掴め! 即座に応じよブレーキシュー!

 ぎぎぎぎぎぎぎぎいいいいいいいいいいっ!

 まるで世界の終わりのような音を立て、自転車はレンタル屋のショーウィンドーの五十センチ手前でぴたりと停車した。
 どうだいキジトラ、なかなか見事なもんだろう? そう言いながらカゴを覗くと、キジトラはまるで関心が無い顔付きで欠伸あくびをひとつするきりだった。悔しいっ!
 こういう場合、映画に出てくる女だったらハンカチを咬むところだが生憎俺は男だ、そんなみっともない真似はしないんだぜ。それに人間相手ならともかく相手は猫だ。平然として見せなきゃ万物の霊長の沽券こけんに関わるってもんさ。
 俺は極力平静を装いながら自転車を降り、カゴからキジトラ柄の塊をでろりと持ち上げて店に入った。
「いらっしゃいませェ」
 奥のカウンターから店員が愛想の枯れかけた声を出した。開業して間もない筈なのにどうしてこんなにやる気がないんだ、この店は。余計なお世話だが行く末が心配になるよ。
 まあどうせ押し付けられた猫をつっ返してやればそれで縁切りだからいいんだけどね。二度と来る事もあるまい。さっさと済ませてパチンコでもしに行こうや。
「え? 返却? 猫を? え??」
 店員の奴、まるで要領を得ない。
「少々お待ちください」
 店員はのそのそ店の奥に引っ込み、じきに戻って来てこう言い放った。
「その猫はウチがレンタルしたものではありませんねェ。ていうかそもそも猫はレンタルしてません」何だと!?
 もしかしたらウチじゃなくて他の系列店かもしれませんねェ……と、店員は半笑いでぺらり一枚チラシを差し出す。見れば行った事のない街だ。
 道が分からないからそのチラシをくれと言ったら、どういう訳か駄目だと言う。何でだよ。ならコピーを取ってくれないかと言ったら一枚につき五十円請求された。高過ぎるだろ、ふざけるな。
 その後数分間の押し問答の末、最終的に俺は頭に来て店を出た。もちろんキジトラを抱えたままだ。
 ところで、俺がキジトラと一緒に分厚い紙の束まで抱えているのには気付いたかい?
 よく分からない話の流れで店員にチラシを押し付けられたのだ。しかもこれ、この店だけのチラシではないか。遠くの系列店の場所なんかどこにも書いてない。つまりていよくあしらわれ、けむに巻かれて店を追い出されたという事だ。やられたな、あの店員とんだ猫被りだ。これだからインテリってやつは信用できないんだ。
 でも良い事を考えた。この紙束を丘の上からいっぺんにばら撒いてやったらどうだろう。さぞや見物みものだろうな。宣伝に手を貸す義理は更々無いが、風に乗って誰かの元に届いたらと思うと少しばかり可笑おかしいじゃないか。ははっ。
 思い立ったが吉日、キジトラと紙束を一緒にカゴへ押し込んだ。キジトラの奴、紙束の分だけスペースが狭くなったろうに、それでもピタリと収まってしまった。流石は液体である。
 そうしてまたえっちらおっちら自転車をいで元来た道を引き返し、さっき猛スピードで下った坂を今度は登っていった。坂の傾斜に負けてしまい、途中で降りて押さざるを得なかったため幾分時間はかかったが、どうにか登りきった。
 丘の上には広場があって、その真ん中に一本の大きな木が青々とした葉を繁らせている。俺はその下に自転車を停めた。この木に登って高所から盛大に撒き散らしてやろうって寸法さ。きっと壮観だぜ。
 自転車を降りてシャツとズボンの間に紙束を挟んだ。木に登るのは子供の時以来だが、そこは昔取った杵柄、俺は颯爽さっそうと木の幹に取り付いた――が、その五秒後、俺は地面に大の字になっていた。木から落ちたからだ。
 すっかり木登りが下手くそになっていた事実は少なからず俺にショックを与えた。もうあの頃の俺とは違うのだ……。
 次の瞬間、何の前触れも無く突風が吹き、ズボンに挟んでいた紙束が強風に煽られて一斉に踊り上がった。一瞬の出来事に、俺はひっくり返ったままその様子をただ眺めるばかりだった。
 チラシどもはまるで鳥の大群のように風に乗って渦を巻くように宙を舞い、西日を受けながらどこかに飛んでいってしまった。
 思ったような形ではなかったが、ひとまずこれでチラシをばら撒くという当初の目的は一応果たせた事にはなる。釈然としないが一枚残らずあの忌々しいチラシを処分できたから良しという事にしよう。
 腰をさすりながら身体を起こした。おや、カゴにキジトラの奴が居ない。
 チラシにじゃれついて迷子にでもなってしまったのかもしれない。そこらに居ないか広場を探してみる事にした。
 そこから少し行った所が砂地になっているのだが、その真ん中に男が一人うずくまっていた。行き倒れだったら放っては置けない。そばまで行ったら突然大声を上げたのでびっくりしてしまった。
「やった! 捕まえた!」
