日本伝統音楽研究日記20230102

先に記しておくが、この日記は誰かに読んでもらおうなんて考えてない、殴り書きになると思うし、支離滅裂な部分や同じ事を繰り返し書くような内容になると思う。そしてなによりも、毎日書くかはわからない。


研究を始めて1年と数ヶ月。停滞している気もするが、それはおそらく自分がどこから始まって、どこにいるかわからないからだと思う。
だから時々こうやって、いつでも参照できる文章を書いておく必要を感じる。

現在の専攻は長唄という事になっている。歌舞伎の伴奏で、三味線と唄がメインで、囃子がある。
江戸時代から著しく発展し、数百曲あまりが作曲され、三味線の楽器構造をおそらくもっともフル活用した、当時のかっこいい音楽。
さらに言えば、長唄を聴いている限りでは定型フレーズやフレーズの変形が多用されていて、かなりシステマティックに出来上がっている。なによりも目まぐるしいほどに転調が起こるが、その流れがあまりにも自然な時もあれば、不安になるくらい半音階が多用され、突然落ち着くなどといった要素が散見される。

こんなに進化した音楽を日本人は自らの手で作り上げていたわけで、なぜそこに入ってきた「西洋の音楽」と分別を付けつつ発展する事がなかったんだろうか、と思ってしまう程の音楽だ。


私が「西洋の音楽」と呼んでいるものを現在の知識で言葉にするならば、「和声をベースに考えられて発展した音楽全て」だ。

厳密に考えれば、私の研究も「西洋の音楽」の研究で、それは「平均律」が関係している。

おそらく日本で初めての日本の音楽に関する論文である俗楽旋律考を書いた上原六四郎は想像していなかっただろうが、五線譜に書かれた音程情報は、何も考えずに読めば平均律に収束してしまうし、現在、日本の「音律自体」の研究はおそらく盛んではないと考えられる。それほどたくさんの論文を私はみた事がないだけかもしれないが。
現在発展している研究は音階論として括れると思うが、その音階論は平均律で読み取ることしか出来ないし、論文の音符に臨時で↑↓のような矢印が書いてあって、それはなにか音律と関係しているとは考えられないわけではないが、具体的に音律に関して考えられる程の材料だとは、今は思えない。

そもそも音律というのが日本の音楽には重要なのだろうか。
日本の楽器を少し考えれば、固定ピッチの楽器は非常に少ないし(これは私の認識では笙にあたるが、笙も実際にはどうなのかわからない)、三味線の解放弦のチューニングをよくよく聞くと純正律に当たるかはわからないが、なんかしら4.5度の響きが心地よい部分にあたる為の音律がある気がするくらいで、楽器の構造的にはピッチは自由に動いてしまう。
それでも合奏が起こるので、ある程度ピッチを合わせるという現象が起こるから、なにかしら音律がないとそもそも音階も勘所もないといえばその通りだとは思うが、、、

とにかく平均律という考え方が、西洋の和声の進化によって生まれたピッチへの考え方だとすれば、私が知る限りの現在の日本伝統音楽研究は西洋の音楽の基本的なルールを援用しつつ研究されている。
これは紛れもない事実だし、音律の研究は重要かもしれないが私の仕事ではない。平均律でもわかる部分はたくさんあると考えられるし、大切なのはあくまでも200年前まであったの音楽の価値観の大局を今に合わせるにはどうしたらいいかであって、全てそのままにしておくのは単に伝統を発展させる部分とは相反する事だ。簡単に言えば平均律であっても日本の音楽として感じる事ができればいいのだと考えている。


ところで、1990年代頃におそらく盛んになった「日本和声」という分野がある。私は初め、ここに大きな興味を持ったし、本も読んだ。しかし腑に落ちない。この腑に落ちなさは、それまで約1000年くらいまでの間、日本の伝統音楽が発展していて一度も和声のような考え方が見られなかったという事だ。
確かに三味線には替手と呼ばれる対旋律的なものはあるし、複数の弦を同時に弾くこともあるし、三味線でなくても複数の音を同時には出すし、なんなら笙に限ってはぱっと聴いた感じ、和音である。
しかし笙はあれがメロディとして考えられるという話もあれば、三味線の替手は突然全くシステマティックとは思えないほどに崩れるし、複数弾く時は和音的な意識であれば簡単にはドとドの♯なんて重ねたりしない。どちらかと言えばそれは音色だったり、アクセントを作り出す為に聴こえてくるものだと考えている。

