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【013】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-13】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回は瞑想の重要性と、三学「戒・定・慧」について。そしてそのうちの第一段階としての「戒」の解説がありました。
今回も「戒」についてと仏教が想定する社会の二重構造についての講義です。


仏教哲学の世界観1-13

https://youtu.be/ec80WpCqM-I?si=H-4KqiGlrPfvmrwj

AIによる要約

  1. 欲求と救い:お釈迦様の世界観と現代の共通点

  2. 自己変革の道:お釈迦様の教えと瞑想の力

  3. 戒とは何か:仏教における修行者と一般の人の視点の違 い

  4. 仏教の二重構造:一般の価値観と修行者への指針

  5. 修行と善行:仏教における海の象徴とその意味

  6. 善行の循環:お釈迦様の一般の人たちへの教え

  7. 仏教の二重構造:哲学と社会の複雑な結びつき

  8. 仏教の二重構造:一般社会と出家社会

学習したこと

願いは叶わないもの

人間は必ず様々な欲求を持って生きている。
これは夢や希望とも言い換えることができる。
順調にその欲求が満たされていればなんの問題もないが、実際には叶わない希望が出てくる。
例えば病気や老い、災難など、どうにもならない問題が発生してしまう。
そのような時、人は何かに救いを求める。
それは神のような超常的な存在に対する祈りやお願いだったりする。
その神と神の力を信じて欲求が満たされるのであればそれで問題ないのだが、お釈迦さまは「そのような神はいない」と確信をもってしまった人物であった。
これは現代の私たちと同じような考え方である。

この考え方は自分の願望や欲求が叶わず、救いを求める時に、求める対象が外部に存在しないということを意味する。

どこに救いを求めれば良いか?

そうなると苦しみ救いを持つ我々は、一体どこに苦しみから逃れる道を求めれば良いのか?という問題に直面する。
その問題に対し、お釈迦さまが得た答えは
自分の力で自分の心の内側を変えるしかない
自分の価値観・世界観を変えることが唯一の道である

というものであった。

その結果、当然ながら、どうすれば自分で自分の心を変えていくことができるのか?という道の探究をすることになった。
世の中を正しく見ること、そして自分の心の在り方を正しく把握することによってはじめて我々は自分の心を正しく変えることができる。

この力を「智慧」と呼ぶ。

この智慧を得るためのスキルが瞑想(精神の集中)である。

以上を踏まえることで仏教における活動の本質が見えてくる。

この瞑想と、その先にある智慧を得るための前段階として「戒」というものが重要になってくる。

ではその「戒」だが
その意味は習慣性である。
特別にいちいち考えなくても正しい行動に移せる習慣づけを戒と呼ぶ。

「戒」にまつわる仏教の二重構造

この「戒」について、仏教は修行僧と一般向けで異なる説明をしている。
前提として修行僧と一般の違いは以下の通り

  1. 一般的な人

    • 世俗のなかで幸せを求めたい人

    • 自分の夢や希望を叶えたい人

    • 世俗的に積極的な人生を送っている人

  2. 修行僧

    • 仏教の教えをよりどころにし、お釈迦さまの教えに縋って自分の心の苦しみから抜け出したい人

人間は生まれた時から物質的な欲求を持つようにできている。したがって最初は誰でも欲求や願望、夢や希望を持って生まれてくる。
これは海のように人間社会全体を覆っている。
ところが、そのなかにあって欲求や願望を持って生きることが難しく、辛い思いをする人が出てくる。

そのような人々を掬い上げるのが仏教である。

海のように社会全体を覆う欲求ベースの価値観の世界に生きる人と、そこから離脱したい、生きていくのが辛い人。
この両者に対してお釈迦さまは生きる指針を示した。

もちろん、お釈迦さまにすがっていないと生きていけない弟子たちを救うのが基本ではあるが、その弟子たちの出自や土台は一般の価値観の世界である。
これは仏教が一般の価値観とは完全に縁を切ることができない事実である。このことから、お釈迦さまは一般の人にとっても役立つ教えを説いた。

その結果、仏教はそのスタンスが二重構造で成立することになった。

それぞれにとっての「戒」

戒は習慣性であり、良い行動を習慣づけることを意味する。
そして良い行動とは裏を返せば悪い行動をしない、という意味でもある。

まず一般の人にとっての「戒」とは何か?
それは単純に道徳的な内容であり、
悪い事をせず、良い行いをし、良い人として暮らすべし、立派な人格者となり、人から敬われる生き方をしなさいといった内容となる。
これは後に「果報」となって(ご褒美として)必ず返ってくるであろう。
という教えとなっている。

