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『ここにはタイトルが入ります』


はしがき


私は、私について語ることを好まない。


理由はシンプルで、私は複雑な人間で、その複雑さを伝えるのが困難だからだ。


といっても、そもそも人はみな複雑な生き物だと、私は思う。

視認できない極小の細胞が60兆個集まって私たちの体が形成されているとか、腸内にはその3倍の180兆個の菌が暮らしているとか、この時点でもうだいぶ複雑だ。


右脳と左脳の連絡網を切断すると、左手と右手で違う動きをしてしまう。右手は靴下を履こうとしても左手は靴下を脱ごうとしてしまう。右手はドアを開けようとするも左手は閉めるのに必死だ。
人間の情報伝達と神経回路の複雑さがよくわかる実際にあった事例だ。


私はなにもここで、人間がいかに生物的に複雑であるかを示したいわけではない。


私が、私について語ることが、困難であることを前置きしたかった。



私はこういう人間だ、と一元的に語れるほど人間は簡単イージーな生きものなのだろうか。



そうして、人が複雑であることを、昨今流行りの「多様性」とか「アイデンティティ」とか、なんだか小難しい単語で解釈にひと手間を加え、それでいて短絡的に解答したがる連中がいるようだ。


そんなふうに、ひと言で片づけられたら苦労はないだろう。生きていくのも簡単そうだ。



さて、前置きはこのあたりで。

私は私の人生について、ここにそのあらましを書いてみようと思う。

自分語りの苦手な人間が、自分について書くとはまったく愚かだが、ちょこっと書いてみたくなったのだから、そこはご愛嬌で済ませたい。


しかし、どうも、こう文章を書いていると、恥ずかしくなってくる。
おそらく、この文章もエッセイのていで書いていくことになるだろう。
しかし、まったくのデタラメを書いて読者諸氏を困らせるかもしれない。そうなっては私の面目もない。でもよく考えてみると、そもそも私に面目もなにもあったものではないので、やはりここでも、みなさんお得意のご愛嬌で見逃してほしい。

愛嬌で生きてください。
人生は愛嬌です。





本当にくだらない前置きが長くなった。

まずは、私の現在の仕事について、少々書いておこう。


私はデザイナーの端くれである。


数年前までデザイン事務所で働いていた。
3年間勤めて辞めた。
労働環境、人間関係、給与形態など、さまざまな要因で辞めた。いわゆるブラック企業というやつだった。


現在は、個人事業主として細々とやっている。会社に勤めていたときと給料はほぼ変わらないが、今の方がやっていて楽しい。


仕事内容といえば、
webページ、チラシ、ポスター、リーフレットなどの制作、企業ロゴの提案、本のページレイアウトから装丁、、、書き出せばキリがないがさまざまな仕事を請負う。


ほとんどの仕事に共通して、「レイアウト作業」が存在する。本や雑誌、ポスターからwebページの制作では、この「レイアウト」が基本となる。売りたい情報や、どこを目立たせたいか、など情報を整理して編集する。

デザインは、要素の配置がとても重要なのだ。

例えば、ポスターをつくる場合、
タイトル、本文、イラスト、写真など、性格の異なるいくつもの要素からポスターは成り立つ。

これらの要素をバランスよくレイアウトすることで、見映えの良さがぐんと上がる。


そこで私たちデザイナーは、それらの要素を適当なバランスになるように、「仮置き」して、依頼者であるお客さんと調整しつつ、合意形成をとっていく。

こうしたポスターでもwebページでも、最初の構成案作成に着手するとき、タイトルがまだ決まってなかったり、説明文や写真、イラストなど、使う予定の素材が揃っていない場合が多い。


そこで、私たちデザイナーは「仮置き」の説明文の箇所にテキトーな文章を繰り返し打ち込む。レイアウト調整のために、なんでもいいから文章を書き込む。つまりはダミー文章だ。

こんな具合に。

「ここにはテキストが入ります。ここにはテキストが入ります。ここにはテキストが入ります。ここにはテキストが入ります。ここにはテキストが入ります。ここにはテキストが入ります。」


