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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第5章〈1〉

<各出版社の豪華大パーティ〜黙っていても原稿料がハネ上がり、次々と単行本が発売になる"バブル期"、そして小池一夫先生との創作秘話〉
 
 都立大学と学芸大学を根城にする生活は、漫画原作者としての仕事がそこそこ軌道に乗ってからも、ずっと続いていた。

  その頃、漫画業界は、最初で最後のバブル期に向かって(誰もが最後だと思っていなかったが)、華々しく上昇して行く過程にあった。
 
 自分も曲がりなりにも様々な出版社で仕事をさせてもらったおかげで、各社の年末や年始のパーティに顔を出せるようになっていた。
 今からでは考えられないことだが、大手出版社はもとより、漫画雑誌を発行しているすべての出版社が、とにかく盛大なパーティを開催していた。
 その盛大さの例を挙げると……。

 ただパーティに行っただけで、参加賞として、最新の電子機器がもらえたりした。
 現在で言えば、パーティ会場に入りさえすれば、最新のiphoneやipadがもらえるみたいな状況と言えばいいだろうか。
 会場は、帝国ホテルの一番大きな広間である。
 それに比例して、提供されている料理の数々も半端なかった。普段口にすることのない高級料理の数々を、ずいぶんと無料で食べさせてもらった。
 また、パーティ自体もひじょうにおおらかな感じで、漫画業界の大御所の方々や超売れっ子の先生方もほとんど顔を出されていた。そして、気軽に対応もされていた。

 出版社主催のパーティで忘れてはならないのが、そのクライマックスで行われるビンゴ大会である。
 これまた、景品が凄かった。
 海外旅行は当たり前、一人につき高級車一台とか、高級バイク一台とかも、ごくごく普通に提供されていた。その他、一流ブランド品、一流家電などが目白押しだった。
 かくいう自分はあまりにも貧乏性であるがゆえに、

(こういうところで運を使っちゃいけない)

 とか考えてしまい、ビンゴのシートはすべて同行者の誰かにあげるようにしていた。
 したがって、参加賞以外は未だに手にしたことがない。
 そして、いよいよ時代は本格的なバブル期に突入し、さらに派手派手しいパーティ開催が加速していくことになる。

 が、やがて、自分自身はパーティに出ることに何か虚しさのようなものを感じ始め、次第に足が遠のくようになった。
 パーティ会場では肝心な人達と落ち着いて話をすることもできず、その場限りの挨拶や立ち話で終わってしまう。そのことが、虚ろなものを感じるようになった一つの原因だったような気がする。
 とはいえ、自分は経験がなかったが、パーティ会場で各社の編集者諸氏と知り合い、そこからデビューに結びつける人達も多いと聞いた。
 デビュー前の新人やアシスタントにとっては、パーティも、豪華景品や無料飯以上に、大きな実効的意味があったのかもしれない。

 もう少し、バブル期前夜と真っ只中のパーティの話を続けると……。
 
 今まで述べたのは、あくまでも一次会の話である。
 二次会となると、今度は各雑誌の編集部ごとに場所を移し、店をまるまる一軒貸切にして、華々しく行われていた。
 その二次会の会場でも、新たにビンゴゲームがあり、一次会に負けず劣らずの豪華な景品が提供されることになる。
 この二次会では、ごくたまにだが、一次会ではゆっくり話せなかった人達と、偶然同じ席になることがあった。
 自分的には、同じ業界の漫画家諸氏ではなく、異業種の人達と話せるのが面白かった。
 特に、プロレス好き格闘技好きだった自分は、プロレスラーや格闘家の方々とお話しできたのは大きな収穫だった。
 また、グラビアアイドルやミュージシャンの人達とも話す機会があり、それもまたいい糧になった。