 男は虫取り網から何かを取り出し、自らの眼前に持っていった。手にあるのは小さな虫だ。流れるようにルーペを取り出すと、顔と虫でルーペを挟むようにして観察を始めた。
 俺はしばし茫然とその場に立ち尽くし、その様子に見入ってしまった。すると男はそんな俺に気付いたらしく、いぶかしげにこちらを向いた。
「そ、その虫……そんなに珍しいものなんですか?」恐る恐る男に聞いてみた。面と向かうと男は額と鼻の頭がひどく日焼けしていた。
「これは班猫ハンミョウという虫の一種なんですよ。もしかしたら新種じゃないかと思ったんですが、どうも違うみたいです。残念だなあ……」
 そう言うとどこかから取り出したガラス瓶に虫を放り込んでフタを閉め、斜め掛けにしている水筒を取って一口飲むと、傍らに置いてあった木箱にガラス瓶を納めた。木箱の中には他にも瓶のような物が幾つも入っているようだった。
 よくよく見ると男の服装はまるで登山にでも出掛けそうな恰好だ。こんな丘には大げさ過ぎやしないだろうか。
 すると男は怪しまれたとでも思ったのか、名刺を取り出した。それによると彼は隣県の学校に勤める教員なのだった。昆虫採集、ことに斑猫の採集を趣味としており、今日はその為にわざわざ遠征してきたのだという。
「八月の夏休みには更に遠出する予定なんですよ」楽しみにしている事がありありと顔に出ている。
 なんでもSという、聞いた事のない土地の大砂丘帯に班猫を探しに行くのだという。話振りからするとかなり遠方らしい。マニアのバイタリティはすごいな。
 話し終えると彼はまた砂地に取り付くようにして班猫を探し始めたので、俺はそっとその場を後にして自転車のところまで戻った。すると突然――「しししししっ」
 頭の上から笑い声のような音が聞こえ、思わず顔を上げるとキジトラの奴、木の上から俺を見下ろしていた。
「しししししっ」
 この笑い声は間違いなくキジトラが発した声だ。猫というものはああいう風に笑えるものなのか。初めて知った。
 それはいいにしても(よくないけど)木の上から見下ろして笑うなんて、まるで『不思議の国のアリス』に出て来るチェシャ猫じゃないか。そう思うと顔付きも憎たらしくニヤついてるように見えてきた。生意気な奴だ。
「おい、そんな風に笑うなよ。こっちだってお前を楽しませるために何かしてる訳じゃないんだぞ」
 俺がそう言うと、キジトラの奴、また「しししししっ」と笑いやがる。するうち色味が薄くなってきた。最初は目の錯覚か何かかと思ったが、明らかに透明度を増していき、しまいには完全に透き通って目と口だけしか見えなくなってしまった。ますますもってチェシャ猫だよ。一体全体どうなってんだ。
 薄気味悪くなってきたのでもう放っておこうかとも思ったのだが、この時変な責任感みたいなものが芽生えていた俺は、どうにか下りてこさせようと手を換え品を換え頑張った。しかし所詮は畜生、こちらの言う事なぞ何処どこ吹く風だ。
 カッとなった俺は自転車に跨り「もう俺は帰るぞ! 置いてくからな!」とキジトラの奴に向かって叫んだ。……いや、正確には叫ぶつもりだったのだが、キジトラの奴がさっきまで居た木の上から忽然こつぜんと姿を消しているので叫びそこねた。完全に透明になってしまったのだろうか。
「しししししっ」
 ややや、すぐ近くで声が?と思って向き直るとキジトラの奴いつの間にやらカゴに戻ってやがる。姿も元通りだ。全く馬鹿にしてるよ。
 俺は何だか疲れてしまい、キジトラと共に家路についた。

*  *  *

 帰り道にある、安くて美味い馴染みの定食屋の前を通ると、ぷうんと煮込みの匂いが漂ってきた。人を空腹にする魔力に満ちたその匂いに俺は我慢ができず、そこで自転車を停めてしまった。幸いポケットに入れた小銭入れの中身は充分だ。ならいつもの日替わり定食でも食ってくか。
「ちわーっす」ガラリと店の戸を開けた。
「らっしゃい……って、ちょっとちょっと、猫と一緒は困るよ!」
 大将が慌てて俺を制止した。
 キジトラはカゴに置いてきたつもりだったのに、いつの間にやら俺の肩の上に乗っかっているではないか。いい加減にしろ。
「何言ってんだよ、ほらその棚の上にだって猫が居るだろ」俺が減らず口を叩き指差したその先の棚には左手を上げた招き猫。
「あれは『人』を呼んでんの、『猫』じゃなく。とにかくメシ屋じゃ動物はご法度だよ。ペットは家に置いてきてよ」
 大将は全く譲らない。何て石頭だ。でも俺だってトラブルを起こしたい訳じゃない。この定食屋は大のお気に入りだ。ここは今後の事も考えて一旦引こう。
「悪かったね、じゃあまた来るわ」そう言ってキジトラを肩に乗せたまま俺は外に出た。
 再び自転車に跨るとキジトラの奴、肩からピョンとカゴに飛び移り、またもすっぽりとカゴに納った。どんだけカゴが気に入ってんだよ。
