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ゆる日記 2022.9~10

2022年9月10日(土)

宮城県で開催されているアートフェス・Reborn-Art Festival'21のオンラインアーカイブ「鹿のゆくえ」を観ていた。猟に出る、鹿の血で絵を描く、鹿を調理する、鹿を食べる、ビオトープをつくる、渡り鳥を撮る、など。牡鹿半島の猟師・小野寺さんによると、「そもそも肉はハレの日に食うもの。手ごろなたんぱく源ではない」。

スーパーにはプラパックに入った肉が、コンビニには真空パックされたサラダチキンが陳列され、手ごろな値段で手に入る。当たり前のことではない。一方で田んぼや畑を荒らされれば人類は「獣害」と叫ぶ。「害」とは誰にとってのものか。

なんとなく肉食を控えてみようと思った時期があったけど、植物性のたんぱく質だけではなんだか元気が出なくてやめてしまった。実際にどのくらいそのせいだったのかはわからない。頭でわかっていることと、体現することとはまったく違う。

9月17日(土)

Reborn-Art Festival'22を鑑賞しに、3年ぶりの石巻へ。石巻焼きそばを食べてから、みやぎ東日本大震災津波伝承館にある弓指寛治さんの「半透明な森」という作品から鑑賞をスタートした。

周辺に植えられている木々はまだ植樹されたばかりのため小さく、見る人によっては少々寂しい空間になっている。この窓ガラスには、その木々が育って森になった未来を思わせる世界が描かれている。

弓指寛治「半透明な森」

スタッフさんが話しかけてくれた。「ある意味”重い”場所であるからこそ、クスっと笑えるようなありえない設定や想像力をくすぐるちょっとした仕掛けがあっておもしろい。ぼくは好きです」と仰っていた。ほかにも、そのちょっとした仕掛けについての解釈や、行方不明者とされている方のご遺骨もその一部がきっとこの復興祈念公園の土の中のどこかにあるはずだというお話をしてくださった。

ご遺骨が10年以上経っても見つからないケースがある。遠いどこかへ行ってしまった存在が、今ここにある存在とともに森を育み、また違う存在を生かす。そう思えば、少しだけでもほっとしないかな、でもそんなことおれが思うのは浅はかかな、とか思った。

9月18日(日)

牡鹿半島の先のほうまで展示を観て回って、夕方はホワイトシェルビーチで青葉市子さんのライブを聴いた。雨予報だったけど、なんとか降らずにもってくれた。

このライブを観ることが決まるまで、青葉市子さんの音楽を聴くことはあまりなかった。軽~くしか予習をしていなかったのだけど、目の前で聴いた演奏はほんとうにすばらしかった。特に「Sagu Palm's Song」という曲は音源と違って、四家さんのチェロが加わることでより<世界>で躍動する生命たちの動きのようなものをいきいきと感じた。HARUHIさんのカバーナンバー「ひずみ」は、そういう<世界>にあって、それでも今を生きる人に<社会>にかろうじてとどまってほしいという切実な思いを(勝手に)受け取ってしまってグッときた。

会場は「ホワイトシェルビーチ」というだけあって、白い貝殻が砂浜のようにビーチを形成している。ライブ前は明るかったけど、ライブ後にはほとんど日が落ちていた

<世界>/<社会>は社会学者の宮台真司さんがよく使うフレーズだ。人間同士がああだこうだやっていく<社会>は人権も保障されないし、便利で安全になっていくけどその分つまんなくなるしで基本的にクソだけれど、一方で人間の手に及ばない<世界>には<社会>を超越する美しさがあって、その美しさはじつは人間にも宿っている(と私は解釈している)。<社会>がクソったれになればなるほど<世界>に浸る人が増え、それが<社会>に作用することもありうるのではないかというのが私の考え方で、アートフェスもそういうことを志向しているのではないかなと思ったりする。知らんけど。

9月19日(月)

石巻市街の展示を観て回る。旧復興まちづくり交流館では、有馬かおるさんの「FAUST IN MARIENBAD by 個の追及の果ての他者性と、その奥にある風景」。写真や絵画を中心に、相互に関係しているような、していないような作品が館内に並ぶ。”個の追及の果ての他者性”は、小林武史さんの公式対談集のタイトルでもある「A sense of Rita=利他のセンス」にも通じる言語表現だ。有馬さんご本人が自分自身が表現をすることで救われたという話を展示の中で記述していた。利己と利他はどう重なるのか、重ならないのか。

