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変なものはやっぱり変で、後付けの理由がないと伝わらないなら何か足りない

学校の講義もひと段落で、後はテストを実施する期間に入ってきました。もちろん講義の習熟度をみるためのものだけど、どれだけ伝わったかということも確認できる機会。
実際やってみると思いもしない解答が出てくることがある。
十分に勉強が追いつかなかったのかもしれない。
それ以上に、いつのまにか偏った表現になっていて意味が伝わっていないかもしれない。

15回講義の中で共有していたとしても。
いや、した気になってただけかもしれないけど。

授業の場も1つのコミュニティになっていぐので段々と空気が形成される。その場の空気だから伝わっていることは思っている以上に多い。
だけど、テストなどのある意味切り取られた場では、それらのサポートがないから違う意味になっているかもしれない。

いや、その時の解釈が正しいのかもしれない。
いつの間にか違う方向に1人歩き。

同じようなことが色々な場面である。
ある競技をサポートするときに「〇〇を知らなきゃだめだよ」と特定の競技についての理解を深めることを求められることがある。
間違いではない、でも、その競技を知っている人たちの言い分が、いつの間にか、なんとなく形成されているものであることも多い。

ラグビーだってポジション沢山ある。
その一部分を共有したからって全てをわかるわけではない。
それをわかった気になっている方が怖い。

端から見ていて、変なものは変である
それがその世界では自然に受け入れられているものだとしても。

先入観にとらわれない、フラットな視点は必要。

そういうものを完全に払拭はできないかもしれないけど、できるだけちゃんと独立して意味が通じる問題を作成しようと改めて思うのです。
講義の事を切り離したら意味がないけどね。

読んでいただきありがとうございます。日々の雑感やスポーツ、運動にまつわる数字を眺めてまとめています。普段はトレーニングサポートや講義を行なっています。