 同時に、豪華パーティの数々になんとなく虚しさを感じながらも、自分の生活自体は、連載作品が増えるにつれ、おのずと賑やかなものへと変化していった。
 それでもまだ、住まいは学芸大学の1Kのアパートであり、本拠地は都立大学にあったのだ。
 どのように生活が変わって行こうとも、劇画村塾の界隈から、まだ一人立ちすることはなかったのだ。
  
 だが、バブルの勢い自体はまだ止まる気配はなかった。

 六本木とかで呑んでいて、実際に壱万円札に火を点けて、タクシーを停めたり、チップとして万札を手渡す人達を目撃したのもこの頃である。
 こちらも、出版社での打ち合わせが終了後、キャバクラを何軒もハシゴをさせてもらったうえに、タクシーではなく、ハイヤーで自宅まで送り届けてもらうのが常だった。
 編集者諸氏も、ハイヤーで打ち合わせ先までやって来るのが普通だった。
 出版社の窓の灯りも、夜通し消えることがなかった。
「出版業界に限っては不況は絶対にない」
 と、断言されてもいた。

 漫画の単行本に関して言えば、どんな新人作家であろうとも、初版五万部は当たり前、増刷に次ぐ増刷だった。
 雑誌だけでなく、単行本も売れまくっていたのだ。どんなにアンケートが低い作品でも、単行本化はほぼ確約されていた。
 原稿料のほうも、こちらが何も言わなくても、どんどん上がってゆく。
 なんとも豪勢だったが、反面、どこか空恐ろしくもあった。

(こんなことが果たしてずっと続くのだろうか……)

 さすがにそう思わずにはいられなかった。

 そんなバブルの渦の中で、自分も、周囲も、次第に状況に変化が訪れつつあった。

 狩撫先輩とたなか先輩の『迷走王ボーダー』は順調に続いていたが、以前のように、お二人と頻繁に会う機会はなくなった。
 狩撫先輩は複数の原作作品を手がけられていたし、たなか先輩も『迷走王ボーダー』の週刊連載に全力を傾けられていた。
 アシスタントの人達も、本沢氏を筆頭に、次々と自分の作品でデビューし始め、顔ぶれも少しずつ変わりつつあった。
 小池先生もさらに御多忙になられ、劇画村塾のほうも、通信教育へと移行することが検討されているという話も聞こえてくるようになった。
 同時に、自分が仲の良かったスタジオ・シップの社員の皆さんも、それぞれ別々の道へと歩み出される人達も出てきた。
 そして、自分自身も仕事が忙しくなり、他にも映像絡みの仕事等の話も入ってくるようになり、そろそろ手一杯という状況になりつつあった。
 根城にしている都立大学や学芸大学にも、新しい店ができ、古い店はなくなり、日々様変わりしていった。

 ある日。

 今でもはっきりとその瞬間のことは覚えているのだが、学芸大学の通りを歩いている時に、

(……もう限界だ。この街から離れる時が来た)

 と、不意に思った。
 締め切りが重なって、ちょっと精神が不安定な時だったのかもしれない。
 道幅が狭いことや、その道幅いっぱい大勢の人々が行き来している環境に、どうにもこうにも我慢できなくなっていた。

(もっと広い道の、もっと人が少ない場所に移って、落ち着いて仕事をしたい!)

 切実にその願いがこみ上げてきた。
 いてもたってもいられなくなり、すぐさま近くの電話ボックスに飛び込んで、アパートの大家さんに、一か月後に引っ越ししたい旨、電話連絡を入れた。
 さすがに大家さんもびっくりしていたが、自分の気持ちは、その時点でもうはっきりと決まっていた。
 もっと広い道の、もっと人が少ない場所ということでは、スタジオ・シップで神江里見先生のアシスタントを務めていた近藤こうじ氏と一緒に車で行ったことのある、たまプラーザが頭に浮かんでいた。
 近藤氏はモータースポーツの大ファンでもあり、のびのびと車を運転できる場所への引っ越しを希望していた。自分のほうは、 好きなミュージシャンや作家の方々が、たまプラーザやお隣のあざみ野に住まわれていたということが、少なからず影響していた。それで、二人して、一度下見に行っていたりしたのだ。
 引っ越しを決めてから、何の機会だったか失念してしまったが、スタジオ・シップ本社を訪れた際、たまたま小池先生とお話しできる機会があった。