 それより目下の問題はきっ腹だ。折角昼メシにありつけると思ったのにお預けを喰らった為か、何だか余計に腹が減ってしまった気がして、踏み込むペダルも重苦しい。
 まるで百キロのおもりを背負わされたような苦行に耐え抜き、俺はどうにか家まで辿り着いた。
 女房はまだ戻っていないようだな。どこをほっつき歩いてるんだろう。俺も人の事は言えないが。
 台所に行ってみると、おひつメシが、鍋に味噌汁がそれぞれ残っていたので猫まんまにしてかき込んだ。飯も味噌汁もすっかり冷たくなっていたが、猫舌の俺には丁度良い。ようやく人心地が付いたわい。
 するとキジトラが「にゃー」と言って擦り寄ってくるではないか。お前も腹が減ってんのか。しょうがねえなあ。
 戸棚を漁ると煮干が出て来た。二つ三つ取り出してキジトラの奴に放り投げてやったらむしゃむしゃと実に美味そうに食べるのだ。あっという間にペロリと平らげ、また「にゃー」と鳴く。しょうがねえなとまた二つ三つ投げてやる。
 そうして腹を満たし、人心地ならぬ猫心地が付いたらしいキジトラの様子を見ると何だか少し可愛げがあるように思えてきた。
 そんな折、カラカラと玄関の戸を引く音が聞こえた。女房が帰ってきたようだ。
 俺は咄嗟とっさに、茶の間の隅に置きっ放しになっていた空のミカン箱を持ってきて、キジトラを中に入れ、フタをした。
 結婚祝いと称して友人がミカンを一箱くれたのだ。中々美味しいミカンで、すっかり平らげてしまい箱だけが残されていたという訳さ。……いや、そんな事よりどうしてそんな真似をしたのか、だって?
 いやね、猫に煮干をやってる所なんかをハルッペに見られたら、小学生の時の灰色猫の事件を穿ほじくり返されるだろ? それでは亭主の面目が立たぬではないか! と思ったからなのだ。まあ男の見栄ってやつだね。
 しかし隠したからと言ってその後どうするか、そんな先の事はまるで考えてなかったりする。上手い事誤魔化せたら女房の目を盗んで外に出してやろうって程度だ。我ながら抜けてるねえ。しかしもう遅い。
「ただいまー」女房が玄関からこっちに来る。
「ねえ、うちの前に自転車置きっ放しになってたけど、ロンちゃん、どっか行ってた……?」
 玉暖簾たまのれんをくぐって茶の間に入ってきた女房はそこで止まってしまった。何しろ茶の間のど真ん中にミカン箱が鎮座ましましているのだ、不自然な事この上ない。
「何でこんな所にミカン箱が置いてあるの?」
 そう言いながら女房は箱に近付き、フタに手をかける。一方の俺はひどく後悔していた。別に隠す必要は無かったんじゃないか? つまらぬ見栄を張ってどうするんだ? 自分でも自分の事がよく分からなくなる。同時に俺の心臓は生涯一二を争う勢いで早鐘を打っている。
 が、女房の反応は意外なものだった。フタを持ち上げて覗きこんだ瞬間、何故か「キャー!」と金切り声を上げてフタから手を離してしまったのだ。見れば半ベソだ。
「ね、ねね猫の死骸? 何で? 何かの嫌がらせ?」
 いや、死骸ってなんだよ、そんな簡単に死んでたまるか。さっきまで美味そうに煮干を食ってたんだぞ。
 俺がフタを持ち上げて中を見てみると、猫はこちらを向いて「しししししっ」と笑いやがったので思わずフタを取り落とした。フタはまた元通りだ。
 すると女房がまた反対の端を持ち上げ、その途端にまた「キャー!」と言って手を離した。
「やっぱり死んでるじゃない!」いや、そんな馬鹿な。
 思い切ってフタを一気に全て開いてやった。するととどうだ、猫の姿が二重になって見えるではないか。生きている猫と死んでいる猫が、重なっているように見える。これは只事ただごとではない。
 二人で顔を見合わせ、揃って目を擦り、もう一度見てみると、生死重ね合わせの状態だった猫は、生きている方がはっきりとしてきて死んだ方は次第に消えていった。同時に、二重になっていた時にはボンヤリとしていたキジトラ模様も顔の造作もはっきりしてきた。しきりにまぶたをしばたたかせている。何かが目にみるらしい。
「ミカン箱だから目に沁みるんじゃないの? 出してあげないとかわいそうよ」女房はそう言ってキジトラを抱き上げた。
 そうか、そういや猫はミカンが苦手だったっけ。ミカンの皮から何か出ていてそれが目に沁みるんだとか聞いた気がする。箱にミカンエキスが滲みこんでいたのだろう。悪いことをした。
 ところがキジトラの奴この機に乗じて女房の膝に上がりこみ、ゴロゴロ言ってそこを満喫しだしたではないか。おい、ハルッペの膝枕は俺だけのものだぞ。何て奴だ。
 そんな俺の嫉妬心も知らず、女房は猫の首や背中を撫でたり揉んだりする。まったく猫のクセに何だ! けしからん! うらやましい! 同情して損した!