タイトルが決まっていない場合も同様、見映えのためにダミーテキストを「仮置き」する。

こんな具合に。

『ここにはタイトルが入ります』







1


私は昔から、目立つこと、注目を集めることが苦手だった。
自分が話題の中心になることから避けてきた。


学校では、クラスのなかでも目立たず、かと言って、あまりひとりで静かにしていると、かえって悪目立ちすることを知っていたので、状況に応じて明るく振る舞いもした。


お道化、というのも過剰な表現で、単に場面によってスタンスを変えていただけのことだった。またこのことが別段、苦であったわけでもなかった。


そうしていれば、波風たてず過ごせた。


そんな私の性格は、小学3年生から始めた野球にも表れる。


当時、野球は今よりも人気の高かったスポーツで、周りの友達も次々と少年野球チームに所属し始めていた。


私は、小学校でも、中学校にあがっても、自分の学年の試合にはレギュラーメンバーとして常に試合に出ていた。


ただ、キャプテンとしてチームを引っ張った経験は一度もない。


野球が上手いことと、チームをまとめる力というのは別件であると、なんとなく理解していた。


その上で、キャプテンという役は自分には適さないとも思っていた。


とにかく私は、チーム内においても目立つタイプではなかった。


野球は好きだったし、試合に出るための努力も怠らなかった。努力なんて自分で言えば世話ないが。


声を出せと言われれば誰よりも声を出した。雑用をやれと言われれば誰よりも率先して雑用した。


試合のメンバーに私は選ばれた。
その試合前に、私はグラウンド整備をおこなった。
試合前なのに、私は誰よりもユニホームが汚れていた。


どんなに地味な練習でさえも手を抜いたことはなかった。
試合で結果を出してチームに貢献することもあるだろうが、練習で手を抜かない自分の姿勢を誰かが見て士気が上がればそれでいいとも思っていた。


そうやって好きでやっているうちはよかった。夢中で何かをすることは案外難しいし、意識的にできることでもない。
だから意識的になれば、それは夢中とは言わない。



年が明けた。
その日は空に灰色が広がっていた。寂寞せきばくたる曇天の空だった。

私は高校1年生だった。この日、私は野球を辞めた。8年間続けてきた野球を辞めた。


この時期、私の周りには、ざらざらとした肌触りの悪い、暗い空気がまとわりついていた。
私にとって最悪な環境だった。とにかく最悪だと思った。私はこの環境に呻吟しんぎんしていた。


主観的にも客観的にも見て、本当に何も悪くないことで、何時間もアスファルトの上で正座させられた。

部活内でイジメのような騒ぎがあった。

先輩は無慈悲なまでに横柄おうへいであった。

私は、苦しんだ。


もうとっくに野球を嫌いになっていた。


ただ、それ以上に部活と部員を嫌厭けんえんした。


そして、私は、そんな自分を赦すことができなかった。


人間の愚かさを感じ、陰鬱いんうつさを背負った、暗澹あんたんたる日々の1年間だった。


私は、逃げた。

大きな挫折を、味わった。



今にして思えば、「挫折」とひと言で片付けられるほど、野球の経験が徒爾とじに終わったわけではない。

15、6歳の多感な時期に、心に負ったあまりに多くの煩瑣はんさな負担の数々を、ひとつひとつ消化することが難しかった。
それほど心身ともに逼迫ひっぱくしていた。


「自意識」を明確に意識し始めたのもこの時期だった。



野球を辞めてからは、背負っていたものも消えてなくなった。体が軽くなった気がした。

付き合う友達も変わった。部員としてではなく、友達としてなら付き合える関係もできた。

居丈高いたけだかだった先輩も、優しく接してくれるようになった。

部の顧問だった厳しい先生も、トイレの立ち小便でたまたま横に並んだとき、「おぉ、お前もがんばれよ」と言ってくれた。


はじめ私は、その人たちのこれらの言動を素直に受けとめることができなかった。



人はある角度から見た像を全体だと認識してしまう。だから、その角度から物事を判断するしかない。人のさがだ。

野球部員を「野球部」という鋭角な範囲からしか見れなかった私は、野球を辞めることによって、人は多面体であることを知った。




私はあるとき、ピカソの絵を見た。泣いている女の顔だった。奇妙な絵だった。私はその絵から嫌な感じを受けたが、どうしても強く印象に残った。

後々、調べたら『泣く女』というタイトルの絵だった。色をふんだんに使い、一枚のキャンバスに様々な角度から見た女性の顔を描いていた。

このような、対象の様々な面を同時に描きあらわす技法を「キュビズム」といい、ある時期、盛んにこの技法が取り入れられたことを私は知った。


ピカソやブラックをはじめとするキュビズムの巨匠たちは、1枚の絵の中に多角的な視点を取り入れてみせた。
美術史における革命的なこの表現方法は、物事の真理を突いているのではないかと、私には感じられた。



