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そんな夜のこと

家を出てワンルームマンションに住み始めた頃、ときどき遊びにくる女性がいた。いつもいきなり予告なしで部屋に来るのに、あるとき電話で「今、駅にいるから自転車で迎えに来て」と言う。時間は夜の12時近い。そろそろ寝ようかと思っていたところだった。言っておくが、まだ携帯電話などない時代だ。おそらく駅前の公衆電話からだろう。

駅からマンションまでは近かったので、迎えに行ったり送ったりしたことはあったが、いつも歩きだった。なので、なぜ自転車がいるのかと思ったが、まあいいかと言われた通りにママチャリで駅に行くと、駅前のガードレールに彼女が腰かけていた。

彼女は僕を見つけると足元に置いた旅行鞄を「よいしょっ」と持ち上げ、自転車の後ろにまたがり、「行って」と合図するように背中をポンと叩いた。こんな時間に行くところなど僕の部屋しかない。行先を聞くことなく僕は自転車を漕ぎだし、前を向いたままで聞いた。

「でっかい鞄やな、何が入ってるの?」
「うん?着替えとかいろいろ」
「どこか行くの?」
「アンタのとこやん」
「えっ?」
「嬉しくないの?」

嬉しくないわけがない。突然力がみなぎり、そのまま彼女を乗せて自転車で日本一周しようかと思ったくらいだ(ものの喩えです)。あまりに嬉しくて、有頂天で、彼女のこと以外何も考えられなかった。おかげでその年に世の中で起こった出来事を何も覚えていない。僕の人生のタイムラインは、その日から約一年間がぽっかり空いている。何か書き込むとしたら、「彼女と暮らした」の一言だけでいい。

もうずっとずっと昔の話。

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