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【009】仏教学習note【仏教哲学の世界観1-9】

こんにちは。
このシリーズでは僕が仏教について学んだことを記しています。
なお、僕は仏教について何にも知りません。

仏教学者で花園大学の教授をなさっている佐々木閑先生のYouTubeでの講座を見て、その内容をまとめています。

もちろん僕の主観によるまとめなので色々と解釈の違いや間違った理解があるかと思います。
それはXなどでご指摘いただけると幸いです。

あくまでも大学生の受講ノートみたいなものだと考えていただけると幸いです。


前回はカースト制度の概論でした。
反バラモンとして沙門集団が同時多発的に出現し、影響力を広げていく中、バラモンもこれに対して反沙門としてカースト制度の理論武装を行いました。
そしてその結果インドにおいてカーストが定着し、仏教をはじめとする多くの沙門集団は消滅あるいは吸収されていきました。
今回は話を戻し仏教の存在意義について。


仏教哲学の世界観1-9

https://youtu.be/RCxp8bGJmiE?si=b78NQp1kET-DXrU0

AIによる要約

  1. 仏教の起源と沙門の登場

  2. 自己努力と幸福追求 - 仏教の特殊な運動

  3. 幸福と努力 - お釈迦様の独特な教え

  4. 幸福の道 - お釈迦様の教え

  5. 欲望と世界の動き - お釈迦様の教え

  6. 欲望と釈迦の教え - 自己の安楽を求める道

  7. 仏教のキーポイント - 現世の安楽を求める生き方

  8. 仏教の本質 - メインストリームから外れた存在としての 意義

学習したこと

仏教の誕生前夜

今から2500年ほど前(紀元前500年ごろ)のインドではバラモン教社会がベースとして存在していた。
バラモン教の基本原理に「梵」が存在していた。
梵(ブラフマン=バラモン)は宇宙に遍満する絶対的な神秘のパワーである。
この梵との関係性によって人間は幸福を追求できると考えられてきた。
これは一般的な宗教における神と人間の関係と同じであり、梵は神と同義である。

しかし、ここに「沙門」(しゃもん=努力する人の意)と呼ばれる人々が出現する。
彼らは梵によるものではなく、自分自身の努力によって安寧や安楽を手に入れようとする。
これは人類の思想史においても非常に特殊な思想運動であった。

お釈迦さまの出現

沙門にも色々な人々がおり、それぞれが異なる考え方を持っていた。
これは沙門自体が全く新しい思想を持つ人々であったから当然で、それを指導できる人は存在しなかった。
自分たちで考え、自分たちで見つける。
それぞれの思いが反映する道の模索が始まった。

つまり、沙門たちの修行目的とは
(梵などの)外部の救済者のいない世界で、どうすれば真の安楽を手に入れることができるか?

ということになる。
このポイントにおいて二つの全く違う方向性がある。
ひとつは、

幸福な状態を実現するために努力する

これは至極真っ当な考え方である。

ところが、これとは真逆の方向性を考えたのがお釈迦さまだった。

お釈迦さまは数多く存在した沙門の一人であった。
当時の影響力は不明だが今日までお釈迦さまの教えが世界中に広まり、残ったことから影響力が強い人であったと想定できる。

ふたつめの方向性

そのお釈迦さまは次のように考えた。

この世のなかで我々が努力すれば幸福になる、という考え自体が錯覚である。なぜならば、世の中は我々が努力すればそれに応じて我々を幸せにしてくれるような形で動いてはいないからである。
では、努力に対して世の中は報いてはくれない、ということに気がついた時、心の安楽を求める人は一体どうすれば良いのか?

世界中のあらゆる人々が夢と希望をもって明るい未来を切り拓こうという意識を持っているなかにおいて、お釈迦さまは
「夢や希望は叶わない。そして、この願いが叶わない世界で安楽を得ようとするのであれば、その欲求を捨てるほか道は無い」
と考えた。

これが二つ目の方向性、

この世で幸福な状態を実現したいという思いを捨てる

である。

幸福追求の放棄

ヨーロッパ世界が初めて仏教と出会った時、非常に驚かれたという。
そして恐ろしい宗教ではないかと思われた。
幸福の追求をせず、なにもしない。
これではニヒリズムではないか。

つまり何の積極性もない宗教だと思われた。

このことから一神教の世界からみると仏教は非常に誤解されやすい宗教であった。

お釈迦さまの真意としては、
実際の世の中の動きはどのようなものか?
という問いから始まっている。
この世の中は人の欲求を満たしてくれる存在であるのか?
努力すればするほど報われて、より快適で利便性があり、欲望が満足できるようになるのか?