2


私は大学へ進んだ。
私立の某大学で文学部の美術史科を専攻した。

小さい頃から小説はよく読んでいて、文学に興味があった。またピカソの絵を見てから美術についても興味を持つようになった。


入学当時、それなりの希望と不安を胸に、ウキウキというよりはワクワクして、学生生活の漠としたイメージを持って春を迎えた。

でも、そんな期待とは裏腹に大学生活はつまらないものだった。


授業は形式上、小学校から高校までのそれと変わることはなかったし、内容についても、その辺の書店に並んでいる本の内容を超えるものはなかった。

私にとって教授はカビの生えた古本の1ページにしか見えなかった。書かれた文章に線を引くことすら気がひけるような、そんな古本の。


大学の周りのほとんどの人たちは、私にとってはつまらない人間ばかりだった。


文学通ぶった評論家風の気取ったひと。


自分が社会不適合であることを曲解して、革命主義へ燃えるように陶酔する前時代的なマルキシストもどき。


芸術の最高地点は音楽だと言って、下手くそなギターをみんなの前で演奏しては、浅薄せんぱくな音楽論を振りかざす。そんな人に限ってクラシックを聴かず、ジャズを滑稽にし、音楽の専門学校に進まず、こんな所で同種を探す始末。いわばそれが彼らのロックンロール。


これまで読んできた本の冊数が数百冊を超えることを矜持きょうじとし、ハウツー本や自己啓発本の引用ばかりする。こういう人たちに限って、引用するまでもないような使い古された駄文ばかりを見事に探しだしては、著者への共感に酔いしれている。

共感を前提に文章を読むのなら、もはや読書なんて必要ないのではないか。


将来は映画監督になりたいと言ってYouTubeに自分だけが出演する動画を投稿するひと。何かを履き違えている。
だが、登録者数は意外と多い。2124人。クリエイターとしてこれからも頑張っていくのだろう。


つまらない人間ばかりだった。


しかし、私も同じようなものだった。

いや、むしろ私こそ最もつまらない人間だった。


私は、結局、なにも成すことのできない、つまらない男だった。


この頃の私は、特定の女性と付き合うことができなかった。
肉体関係なら3、4人いた。彼女たちにはそれぞれに付き合っている男性がいた。つまり彼女たちは私と肉体的な浮気をしていた。


私は彼女たちと、何度も何度も体を重ねた。


私は肉欲の鬼だった。

いや、むしろ、性欲によって支配されたみにくいただの肉塊だった。



彼女たちの、そのうちの1人に、私は恋をしていた。今思えば、恋というほど綺麗なものではなかったかもしれない。ただ私は、彼女に精神的なつながりを求めていた。


彼女は、美希といった。


美希はとても美しかった。

細身のわりに、柔らかさをたたえた肌は思わず手を触れたくなるほどだった。胸のふくらみから腰へかけての曲線は、どんな職人の手がける陶器よりも滑らかだった。ほどよく引き締まった腿は、触れると指が吸い込まれてしまうほどの弾力を備えていた。肩でそろえた髪から放たれる馥郁ふくいくたる香に私は酔った。彼女の大きな目はいつでも濡れていた。唇が瑞々みずみずしく輝いていた。彼女との接吻に、私はおぼれた。


私は、美希に感動していた。


山とその山麓さんろくの湖に囲まれ、丘陵のなだらかな起伏の向こうに太陽が沈む。山間やまあいからのぞく夕陽のマグマがドロドロとあふれ出ていた。湖が赤に染まった。景色が、歓喜と悲哀と畏怖いふに包まれる。
いつの日か見た景色を私は思い出していた。
そうして私は、感動していた。

