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映画『JOKER』 三段ドロップの妙技

話題の『JOKER』少し遅れて観てきた。

http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/index.html

すでに多くの人がこの映画について語り、それぞれの解釈や分析を披露している。もともとそうした状況を狙っているフシがあり、『JOKER』を語るのはそのマーケティング戦略にまんまと引っかかっていることになるわけだが、旧ブログ時代から「釣られるときは全力で」を旨としている。「論考までがJOKERです」ということで、この映画を十分楽しむためにnoteを書く。

※ネタばれありありです。まだ観てない人はどうか読まないで!

百家争鳴のJOKER談義で、特に多いのは米国をはじめ多くの国で進む社会の分断になぞらえたもの。そしてそれを今日的な問題でなく、貧困や差別といった社会の普遍的な課題としてとらえる人も少なくない。

自分もそういう視点に興味がないわけではないが、やはり自分としてはこの映画のエンターテインメント性、要するに「この映画は面白かったのか?」を考えてみたい。

結論から言えば、大いに面白かった。

が、実は終盤までは「それほどでもないなア」と感じながら観ていた。疎外されながらも懸命に生きるアーサーの姿は、観ていてつらい。明るく楽しい馬鹿映画が好きな自分としては、予想していたこととはいえ厳しい時間だった。

その雰囲気が終盤、ガラリと変わる。自信に満ち溢れたアーサーが、「ジョーカー」としてテレビに出演するために向かう場面。そのロケ地が観光名所になりつつあるほどの「階段で踊るシーン」は歴史に残る名場面だ。疎外感から解き放たれ、軽やかにステップを踏むホアキン・フェニックスの身のこなしは、スーダラ節を歌う植木等レベルで無重力感がある。このジョーカーはヒース・レジャーのジョーカーより、ジャック・ニコルソンのジョーカーに近いな、とも感じた。自分は『ダークナイト』より1989年の『バットマン』派なので、ちょっと好感度アップ。

そして運命のテレビ出演の場面。このあたりまできて、自分の中で「まあまあ面白い映画」になりつつあった。

そこから「大いに面白い映画」になったのは、このあとの怒涛の展開、沢村栄治の「三段ドロップ」を思い出させる強烈な変化による。三段ドロップって見たことないけどね。

まず第一段。市民たちがピエロのマスクをかぶって暴動を起こし、アーサーを悪のヒーロー、ジョーカーとしてまつりあげる。その暴動の中で、後にバットマンとなるブルース・ウェインの両親も殺害される。

その手を下したのはアーサー=ジョーカーではない。この時点で大勢のピエロ姿の市民たちはすべてジョーカーとなっていたのだ。アーサーはそのきっかけを作ったに過ぎない。

――コメディアンを夢見る、孤独だが純粋で心優しいアーサー。一人の“人間”が、なぜ、狂気溢れる“悪のカリスマ=ジョーカー”に変貌したのか?

これは本作のウェブサイトに掲げられた解説文。そこには恐らく意図的なミスリーディングがある。アーサーは「一人の人間」だが、ジョーカーは「一人の人間」ではない。ゴッサム・シティが生み出した、社会から疎外された声なき人々の怒りが生み出したひとつの群体であり、ある意味では虚像だ。

ん?これ何かに似ているぞ。幻に終わった『押井守ルパン』では、ルパンを虚像として描く予定だったという。そしてそのコンセプトにインスパイアされたとも言われる2008年の『ルパン三世 GREEN vs RED』では、ルパンを集合体として描いていた。

そして、冒頭から衛生局のストライキという状況を描き、ゴッサム特有の「匂い」を作品全体に充満させた演出がここで効いてくる。そこに漂う悪臭が、スクリーンを通して確かに伝わってきた。『サルでも描けるまんが教室』では竹熊健太郎と相原コージが「まんがからは音楽が聞こえてこない」という弱点を乗り越えるために奮闘するが、この映画からは匂いが伝わってくる。

その悪臭に乗って、行政が行き詰まり、治安が乱れ、福祉が切り捨てられた大都市の状況がリアルに伝わってくる。その状況こそが、社会から疎外された多くの人々=潜在的なジョーカーを作り出した。ジョーカーがゴッサム・シティを犯罪都市にしたのではなく、ゴッサム・シティがジョーカーを生んだのだ。

バットマンの映画では、この「ゴッサム・シティ」をどう描くかが大きなポイントになる。ティム・バートン作品ではゴシックな雰囲気だったし、ジョエル・シューマッカーはより漫画チックな色彩を浮かび上がらせた。ドラマシリーズ『ゴッサム』は興味深く見たが、せっかくこのタイトルをつけたのに、街そのものがあまり描き込まれておらずやや物足りなかった。今回の『JOKER』は、ゴッサム・シティをリアリティのある形で再現することに成功している。

「ジョーカーは単独の存在ではなく、ゴッサム・シティに生きる人々の群体だった」。これが、最初のドロップである。

二段目。これはラストシーンだ。病院で、精神科医(だと思う)に物語を聞かせるアーサー。ここは様々な見方ができ、ネット上でも意見が分かれている。普通に逮捕後、収監され治療を受けているようにも見えるし、この『JOKER』で描かれている話の途中から、もしくは全部がアーサーの妄想だった、というようにも見て取れる。

自分は「全部妄想だった」派。だってそのほうが面白いじゃないか。『ユージュアル・サスペクツ』みたいで。

と考えると、「虚像だった」ジョーカーが、そもそも妄想だったことになり、ジョーカーの存在は二重に否定されることになる。「ジョーカーの誕生を描く」といううたい文句は完全に嘘っぱちで、観客はただの妄想話に2時間にわたり付き合ったというのか。これはこれで清々しい。

とそれなりに満足して席を立とうとしたら、最後の最後に、三段目のドロップが用意されていた。

アーサーは自分の物語を終えようとしてブルース・ウェインのことを思い出し、そこで何事かを思いつく。説明を求める精神科医に「君には理解できない」と言い放ち、ここは描かれていないが恐らくはその精神科医を殺害。そして血にまみれた足跡を残してアーサーは病院を抜け出そうとする――。

このくだりに対する自分の考えはこうだ。

アーサーはブルース・ウェインを「ジョーカー」に敵対させることに思い至る。自分とは最も縁遠い、そして自分を疎外し続けたウェイン家の人間が、自分と同じ土俵に立って歯向かってくる。それは、妄想(=ジョーク)を繰り広げてきた末にたどり着いたパンチライン。自分が探し求めてきた、最高に笑えるオチだ。このコメディを妄想ではなく、実践したい。そのためには「虚像、群体」だったジョーカーに、実体を持たせなくてはならない。その実体は――自分しかいない。

つまり、ここで初めてアーサーがジョーカーになる。そして初めての罪(精神科医の殺害)に手を染める。アーサーはなぜ「君には理解できない」と言ったか?だって君は妄想を聴くのが仕事じゃないか。自分は犯罪者として現実世界に出るのだから、もう用はない。そう言いたかったのではないか。

数分前まで嘘っぱちだと思っていた「悪のカリスマ誕生」という宣伝文句が、最後の最後にきて本当になってしまった。何とまあ、開いた口がふさがらない。ジョーカーブランドの化粧品「スマイレックス」を使用した後のように、Go with a Smileしたのでした。

と、これが1回目観た感想。複数回見るとまた考えが変わるらしいのでまた観ようと思う。やっぱり釣られてるなあ。


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