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一票の重みと優しさ

生まれてこのかた26年、今日になってはじめて選挙投票に行ってきた。
人に話すほどではないけど、個人的大ニュースではあったと思うから、今まで投票しなかった理由と今回投票した理由を記録に残して置こうと思う。

読んでくれている人には、あらかじめお伝えします。自分のために書いているようなところもあって、結構文面長くなったり、脱線も何回かすると思います。それでも、目に留めていただいたからには楽しんでいただけるように書いてみますので、最後まで読んでもらえると少し嬉しいです。

まずは、投票に行ってみての感想。まだ結果が出ていないからか実感はないものの、少しだけ「自分みたいな人間が投票なんかして良かったのだろうか」と思う反面、社会の構成員として自分のために「責任を果たすための一歩が踏み出せたなのかな」とも感じる。後ろめたい気持ちもあり、自分の変化も感じて、総じて変な感じ。正直、ふわふわした感覚がしてそんなに気持ちははっきり良くはない。
本当はなんてことないはずだし、「この先この感覚を思い出すこともないだろうになんでこんなに恥ずかしさを感じんだよッ」って感じ。

なんで今まで行かなかったかというと、一番大きいのは宗教的な背景だと思う。元々、熱心なクリスチャン家族に生まれた自分は教えの一つとして、「世の中の出来事に対して修復を図れるのは神のみで、神の救済を待ち望む者の一人として、人による政治に一切の関与をしない」みたいなものがあった。つまり、「投票に行っているあなたは人による統治に期待をし、神への信仰は薄いのですね。それは神の目にはどのように映るのでしょうか?」ということだった。(多少きつめに言うとね。)
まあ、人には自分で生き方や拠り所を選ぶ権利と責任があると思うのでそれに対しては反対意見もないし、むしろ理論は正しいし、その教えを守れる忠実さはすごいなと彼らには今でも尊敬すら感じている。
そんなこんなで、そもそも幼少期から「選挙投票に行く」と言う習慣もなければ、考えも御法度だった。

この点、僕らが生きている社会は本当に絶妙なバランスの上でありとあらゆる恩恵を受けているのだと思う。

あまり宗教団体の内情について知っている訳じゃないし、誰かを否定したくて書いている訳じゃないので深入りするつもりはないが、個人的にこれは宗教と政治の関係図を表す聖書物語だなと思うものがある。それは「”熱心なクリスチャンは政府に税金も支払わないのか?”問題」だ。
ローマ統治下にあった古代イスラエルである日、イエス・キリストが熱心に伝道活動をしていた時に、当時のユダヤ教信者が人気を高めていたイエスにローマ政府の批判を言わせて捕らえるために、「じゃあお前は税金は支払わないのか?」と聞いた。それに対してイエスは、ユダヤ信者の一人がその場で持っていた”ローマ皇帝・カエサルが彫られた貨幣”を手に取って、「カエサルの物はカエサルに、神の物は神に返しなさい」と答えた。
いやー、とんち聞いていて上手な回答だなぁとは思うんすよね。
このお話の教えとして、税金はしっかりお支払し公共機関の恩恵は受けるが、信仰・命・権利は神に捧げようと言うことにでした。もっと言えば、「政府に逆らって人同士の争いや不和を生もうとするならば、神の目に良く映るのでしょうか?」と言う、もっとも平和的な教えにも発展してたと思う。(ここは教えの記憶ですね。)

つまり、納税の義務は果たしながら、参政を選ぶ権利はこちらにあるよねみたいな絶妙なバランス関係が宗教と政治間にあった。
その一方、行き過ぎた宗教団体もあるために、行政の適切な手続きと審査を通らないと宗教法人認定がされず、宗教活動が認められないと言う一面もある。そのため、信仰が納税の義務を邪魔するとどうなるかと言う点で双方合意的な関係にありつつも、現代では民主主義のもと政府が若干コントロールを握っていて、宗教団体の教えにも本音と建前があったのではないかとも思う。

早速、かなり脱線しましたが、なので僕には幼少期に培われた宗教心的にものもあり、投票の敷居は高かったのかなとも思う。まあ、今となっては環境や心の変化もあってもう忠実な僕ではないんですが笑。。

二つ目に、そもそも人が互いのミスや弱点を吊し上げたり、派閥争いをする構図になってしまっている政治・選挙に対して疑問視を通り過ぎて、直視することから逃げていたんだと思う。
与野党の批判とかって本来打ち出された政策をより良くしたり、無駄を削るために行うためだと思ってたのが、どうしても論点がそうではない方向に向かっている時があるなと思う。もちろん、全部がそうだとは思わないが、ニュースとかを見ると何だかわからないけど貶し合い・ミスの擦り合い・私利私欲・思惑に無意識に巻き込まれたくないなと感じて、気づいたら政治ニュースを見ないようになっていました。
それはもう日本じゃないじゃんと言われたらそこまでなんだけど、特にアメリカ留学中は当時トランプ政権だったこともあり、トランプさんの言動はさること、もはやそればかりを取り上げる一部マスメディアや移民に厳しい態度をとりながらそもそも外交よりも驚くくらい国内政治についてばかり取り上げられるアメリカ政治・社会にビビって、最初は英語勉強のために見ていたCNNもぱったりと見るのもやめちゃっていました。
(それだけ、アメリカは軍事も経済も強国であるってことなだけだと思います。)
ただ、そもそも、人って集まって何かを継続して取り決めようとするとどうしても組織内で派閥化してしまったり、目的を忘れて公然の場でも相手を悪く言ってしまったり、悪い噂が広がったりするのだと思う。それは、学校でも、会社でも、宗教団体の中でもそうなんだと思う。かといって、人が集まらないと現代の技術進化や文化、高度な生活様式もなかったのだと思う。
だから、そうした政治家同士の言い争いもある程度は許容しながら、自分の住む社会の問題を一つずつ解決できそうな公約と組織がどこか見定める義務は僕らにあるのかなとは思いますよね。(まあ、自分の一票にどれだけの力があるかのか、自分の判断が正しいかすらわからないけど、見つめて行動する努力だけはしますよ。はい。)