私は、この感動を美希に重ねた。



美希は私を好きではなかった。美希にとって私はただの玩具だった。



ある日、いつもの通り、私の部屋で私と美希は交わった。

朝、目が覚めた。カーテンの隙間から朝日がさしていた。隣で美希がねむっている。私は昨夜のことを思い出した。とても激しい一夜だった。
毎回、私と美希は狂ったように行為におよぶ。私は快楽の海へと溺れる。朝、目が覚めると浜辺に打ち上げられた魚の気分になる。目の前から海が消え、そこには小さな水たまりだけが残っている。なんという、虚しさ。あぁ、死んでしまいたい。私は、私の肉欲に殺されるかもしれない。そう思った。


美希はまだねむっていた。


机の上に文庫本が置いてあった。坂口安吾の『白痴』だった。終戦直後に書かれた坂口の短編集だ。先日たまたま古本屋で買ったものだった。

私は、その中の一編を読みはじめた。『私は海を抱きしめていたい』という一編だった。



私は震えあがった。
なんだ、この小説は。

私が今まで読んできたどの小説よりも優れていると思った。私が求めていたのはこういう小説なのだとも思った。

そこに書かれていたのは、私と美希のような男女関係だった。


私は、小説を読み終え、本を閉じた。一縷いちるの涙がほほをつたった。
もうこんなことはよそうと思った。
私は何もかも改めたかった。改めようと思った。

美希が目を覚ました。
眠そうな目をこすりながら、おはよう、と言った。
そして、私を見て微笑んだ。

「ねぇ、あなたの夢を、みたの。」






大学卒業間際に付き合った女性がいた。

彼女と、結婚について話をしたことがある。

私は結婚なんて全く考えていなかった。しかし彼女は結婚を夢見ていた。
付き合ってすぐに結婚の話をするのは気が引けた。

彼女は夫婦別姓を絶対条件にしていた。
私は、私の苗字について頓着がなかったので、その意見に反論の余地はなかった。


彼女は、姓とアイデンティティについて哲学していた。

名前はその人の個性よ。そうでしょ?女が男の苗字に縛られるなんて古い考えよね。いまの世の中、もっと多様性を求めるべきよ。わたしがわたしであるために、苗字は変えるべきではないの。

彼女はそんなことを言っていた。



私は苗字に自分の個性を当てはめたことがなかった。いまの苗字になる前、私はふたつの苗字を経験していた。


私には、現在の苗字を含めて3つの苗字があった。


彼女に言わせれば、私は苗字が変わるたびに個性を喪失していたことになる。


いや、苗字が変わろうが、親が変わろうが、私は、私だ。私の個性はもっと別のところにある。


もちろん、彼女は、私に別の苗字が存在していたことなど知らなかった。そういう人が世間には当たり前にいることが、彼女にとっては当たり前ではなかった。ただそれだけのことだ。仕方がない。人の見ている世界なんてはじめから狭隘きょうあいなのだ。私もそうだ。鋭角な範囲でしか世界を捉えられない。



彼女とは、お互い働きだしてすぐに別れた。でも不思議とショックはなかった。やっぱり私は誰かを好きになることができないのかもしれない。心の不具を呪いたくなった。



私の現在の父は、母の再婚相手である。
私が10歳のときに再婚した。


それまで母が女手ひとつで私を育てた。

前の父との離婚の原因は知る由もない。まだ私は幼かった。両親の離婚は私が4つの頃だった。

その後も、母が再婚するまでのあいだ、離婚した父とはちょくちょく会っていた。ゲームセンターに行ったり、公園に行ったりした。

親権は母が持っていたが、たまに父が私に会うことは許されていた。
幼い子どもにとって、いきなり親の片方がいなくなるのはよくないのかもしれない。離婚しても時々子どもに会わせる親は結構いるらしい。


いつからか、あの人の、顔も名前も思い出せなくなった。


私にとって父は現在の父ひとりしかいない。
私をここまで育ててくれた。私自身もそこに全く疑う余地はない。


だから、あの人の顔も名前も思い出せなくて全然よかった。



しかし、本当にたまに、何年かに一度、あの人は今どこで何をしているのだろうと、ふと思うことがある。ただ、そう思うだけだ。詮索するつもりも全くない。






3



私は大学を卒業後、デザイン事務所に就職した。知人のツテだった。
同期はいない。小さな会社だ。従業員20人に満たない。


学生のころ、自分で同人誌をつくったり、自分だけのwebサイトをつくったり、趣味の範囲で創作まがいのことをしていた。だからデザインについても多少の興味があった。


会社に入ると、私の地獄の日々が始まった。
異常な仕事量だった。そのくせ、ひとつひとつの仕事の責任が重い。社内の人間も自分のことで精一杯だった。良好な人間関係などつくれるはずがなかった。