有馬かおる「FAUST IN MARIENBAD by 個の追及の果ての他者性と、その奥にある風景」

旧復興まちづくり館に元々あったパネルの「きずな」の文字と、スポーツ新聞の「報酬はSEX」の文字との、情報としてのコントラストが気になって思わず写真を撮ってしまった。どちらも、何かを伝えたい人と、それを受け取る人がいるから生まれた言葉だと思う。しかし、きれいごとを叫んでも、下世話なフレーズで気を引いても、そこには虚無しか残らないのではないか。それよりは、一見何のことかよくわからないものをじっと見つめて、なんとなく妄想を広げてみることのほうがよっぽど尊い。アートフェスの2泊3日はそういう滞在だった。

9月24日(土)

大学の友達が葛尾村に遊びに来てくれたので、ちょうど開催されていたKatsurao AIR(アーティスト・イン・レジデンス)のトークイベントと展示を観に行った。改めて、アートは大文字の歴史(自治体単位で語られる歴史、権威ある人物の歴史)やそれに紐づく観光資源だけではなく、小文字の歴史(字(あざ)単位で語られる、権威なき市井の人々の暮らし)を可視化してくれるものだと思った。年表には載らない、観光パンフレットにも載らない、でも観る者の心を動かす何か。

そういうものに元々関心があったので、前職の旅行代理店での営業職はやっぱり向いていなかったのかもなと思う。休みの日に友達を連れてああだこうだ喋りながら、あまりコースやねらいを決め過ぎずに、予定調和にならないように動く。これは仕事ではできないことだ。

福島に来たことで、視察の受け入れをするようになったり、インバウンド事業の一環でワークショップや実地研修にお誘いいただいたりするようになった。ツーリズム産業を離れてから、むしろやってみたかったツーリズムに関わるチャンスをたくさんいただいているように思う。「観光」というのは「業界」や「業態」ではなく、「考え方」であり「哲学」なのではないか、という思いがより強くなってきている。

そういえば、もうすぐ東浩紀さんの『観光客の哲学』の続編が出るのでとても楽しみにしている。出不精で怠惰な私が転職と引っ越しを決めたのは、「誤配」に身を曝せという同書のメッセージによるところも大きい。疫病と戦争の2020年代にあっても、ひとりひとりにとっての観光客の哲学まで消し去ってはいけない。

10月9日(日)、16日(日)

2週連続でテントサウナ。9日は猪苗代湖、16日は葛尾川を水風呂がわりにして。1~2年前くらいからサウナが流行っていて、安直に「おれも…!」とか思ってたまに入ってみては「ととのうって何だよ、わからん」となっていたけれど、最近コツを掴んできた感じがある。何分間とかあんまり気にせずに、体が芯から温まっているかどうかに集中すれば、血が指先まで巡って外気浴がめちゃくちゃ気持ちよくなる。

猪苗代湖畔のMINATOYA SAUNA
葛力創造舎主催の川サウナ。カレー、アロマ、弾き語りライブなど、普段の村にはない光景が出現した
葛尾村の中心部・落合の交差点をモチーフにしたタオルデザイン。東西南北あちこちから有象無象が「落ち合う」、そして勝手に化学反応が起きていくような場所になればいいなと思う

ヤバ冷え症の私 VS 葛尾村の厳しい冬。血をぐるぐると巡らせて、なんとか乗り越えていきたい。

10月22日(土)

帰還困難区域内で展開されているアートプロジェクト「Don't Follow the
Wind」のうち一作品が、先の双葉町の避難指示解除で立ち入り自由となったとのことで、初日にお邪魔した。

一度取り壊されてしまった展示を、鑑賞者が周辺を散歩するというかたちで再構成。順路が示されないと行かないような場所へ導かれる。「田んぼを張らなくなってかえるの声がきこえなくなった」という言葉を聞いて、石巻で聴いた青葉市子さんのSagu Palm's Songが脳内にこだました。かえるのうた、生命の躍動。ヒトもまた生命。

キュレーターの緑川さんが「人間の次の知的生命体にむけて何を遺せるかを考えている」と仰っていたのが印象的だった。災害がありました、きれいに復興させました、放射性物質の線量はゆっくり減衰していきます。それだけが遺っては、それが何だったのかわからない。人間がもがいた跡や思考した形跡を微かでも遺しておくことをやるべきだし、そのフィールドが浜通りであることには合点がいく。他の作品もたのしみ。

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