もうそうであればそれが実現できるように頑張ればよい。
しかし、現実の世界は私たちの勝手な思惑で自分の欲望に沿った希望を持ち、それを叶えるために努力をしていても、世の中はその欲望を全て打ち砕き、欲望が叶わないようにできている。
それでもなお頑なに自らの希望・夢・欲望のために努力すればするほど最終的に裏切られた時の辛さは大きくなり、益々その人は不幸になっていく。

ではこの世の中がこのような仕組みである、と理解した場合、
自分の心の安楽を求めるための方法は一つしかない。

それは「求めない」ことである。

何も求めない世界が実現したとしたら

このような思想を人間全員が行おうとした場合どうなるだろうか。
人間活動とはどのようなものになるのか?
そうなるともはや人間の存在する価値もわからなくなる。
これまで人類が積み上げてきた様々な夢や努力が無駄であるということになってしまう。

向上すること、今よりも良くしようとすること、これを否定するのであれば人類はなんの進歩もないのではないか。

これはまさにその通りである。
このようなお釈迦さまの考え方と現実の折り合いを一体どのように付けるのか。

仏教の存在意義とは

仏教を理解する重要なキーポイントは

仏教とは
「お釈迦様の教えを全世界に広め、世界中の人がその教えに従い、欲望を捨てた生活を送ること」
を、目的とした宗教ではない。

という点にある。
仏教の目的は「より良いものを求める」というあたりまえに人間が持つ価値観のなかで生きることができない人、そのような生き方からどうしても外れてしまう人、進歩や夢を目標に生きていくことができなくなった人。
さらに言えば絶望を感じている人。

このような行き場を失った人たちを選んで救い上げる受け皿として仏教は出現した。
お釈迦さまはこの部分を想定して仏教を立ち上げている。

すなわち、仏教とは決して全ての人類に対して広めるために存在しているわけではない。
この世の中で生きづらい人、この世の中で明るく楽しく過ごすことができず、どうしても馴染めずひとりぼっちになってしまっているような人を受け入れ、それらの人々が肩を寄せ合いながら生きていける道を提供する。
これが仏教の元々の存在意義である。

仏教は常に世の片隅にあり

世界三大宗教などという呼び方で仏教が数えられてしまうが、これは間違った捉えられ方である。
これではまるで仏教が世界宗教を目指しているかのような理解をされてしまうが、そのようなことはない。
仏教は常に世の片隅にあり、メインストリームからどうしても外れてしまう生き方の人たちを受け入れつつ、いつまでもその人たちを救い続けるというのが仏教の本筋である。

このように、一見すると悲観的で積極性の無い無気力な宗教かと思われてしまうかもしれないが、社会において生きづらい人々を想定した仏教の教えは極めて意義のある存在であることがわかる。

感想

今回の講座で解説されていた内容が仏教の本質であるならば、非常に重要な回だったと思う。

一言で言うと
「幸せになろうとするな」
だ。
かなりの無茶を言っている気がする。
仏教以前の神(ここでは梵)が人間の願いを聞き届けてくれる、という考え方だったものを全否定し、
そもそもその願いは叶わない、というものすごく悲観的な考え方にも見える。
なにもかも諦めてしまえば、そもそも欲しくてたまらない苦しさから逃れられるということだ。

たしかに人間の欲望は無限だし、たとえ巨万の富を持っていても人間は絶対になにかしらに不満を感じる。
例え裕福で生活に困らなくても、位人心を極めても、いつかは老いてしまうし、必ず死ぬ。

だからといって、人間の希望や努力が最初からなにもかも無駄で空虚なものだと規定してしまうと、もはや人間の存在に意味など無くなってしまう。
それじゃあ生まれてしまったらとっとと死ぬしかない事になってしまう。

こういう後ろ向きの思想がいったいどのように民衆に支持されるようになったのだろうか?
今の所、
目からビームが出るとか、空を飛ぶとか、災害を止めるとか
そういう荒唐無稽なオカルト話は出てきていない。

これからどのように仏教が成立していくのか。続きが楽しみになった。


次回は「仏教哲学の世界観 1-10
仏教の目的を達成する修行とはどのようなものだったのか?


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