身体的にも精神的にも常に逼迫ひっぱくした状態だった。

給料も安かった。東京都の最低賃金で、残業代は1円も出ない。だから残業時間を計算したことはなかった。



ある時から、食べ物の味がわからなくなった。
何を食べても無味。食べ物が固形物にしか思えなくなった。
それなら最低限の食事で足りた。
体は痩せほそり、顔はこけた。


それでも私は逃げたくなかった。

高校時代、野球を辞めたことが心に引っかかっていたのかもしれない。



会社に勤めて3年目の正月、およそ3年ぶりに実家へ帰った。


両親は私の姿を見て心配そうにしていた。

私はほとんど別人のようだった。
鏡にうつった自分を醜いと思った。
25歳の私の見た目は、とてもその年齢には見えなかった。
目はくぼみ、目の下にはクマが覆っていた。頬はこけ、声に抑揚がなかった。目線がうつろだった。



両親は、私を病院へ連れていった。心療内科の診察を受けた。


うつ病。と診断された。


ストレスによって脳が極度に疲弊している。それによる集中力や記憶力の著しい低下。物事をうまくこなせなくなる。色々なことがうまくできなくなる。
そんなことを医者は私に伝えた。


私は、不眠症もわずらっていた。
全く寝れないというわけではない。毎日4時間ほどの睡眠だった。だんだん短くなっていって、最終的には3時間から2時間ほどまで減った。それが1ヶ月半続いた。

疲労困憊で、ひどく眠いのに、4時間きっかりで起きてしまう。平日だろうが、休日だろうが関係なかった。毎日そのような状態だった。



私は、死にたい、と思った。
死のう、と思った。



生きていくことが、最も苦しいこととなった。最も辛いこととなった。死ぬよりほかに方法がなかった。



私は都内で一人暮らししていた。
ひとりで死のうと思った。


キッチンから包丁を持ってきた。机に左手を置き、包丁の刃先を手首に当てた。包丁を軽く引いた。スッと赤い線が刻まれた。痛みはあったが、興奮していてよくわからなかった。


もう一度、繰り返した。今度は力強くやろうと思った。包丁をもつ右手がガタガタ震えた。どうしてもその震えを抑えられなかった。包丁を引いた。赤い線がもう1本できた。
だめだった。


私は友人に電話をした。
彼はすぐに電話に出た。


死にたい、とだけ伝えた。


彼は私の家まで来た。1人だと危険と判断したのだろう。彼の家に少しの間預かることになった。
そのときの私は、物事の判断能力が著しく低下していた。ひとりでは何もできなかった。



私はとうとう死ぬことができなかった。



その時から私は、幸福という概念を捨てた。不幸にすがった。それだけで私はよかった。不幸を求めればまだ生きていける気がした。




友人の家に2週間ほど居候した。
会社は休職した。うつ病による診断書によって傷病手当も出た。


その友人は、私にとって最も親しい人間だった。
彼の名は、健太という。


小学校からの付き合いで、中学、高校、大学と進んでも、変わらず付き合いがあった。よく一緒に遊んだ。よく一緒に悪さもした。


このとき、久々に健太に会った。実に3年ぶりだった。

私は、彼とこんなに長い時間を過ごすのが久しぶりだった。


「大学生の頃、一緒にイタリア行ったの覚えてるか?  1週間くらい行ったろ。あれぶりだな、こんなに長く一緒にいるのは。」と健太は言った。


イタリアでみたさまざまな景色は、私を常に感動させた。


ミラノのドゥオモは、柔らかな白の無数の尖塔を天に突き刺していた。石の細かな装飾や彫刻が集積して全体を成す、壮麗な建造物であった。
その外観からは想像できないほど、内部の宗教空間は荘厳さに満ちていた。列柱による水平方向への遠近法パースペクティブは、絶対神を思わせる消失点をつくり出し、柱の高さは垂直方向へ巨大な空間をつくり出していた。思わず天を見上げ、祈りたくなるような、そんな気持ちに駆られる。私を含め、信者や、そこを訪れた人々の漏らした息が、豊かな天蓋てんがいをたゆたうようであった。