不思議ですよね。社内政治や組織の理不尽な行動指針とかから逃げたくて、あらゆる組織を離れ、フリーランスになったのに、一人になって改め組織の力強さを認めようとする矛盾にフリーランス2年目になる今月思うとは。。。
でも、書いているうちにこれこそ生きている証拠なのかもと思った。(ベガパンク〜!!)

"矛盾"こそ人間の証である
引用:「ONE PIECE」Dr.ベガパンクより

まあ、そんなこんなで選挙には行ったこともなく、駅で見る政治デモをちょっと冷ややかに見ていたり、デモ参加や政治研究を熱心にする友達を見ながら意識たけぇなぁって思っていました。
それでもセンター試験の政治経済は偏差値70いったんですー
(↑これ、学歴が無いに等しい僕は多分一生擦る自慢なのでスルーしてくださいー)
だから、別に興味がなかったわけではなかったし、物語として好きだったのだと思う。
ただ、実家で父親と母方のじいちゃんがニュースや社会のあーだこーだ言い合っていた二人には「そもそも生まれ故郷・国・信仰の違う二人が合意する訳ないやろー!やめてくれー!」って思っていたし、今でも思い出してムカつくこともありますし笑、いつからか話題としても毛嫌いするようになっていたんだと思います。

じゃあ、いざ投票に行くきっかけになったのは何だったのだろうと振り返ると、強く動かされたのは中東での戦争ととある新聞記者ポッドキャストだったのだと思う。

ここのところ、落ち着いたと思ったらまた激化したりしているガザ攻撃やウクライナ情勢。正直、心は痛いものの、SNSでのイスラエル批判やガザ保護、ロシア批判、ウクライナ支援のような発信など見ても、自分には何が正しくて、何が間違っているか見極める能力もなければ勇気もでないです。
歴史を振り返ると、何となくですが理不尽な経済恐慌やパンデミックの後に国は組織的な防衛本能なのか保守的になるし、戦争に走る国家には彼らの言い分や必要不可欠な資源があるのだと思う。国家の構成員みんなが同意しているわけではないとも思う。
別に選挙に行ったところでそこは変わらないと言うのが本音です。
だからこそ、自分の失望して、必死にガザの戦場を映し伝えるパレスチナ人の少年をインスタで見つけて、余計自分の無力感に陥ります。

そんな時にこちらの朝日新聞の記者がニュースに対する心の保ち方を教えてくれたように感じました。

かいつまんで中身を書き出すと、
そもそも戦地や激しいデモの現場を取材する記者でさえ、もちろんながらそこの事象に一切の介入は許されず、生の情報を伝えるメディアとしては感情による見えない介入も許されないからこそ「取材記者ですら、その瞬間目の前で起きている物事に対する自分の無力さに心を痛めている。」とのこと。だからこそ、「(情報の)受け手はそれを知ることで、まずは身の回りの自分とは違う人間に対しても人として良く接せられるようになって欲しい。そしてその良い行いが連鎖して遠い国にもいい影響として届けばいいと思う」
と語っていました。
さらに、ハッとさせられたのが
「そもそも、遠い国の事象に心痛めているのは、自分の国のことなら少しばかりはなんとかできるからなのでは」という言葉でした。
(多少、フレーズと意味は自分の良いようにとってしまっていると思うが)

いやー、びっくりでした。ニュース見ないとか言いつつ、無意識に入る情報に勝手に悲しんで、自国で与えられている権利は行使しないの自分が少し滑稽に感じました。
これは自然と投票に行かなきゃ戦地の少年たちにも失礼だし、自分の生計をしっかりとここ一年で立たせようとしているのに、責任感と考えの方向にブレが見えました。

それでも、投票所で機械から出てきた投票用紙をスタッフの方に「自分の手でお取りください」と言われた時に、一瞬自分の善悪の判断力への自信の無さと一票の責任の重さをものすごく感じて、背筋が凍り、手が震えた。

ただ、選挙結果がどうであれほんの一票でも行動に示すことで、より良い社会を望む姿勢を示していければと思う。

生きていくことは理不尽の連続で、暮らす社会に対して思うことも人それぞれ違う視点からあるのだと思う。
でも結局、社会に対して一人の力は微弱で、世界をひっくり返すつもりも湧かない人がほとんどだと思う。
それでもほんの少し周りの人に優しくして、それが次へと呼応していき、知らない土地の知らない誰かを含めてみんなが世界に対して生きやすさを少しでも感じられればいいなと思う。

にしても、七夕だっていうのに公約読み漁るの大変でしたー、疲れた。
(最後まで読んでくださった方ありがとうございました!)

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