「なかなか頑張ってるみたいじゃないか」

 小池先生はそう言われ、しばし社長室での雑談となった。

 特に御挨拶をしようとか相談があっての訪問ではなかったので、思わず、

「小池先生が書かれた、この原作原稿を見せてもらっていいですか?」

 社長室の壁面の棚いっぱいに収納された、革表紙の原作生原稿を見ながら、お願いしてみた。
 デビューが決まった時、初めてこの部屋に入り、圧倒されまくった思いがフラッシュバックした。

「いいよ」

 小池先生のお許しを得て、読ませていただくことになった。
 それも、その場で、小池先生御本人のコメント付きである。
 なんとも贅沢な時間になった。

「『子連れ狼』の第一回目の原作の原稿だけないんだよ。誰かがどこかへ持っていってしまってね。そのうちオークションか何かに出るかもしれない」

 小池先生がおっしゃった通り、本当に記念すべき『子連れ狼』第一話の原作だけ、欠落していた。
 『御用牙』の原作原稿を見せてもらうと、

「その作品を書いた時はねえ、偉い大学の先生から連絡があってね、あの作品の資料はいったいどこから手に入れたんです? と訊かれたんだ。僕は昔から古文書を読むのが好きだったから、もともとの知識はそこから仕入れたものなんだけど」
 ということだった。

 普通の原作者が、なかなか小池先生の時代劇の知識に追いつけないのも、当然だった。
 小池先生の”雑談”の中にしばしば登場した『首斬り朝』については、

「それを書いた当時は、そういう資料を見たことがなかったんだけど、刀で首を斬る時は、漫画の中でやっているように両手で刀を振りかぶる感じじゃなかったようなんだね。刀を肩に担いぐような形になって、ちょうどゴルフスウィングをするような感じで、一気に斬り落としたらしい」

 実際にそのポーズを身振りで見せてくださった。
 時代劇だけでなく、現代劇の『I・飢男(アイウエオボーイ)』の原作も見せてもらった。

「この作品は、まだ未完のままですよね、ぜひとも小池先生と池上先生のゴールデンコンビで完結まで読んでみたいです」

 自分が希望を述べると、

「僕もそう思ってるんだけどねえ、もう、二人で他の作品も始めてしまって、軌道に乗っているしね。けど、今やるとしたら、主人公は大金をギターケースに入れて持ち運んでなんかいないだろうね。きっと特殊なクレジットカードとかに変えたりなんかしてるはずだ」
「おお、特殊なクレジットカードを持ってるなんて、今風でいいですね」

 ワクワクしたが、この話は、その後、実現することはなかった。
 ひとしきり小池先生との話が終わり、社員の方々とも少しお話をして、スタジオ・シップ本社から外へ出た。
 それ以降、スタジオ・シップ本社を訪ねるのは何年も後になってからのことである。(その時には、もう”小池書院”に社名変更していた) 

 ふと、船の形に似たスタジオ・シップ本社を振り返って見た。
 劇画村塾に入塾して、初めてやって来た日が、まだ昨日のことのようだった。

(すべては、このスタジオ・シップ本社の大ホールから始まったんだよなあ……)

 そんな思いに捉われながらも、まだまだ若かった自分は、この先にいったい何が待ち受けているのか、未来への好奇心のほうが強かった。
 実際、好奇心の向くままに仕事をこなしていたところ、気がついたら怒涛の複数同時連載状態となり、自宅とは別に仕事場を借り、さらに個人事務所を設立することにまでなってゆく。

〈続く〉 
 

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