10月のヴェニスは晴れていた。暑い日差しが私の肌を焼いた。
海は小さな波で満ちて、細かく揺れていた。ぎらぎらとした陽光が揺れる水面に照った。水面の小さな波がそれぞれに光を反射した。光の粒が海に散りばめられていた。私は、富士の山麓で見た夜空にきらめく星々を思い描いた。
私はヴェニスの海に星を見ていた。


ローマのパンテオンは人類史上もっとも偉大な創造物であると私は思った。

私は正面から望んだ。柱とペディメントは完璧な調和で佇んでいた。少なくとも私にはそれが完璧にみえた。アカンサスの葉が彫刻された柱頭が少し欠けていた。見事だと思った。私はこの一瞬のうちに、2000年の歴史が私の体を駆けったように感じた。それはあまりに重く、私は立っているのがやっとだった。まさに震えながら立っていた。

ドーム状の天蓋が、内部空間のふくらみを演出していた。暗かった。暗いが質量のある空間だった。天蓋の中央部には円形に穴がくり抜かれていた。そこから光が差し込み、湾曲した天蓋の一部を照らしていた。
人類の叡智えいちを結した圧倒的な構造物に、ひと筋の自然光が射し込む。この調和は私にある幻想を抱かせた。宇宙という幻想。
もはやここは宇宙であった。


エマヌエーレ2世の記念堂からコロッセオに向かう道中、右手に遺跡が広がる。フォロ・ロマーノという、かつて古代ローマの中心地として栄えていた都市だ。今はその痕跡すらほとんど残さない。柱や建築物の基礎、門などが部分的に残っているだけだ。

空は夕焼けだった。荒廃した遺跡に夕陽が彩った。私は、私の想像力を疑った。目の前の遺跡にかつての繁栄都市を見た。私の目の前で過去がよみがえった。

夕陽はその日の終わりを告げる合図だった。そのような終末感が逆照射して、眼前の遺跡に古代都市を浮かび上がらせたのだろうか。

私が感動したのは、この遺跡か、あるいは私の想像した古代都市か。私にはわからなかった。わからなくてよかった。ただ、そのどちらでもあってほしかった。



「あのとき、ツアーで行ったろ。ガイドさん美人だったよなぁ。」


たしかにガイドさんは年も若く、きれいな人だった。


「おれ、あの人に恋してたよ。」


私は返事に困った。


「イタリアがおれに恋をさせたんだ。お、笑ったな。ははは。いやぁ、でも本当だぜ。おれはあの人に恋してた。」

「でも、たしか既婚者だったよね。」

「うん、そうだったな。おれは人妻に恋してたんだな。」


健太は陽気に笑っていた。私も彼の笑顔を見て穏やかな気分になった。イタリア旅行を思い出していたせいもあったかもしれない。


どんな形であれ、私は健太に助けられた。




健太とよく話し合って、私は会社を辞めることにした。親ともよく話した。みんな私の意見を尊重してくれた。


会社を辞めて、個人で仕事を請負うようになった。会社に勤めていたときの人脈をフル活用して、なんとかやりくりした。


生活に少しの余裕ができた。心にも体にも余裕が生まれはじめた。






それから1年ほどして、私はある女性に恋をした。

彼女は紗江といった。



3月の、うららかな春の陽気が穏やかな日だった。


私が、島根県の松江市へひとり旅に来ていたとき、紗江と出会った。おでん屋で出会った。大橋川という川を眺望できるおでん屋で、紗江は友人と一緒だった。旅先での出会いで私たち3人はすぐに仲良くなった。



