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夢がないアメリカで格闘技をしていきたい話

日本はゴールデンウィーク明けといったところでしょうか。自分の周りのほとんどは新卒1年目か2年目なので、「明日から仕事や〜」みたいなのをSNSで拝見しました。ゴールデーンウィーク中の過ごし方をインスタ越しに、良い意味か悪い意味かは自分でも分からないけど、自分とは距離感のある世界観なことだけは再認識しました。なんか、日本の人たちが心理的にも別世界の人に見えてしまって、最近は孤独感が凄いです。あの日本のみんなでよーいドン的な生き方には悪い点もあれば、良い点もあるのだと感じています。

試合=試し合い=自分を知れる場がある事への有り難さ


本当は5月末にアメリカで初めてのプロルール試合をするはずでした。候補に上がってた対戦相手は「Not Ready」とかなんやで、マッチメイクができずに、次回の7月大会へと期を待つこととなりました。こんなにも試合がしたい、試合ができないことへの焦りや苛立ちを感じたことや、そして試合が普通にできる環境にこれほど感謝したことはないです。関わってくださっている皆様、本当にありがとうございました。

日本にいたときは所属ジムから大ベテランから若手まで選手がKROSSOVERに定期参戦していてチケットもちゃんと売っていたはずだし、「月曜から夜ふかし」のフェフ姉さんプロキックボクサーへの挑戦企画の主戦場として団体も大晦日で試合が放送されたりと、プロモーションにかなりの影響度があったと思います。そんなこともあってか、「試合がしたいです!」と言ったら二つ返事で対戦相手を見つけて頂いて、とても良くして頂いていたのだと本当に思います。

K-1やRISEといったキックボクシングのトップ2団体へのステップアップとして、ここで経験を積んでからより上を目指そうと多くのファイターが図って参戦していると思うし、契約の縛りもなくベルトを獲ったファイターをより大きな団体へ実際に送り出しているので、そうした入口の場として機能していて有意義だと思います。報酬が発生しないアマチュアの試合を増やした方がファイトマネーやチケットバックの支払いが不要なので、大会としては儲かると思います。それでも、プロの試合を増やそうとしているプロモーターサイドの選手や育ててエコシステムを作ろうとする信念や姿勢は、物凄く有難いものだと恩を感じています。

日本でもアメリカでもプロとほぼ変わらない条件・ルールで試合をする、プロに見せかけたアマチュア大会がめちゃくちゃ増えています。煽りVがあったり選手入場があったりPPV(ペイ・パー・ビュー)で、競技をやってない人からしたらそれはプロの格闘技と違いはほぼ分からないレベルになってきています。さっきもいったように、そっちの方が単体で見た時にはビジネスとしては利益が出やすいのだろうけど、プロとアマチュアの境界線が混迷していってエコシステムが無茶苦茶になり業界全体としては弊害が大きいような気がしています。

「プロ」の呪縛とか葛藤とか、どうでも良いはずだ

やはり、プロがあってのアマチュアだし、アマチュアがあってのプロなんだと思います。そして、プロルールで戦っている「プロ」といっても、生計を立てられない人(自分)をプロとして定義して良いのかという問題もあります。実際は本当に超メジャー団体の一部のプロ以外はファイターとして生計が成り立っていないので、「プロファイター」というのは本当に「プロルールで戦っているファイターのごくごく一部」だと思います。そういった意味で、ライセンスがない今のキック/総合格闘技(MMA)のプロ・アマのファジーさはプロの品格を下げて、外への見え方を悪くしている気がするばかりです。

だから、「プロ」と他称されてしまう度に、自分からは「すみません」しか在りません。とは分かっていても、そんなことは自分がどうにかすべき問題ではないので、日々を懸命に生き、試合でそれを表現できるようにするだけです。金銭とか生計とか難しいことは抜きに、まずは来てもらったお客さんの心に爪痕を残すこと、そしてその人たちの背中を少しでも押すような試合をするだけです。音楽も格闘技もアートも無くても生きていけるものだけど、前を向けたり何かを頑張れたりする活力みたいなものを残すことが、目の前の仕事として自分が目指す最低限です。それ以上のことを考えても仕方ないというか、そんなことを考えている暇があるなら今の僕は、とにかく目の前のことにもっと一生懸命になるべきだと言い聞かせています。


そんなことを、アメリカに来てから再認識しました。そうした誰かに活力を与えられる何かを残すには自分が最も活力を持って生きていないといけないし、リングの上では普通の人ができないことを見せないといけません。骨が折れても、息ができないほど苦しくても、意識がとんでも、どんなに怖くても、なんとか踏ん張って、立ち上がって、勝ちを掴みにいく。そういう「勝ちへの執念」こそは、日々の取り組みを真剣にやればやるほど大きくなるものだと思います。だからこそ、終わりのない「日々を懸命に生きる」という日々の闘いを極めていきたいと思います、