では一般的な価値観では生きづらい人、つまり自分の心を変えたい人にとっての「戒」とはなにか。
それは定と慧、つまり瞑想と智慧の獲得を達成するための「戒」である。
つまり一般向けの道徳的で後の果報を目当てとした戒とは異なり、習慣化することで考えたり悩んだりする必要もなく良い行動を行える状態が正しい定(瞑想)を維持する助けとなり、結果として慧の獲得につながるという考え方である。

このように、お釈迦さまは「戒」をお弟子さんたちと一般の人々に対して説いているが、その目的は異なっている。

ここで非常に重要なのが
お釈迦さまは「お釈迦さまの教えで自分を変えたい」と願う人たちと、全ての人にとっての土壌となっている「一般の人たち」の二種類の社会構造を想定していたという点である。

仏教を哲学として認識すべきか?

仏教は現代では宗教というより哲学に近いのでは?と思われることがあるが、実際には単なる思想哲学ではない。
哲学というと、ある一個人の社会や人の捉え方の表明となるのだが、仏教はそれを内包しつつも実際には思想や哲学の範疇を超え、社会システムの構築まで行なっている。
生活の指針となる様々な原理原則の中にはもちろん思想や哲学が含まれているが、それで全てというわけではなく、その思想哲学に基づいて実践する集団が仏教である。
具体的には「一般社会」と「出家社会」の二重構造を想定し、実際に仏教のメンバーが実践し暮らしていく。
この姿こそが仏教のあり様であり、本質である。

つまり、仏教というのは思想的な一面を切り取って表現することはできない。そこにある活動、仏教徒がどのように活動しているかまでも含めなければ仏教を表すことは不可能である。

感想

仏教はどこまで外交的だったのか?

要するに在家信者と出家信者で教えの方向性が違うということなのだろう。
注目すべきは修行僧だけを見ていたわけではない点だと思う。
やろうと思えばもっと自閉的に組織内だけで教えを説くこともできたんじゃないかと思うのだけど、俗世との関わりも想定しているのにはなにか理由があるのだろうか。

カルト宗教とかだととても閉鎖的で一般社会から内面的な部分で隔絶してるし、関わり方も隠したりするか勧誘するときだけというイメージだ。

実際、出家した元嫁の団体もネット上で存在は表明していても外部の社会に積極的に参加している様子はない。イベントの企画もあくまでもスピリチュアルな内容のものだけだ。
匙加減が微妙なところだけどコミットする対象の比重は基本内向きだ。

仏教はどうだったのだろうか。
欲求ベースの世の中にあってその関わり方はいかなるものだったのか。
積極的に社会にPRしたのか、それとも口コミベースの受動的な関わり方だったのか。
そして関わり方の範疇はいかなるものだったのだろうか。
今回の講義では「一般の生活に役立つ話」もしていたようなのだが、これが仏教の哲学に限定した内容だったのか。あるいはライフハック的な問題解決の話…つまり智慧じゃなくて知恵の話だったのか?

今後も教団外との関わり方の解説には注目するようにしたいと思う。
しかし、やっかいなのが「完全な一般人」「在家信者」「修行僧」の三段階の範囲がある点だ。
今回のお話で出ている「一般社会」はどの範疇の事を言っているのだろうか。
これが一般といっても在家信者のことだったらまた話は別になってしまう。

欲求ベースの社会では生きていけない人=出家信者=お坊さん?

もう一つ、
前回・今回も修行僧はお釈迦さまに縋って生きていくしかなく、自分の心を変えたいと思っている人と定義しているけど、現在のお坊さんってそうなの?と思ってしまう。
この定義だと、お坊さん=修行僧は一般の欲求ベースの価値観ではとても生きていけないほど辛く、心に苦しみを抱えている。という事になるのだけど。
まあ人の心の内は見えないものだけど、僕はお坊さんを見かけても、その人が普段からとても生きづらくて苦しんでいる人というふうには見えない。
むしろエンジョイしてる人たちにすら見える事がある。

その辺はどういうふうに解釈すれば良いのかな?


次回は「仏教哲学の世界観 1-14」
「出家」について。
僕個人が最も関心のある部分です。


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