紗江は松江市に住んでおり、飲食店で働いていた。歳は私より3つ若かった。


その日は何件か居酒屋をハシゴして別れた。

翌日、紗江が休日だというので、一緒に市内を散策することになった。

松江市なんてわざわざ旅行に来るところなのかと、紗江は疑問に思っていたようだが、私が建築巡りを趣味としていると言うと納得した。

地元の名建築を知りたいと紗江に促され、私たちは松江市名建築巡りをはじめた。


田部美術館、島根県立図書館、県立武道館、県民会館、県庁第三分庁舎、カラコロ工房、島根県立美術館、くにびきメッセ

ざっと、ひと通りまわった。
どれも紗江にとっては思い出の場所だった。ここ名建築だったんだー、たしかにすごい建物だとは思ってたけど。というようなことを言って、建物との思い出を話してくれた。とても楽しそうだった。

私も彼女の話を聞きながら、建築巡りできたことによろこびを感じていた。




夜は、一緒に酒を飲んだ。

その日、私たちはホテルで一夜をすごした。


眠る前、紗江が私に、好きだとささいた、そんな気がした。

私は、返事をせず、そのまま眠った。




翌朝、紗江が起きて、窓を開けた。

「昨日言ったこと、忘れて。」

おそらく紗江は、昨晩のあのひと言について言っているのだろう。

またしても私は返事ができなかった。


「わたし、ほんとは付き合ってる人がいるの。」


窓から風が吹き込んだ。
紗江の髪が遠慮がちに揺れた。


「だから、こんなことしちゃだめなの。」


甘い香りがふわりと香った。梅か桜か。春の匂い。


私はどうすることもできなかった。


私たちはそこで別れた。


私は東京へ帰った。


帰りの新幹線のなか、このことを何かにしたためようと思った。

タイトルは『春の風』としよう。あまり粋な題ではないが、とにかく書いてみよう。そう思った。




4


1年ぶりに実家へ帰った。

私の実家は千葉県の市川市というところで、といっても市の端に位置する。隣の松戸市とほとんど接していた。

私が通っていた小学校はその松戸市にあった。

久々にそのあたりを散歩してみようと思った。


20年も前に通った小学校。本当に久しぶりにここまで来た。懐かしさがこみ上げた。


もう少し奥まで行くと、千葉大学園芸学部の校舎がある。

鬱蒼うっそうと繁った森があたりを覆う。

そこに国道6号がのびている。


夕刻だった。


歩道橋から西の方角を見た。


オレンジ色の空が向こう側で燃えていた。


遠くに見える山々が影絵のようだった。


ひときわ大きな山がそびえていた。

富士山だった。


ここからも見えたのか。


夕陽は富士山の向こうに沈んでいく。


国道6号が富士山に向かってのびていた。

車のヘッドライトが空を照らしているようだった。



私は寂寞せきばくたる思いでこれを眺めた。




風が吹いた。冷たい風だった。

いつまでも風はやまなかった。

森がざわめいた。



私のいる歩道橋にひとりの女性が歩いてきた。カツカツと音を鳴らしながら近づいてくる。そしてそのまま私の前を通りすぎた。


懐かしい香りがした。私は彼女の後ろ姿を目で追った。視線のその先には黒い森が不気味にうごめいていた。



夜のとばりが下りた。


春の風のなかに、私は立っていた。












あとがき


このエッセイを書こうと思った私は、頭の中で描いた「私」というスケッチを、描いたままに頭の外に出したいと思った。


そのスケッチは自画像としての完成度は低いかもしれない。


このエッセイにつづった私の断片的な人生の痕跡は、完成された人間の絵にはなっていない。スケッチの域を出ない。


そして、私という人間もやはり、このエッセイの域を出ない。



私の人生とは、なんであろうか。
私とは、なんであろうか。

やはりよくわからない。

このエッセイにタイトルもつけられない。


私にはタイトルが不在なのだ。しかし不在だからといってそのままにしておくわけにもいかない。

タイトルがただの空欄では本当に空っぽの人間のように思えて、「見映え」をよくするため、代役を立てているのだ。




私たちデザイナーは、バランスの良いレイアウトを考えるため、いつでもダミーテキストと睨めっこしている。



私は、私の人生にまだタイトルをつけられない。





そして、このエッセイを書こうとした私は、ノートパソコンを開き、キーボードをたたく無機質な音をBGMに、いつもの具合で、このエッセイのタイトルを打ち込んだ。




『ここにはタイトルが入ります』と。





おわり。






※この物語はフィクションです。登場する人物は架空であり、実在の人物とは一切関係ありません。

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