結論を言えば、日本和声というのは日本の音楽を聴いてみると出てくるとは到底思えない発想で、あくまでもそれは西洋的な発想の延長線上に存在していると考えられる。
平均律が我々が音楽として聴く音のもっともベースとなる部分にあるとすれば、その一歩か二歩上のレイヤーにあるものだと考えられる。
日本和声自体は面白い試みなので発展が楽しみだが、私の立場では研究する内容ではない。
どちらかと言えば、垂直軸は単音であるが、それが複数並んで一つのチャンクとして存在している、、、しかしそれらは必ずしも横の流れを意識され過ぎているとは現状思えない、、、部分に対して横の流れを接続する、付かず離れずで合奏される音楽を研究していると考えている。
垂直面に関しても意識の仕方が変化し、水平、つまり音楽の進行への意識も常々変化するもののように感じている。
すこし話をリズムに逸らせば、指揮やメトロノームに対してリズムを刻んでいるのではなく、時間を区切り、区切った時間と時間を接続しているようなイメージ。これが音程への考え方に表れている気がしてならない。


最近得た手がかりといえば、三味線のアーティキュレーションについてだ。音階やリズムだけでは長唄は不十分で、これはPCで打ち込んでみて分かったことだ。長唄はかっこいいけど、そのまま打ち込むとダサい。いやーな日本の音楽の匂いがぷんぷんする。
師匠が言っていた事に、三味線は口三味線によって弾き方の指示が存在し、それが音色に大きな影響を与えている、みたいな事がある。
これを私なりに解釈すれば、上からバチを振り下ろす時と、本来音程を決定する左手で弦を弾くのでは、ビックリするくらい音色が違う。左手で弾く時は、シンセサイザーで言えばバイパスフィルターがかかってるような感じがするし、バチを上から振り下ろす時は、もはや打楽器的なくらい強力に時間を区切る。

最近周波数解析ソフトをいくつか試していた時に見たのだが、三味線の音色のうちバチを使っているものは特に音が鳴った瞬間の周波数成分が凄まじい事になっていて、シンバルもしくはスナッピー付きスネアドラムのような状況だ。
同じ弦楽器でもギターのピッキングの瞬間はまだ周波数解析ソフトで見てはないもののおそらく三味線のようにはなってないだろうし、フィリップ・グラスの弦楽四重奏を周波数解析ソフトで確認したら全パートがフォルテで同時に演奏してようやく同じような帯域まで埋まる程度だ。

吾妻八景のスペクトラム。三味線のアタックのタイミングで、非常に広い範囲の周波数が出現しているのがうかがえる。
フィリップ・グラスの弦楽四重奏のスペクトラム。周波数の範囲が広い部分は全パートが同時に出現している時。

三味線のバチを使ったアタックのタイミングに起こっている程の強烈な音ではない。同じ帯域までは出ていても、その瞬間の周波数成分の音量と言ったら、三味線はホワイトノイズかのように均一で、楽音とは思えないようなものなのに対して、グラスの弦楽四重奏にはそういう部分はない。

三味線は一つの楽器なのにも関わらず、一つの西洋の楽器で奏でるには「特殊奏法」と呼ばれるくらいの事をしないと出ないほどの音を、昔から当たり前のようにやってのけていたと考えられるし、一つの楽器では考えられないほどの音色を持っていて、それを使い分ける事で曲が出来ていると考えられるのだ。

だから単純に音階やリズムだけで考えられる事ではなくなっていて、その中にアーティキュレーションが圧倒的な存在になっているように思えるのだ。でなければ楽譜に一々全ての音の弾き方を細かく全て指示するようなことはしないだろう。

我々の先祖はどれほどまでイカれていたことか!

長唄の楽譜。
全ての音の弾き方が完全に設定されている。

はっきりと言えば、全く研究はうまくいってない。本当に沼に足を突っ込んでしまったような感じだ。
まずwebの検索は論文検索くらいしかアテにならない。重要な資料は大抵絶版かクソ高い。
草がボーボーに生えた荒地に自分から行って金脈でも探すようなバカな事をしている気はしている。
逆に言えば、新しいもの、概念を作りたいとする私にとっては格好の対象だが、それにしても辛い。なにも進まないまま終わる事が多いし、そもそもできない日もある。何をしたらいいかわからない日ばかりだ。

だけど一つ確証があることは、私はこれでしか満足できなくなっている事だ。なにかを作るのは楽しい。けれど完全に楽しむことは本心を言えば出来ていない。私をもっとも複雑な気持ちにしてくるのはこれしかない。どれだけ楽しいこともこの研究の前ではその楽しさが霞む。
異常な程のワクワクと、感じたくもないほどの無力感、虚無感が同時に襲ってくる。その時初めて生きている心地がある。
未踏の地を踏み締めて、諦めたら即死、前に進む以外無いような気持ちになる。
だからこそ新しいと感じられるし、まだ聴いたことのない音がこれから少しずつ形になるのが楽しみで仕方がない。これほどの辛さがあれば、作品に少しは愛着が湧くんだろうなと思う。

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