 内心憤慨する俺に対して女房は至って冷静だ。
「この猫は何? どうしたの?」そう問いかけてくるからには女房も心当たりが無いらしいな。
「うん、さっき起きたら茶の間に居たんだよ。でさ、ほらこの間開業したっていうレンタル屋からででもハルッペが借りたのかと思ってね。返しに行ったらウチじゃないって追い出されちゃった」
 俺の返答に女房はアハハと笑った。
「猫をレンタルする店なんてないわよ。バカね」
 すると猫はその笑い声と震動に驚いたのか、女房の膝の上からスルリと畳に下りて、のそのそと掃き出し窓の前で横になると、仰向けになって万歳をするような格好で伸びをした。胴が太いのでまるで丸太に手足が生えてるみたいだった。
「まあ、いいんじゃない? 迷い込んできたのも何かの縁よ。猫一匹くらい世話できるわよ」
 女房は俺がキジトラの奴を気に入って、飼いたいと熱望してるのだと思ったのだろうか。だとすればそれは誤解である。とは言いつつも隣町まで行って帰ってくる間に、少しばかり奴への愛着が湧いてきたのも確かなのだ。憎たらしいし何ともおかしな普通じゃない猫ではあるが、その反面可愛げも(多少は)あるし、何だか面白い奴じゃないか……そんな気持ちになっていた。
 それはそうと、女房は今しがたまで何をしていたんだろう。猫問題が一段落したので尋ねてみた。ところが女房の返答は少なからず俺を狼狽うろたえさせるものだった。
「うん……実はね、ここしばらくちょっと気持ちが悪くなる事が多くてね。お隣の奥さんに相談したら、病院に行くよう勧められて……検査、してきたんだ……」
 ええ? ちょ、おい、まさか、不治の病に侵されてたなんて悲しい話はやめてくれよ。昼間にやってるお涙頂戴のメロドラマじゃないんだから。
「何考えてるのよ、もう!」
 女房はまたアハハと笑った。
「行ったのは産婦人科よ!」
 その言葉に俺の膝は小刻みに震え出し、やがて震えは全身に伝わった。
 そ、それじゃあ、もしや、遂に?
「そうよ、もうすぐ三ヶ月だって! 安静にしなくちゃね。だから家事、もっと手伝ってヨ!」女房は目を潤ませて俺に抱き付いてきた。
 俺が? 俺が父親に? 俺とハルッペの赤ん坊が生まれる? 俺は嬉しさのあまりその場でわあわあ泣いてしまった。
「ちょっともう、やめてよぉ」そう言うそっちも涙声じゃないか。
 すると女房はハンカチを取り出し、俺の涙を拭ってくれた――まるで灰色猫から助けてくれたあの時のように。
 その途端、「しししししっ」キジトラの奴、笑いやがった。でも、何だか笑い声が優しい気がする。猫のくせに少しは人の情ってものが分かるのか。
「何だかさ、このキジトラちゃんが福を、赤ちゃんを招いてくれたんじゃないかって、そんな気がするな」
 女房がキジトラの方を向いてそう言った。そりゃまたどうして?
「だってキジトラちゃん、左手を上げてるもの」
 そう言われて見ればなるほど、キジトラの奴いつの間にか座り直して左手で顔を洗ってるじゃないか。まさに招き猫だ、こいつは一本取られたね。
 するとキジトラの奴、また「しししししっ」ときたので、俺はすかさず真似して「しししししっ!」と笑い返してやった。キジトラの奴びっくりして目を白黒させてら。どうだ、恐れ入ったか。
 女房がアハハと笑った。
 俺もアハハと笑った。

<了>

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