「音楽で有名になりたいって、どっちかひとつにしとけよ」


自分の試合の話を戻すと、自分の階級(54~56kg)はアメリカで言うとヒスパニックかアジア人がほとんどで、メインストリームになることもなく、人口も圧倒的に少ないのでマッチメイクも困難なことは百も承知です。そして、キックボクシングの存在感だけで言えば、那須川天心vs武尊のような試合からもわかるように日本の方が圧倒的に現状としては存在感も大きく業界としても潤うっていると思います。アメリカの方が競技人口は日本よりも多い点は今後のポテンシャルとして捉えられるけれども、文化や歴史は浅く業界の土壌がないので、日本ほどの大きい団体は現状ありません。だから、僕の考える「プロ」として戦っていきたい、大きなことを成したいのならば、きっと日本の方が適した場所なのでしょう。

それでも、自分はそんなに格闘技を通してアチーブメントをそこまで求めていない気がします、もちろん0ではないですが。それよりも格闘技のある日々が必要、格闘技をもっと満足いくまでやっていたい、格闘技を通じて少しだけ自分に自信が持てたり自分のことを愛せたりできる、そういう理由の方が圧倒的に大きいです。正直に「〜のチャンピオンになりたい」とかにほとんど惹かれないし、そのために頑張れないのが嘘偽りない本音です。

それよりも、ちょっと強くなったと思えた瞬間、自分が自分を超える瞬間を求めて、その瞬間を味わうために頑張ろうと思えるのです。もちろん、そうした過程の中で、大きい舞台で戦ったり、ベルトが存在したりすることはもちろんあると思います。甲本ヒロトの「音楽で有名になりたいって、どっちかひとつにしとけよ」です。

僕はメダルよりも生き方が欲しいです。

上を目指すのは当然です。でも、その上がなんなのかは人それぞれあって良いのではないでしょうか。僕はオリンピックを見てると気分が悪くなります。「日本にメダルを持ち帰る」とか「金メダルじゃなくて日本国民に申し訳ない」とか、なんだかとてもアスリートが得体の知れない民衆の期待を勝手に負わされて、「やらされてる(背負わされている)感」が強くて、とても窮屈そうで個人的な感情が消えているように見えるからです。

そういう「メダルの呪縛」や「他人本意のゴール」に対して違和感を感じるし、自分自身に当てはめて考えたときにも腑に落ちません。やはり、自分の中で格闘技をやっている意味は、そういう意味での「上」を目指すのではないのでしょう。それよりも、簡単そうでとてつもなく難しい「一瞬を懸命に、毎日を生きる」ことを格闘技を通じて極めていきたいのだと思います。何をするか、何を成し遂げるかよりも、どう在りたいか、どう生きたいかなのだと思います。本来であれば人3倍弱い自分が嫌いで嫌いでしょうがないのですが、そうした自分を少しでも肯定できたり好きになれるのは、何か有形物ではなく、目に見えない日々の賜物だと振り返って感じます


だからこそ、30歳で格闘技を辞めたとしても、「どう生きるか(プロセス)」の部分は変わらないので、何か別の物に対して同じような生き方を見出すのかも知れません。人は一人前になるのに1万時間必要と言われてますが、それを30までに達成するとしても、6年間毎日3.5時間以上が必要になります。そうした意味で、格闘技にもっと時間とエネルギーを費やせるアメリカに僕は残りたいと考えています。やるべきことが少ない・やりたいことが少なくて、生計を立てられる道が多いアメリカの方が、自分がやりたい生き方をできる環境だ。今は、そう本気で思っています。だから、孤独でも不便でも、こっちで格闘技をやろうと思います。「夢は始めたときに叶っている」です。

「一生懸命」なんてまだまだだから、それで充分。

コスパが良い生き方だとは思わないです。親からも全く喜ばれない生き方だと思います。でも、日本に帰ったときの人生がなんとなく見えてしまっていて、この先行きが見えない人生よりもワクワクしません。若気の至りなのかも知れません、どうしたら、20年後、30年後の人生プランが描けるのでしょうか、僕は大学1年生の時に今の自分を想像していなかったし、5年先の自分も全くわかりません。いくら他人に迷惑をかけたとしても究極的に自分の人生は自分でしか責任を取れないし、自分の人生は「まずは」自分のために生きる。あと10年自分のために生きたとしても、残りの人生の大半を家族とかコミュニティとか他人のために生きることができます。

これが音楽とか歳を取ってからでもできることだったら、別の考え方ができるのかも知れません。ただ、歌唄いのように50代でも輝けるようなものではないです。だからこその刹那的な美しさも格闘技は持っていると思います。格闘技は今の自分でしかできない、だから、今できること最大限やる。

一年半ぶりのはずだった試合が流れた時は、感情的になって初めてジムから飛び出てしまいました。自分でもビックリしたけれど、逆にそれだけ本気で悔しくなれている自分がいることに、少し安心しました。試合は流れてしまったけれども、ジムでの練習はもちろん、遠い異国の地でまずは7月に試合をしっかりと組んでもらえるように、練習以外の全局面でもっともっとやっていこうと思います。

一生懸命って字を読んでのごとく、軽々しくべき使う言葉ではないですが、一生懸命になれるよう頑張ります。





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