【041】ブッダの生涯-【17】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)
輪廻の話
前回は初転法輪における「中道」と、それ以外にも存在する二つの中道が解説されました。
一つは「常見と断見を離れる」中道、
それぞれ魂のような主体が死後も続くか続かないかという常見や断見の考え方の中間を取る考え方でした。
もう一つは「言語表現による規定を離れる」中道でした。
こちらは大乗仏教によって発展した考え方ですが、正しく世界を見れない原因として言葉による定義が現実世界との齟齬が発生するとして、言葉による理解に中間の姿勢を取るというものでした。
今回は常見と断見を離れるという話から展開して仏教における「輪廻」の考え方について解説されています。
なお、今回は佐々木先生ご自身の仏教に対する考え方であるということに留意が必要です。
ブッダの生涯17
https://youtu.be/RetAThBmB40?si=mlBlFuRe4bBWcQ7d
AIによる要約
学習した事
前回の解説にあった中道のひとつ「常見と断見を離れる」という考え方について、
そもそも「常見」とは
(仮に魂のような)普遍的な「私」という存在があり、それが死後も続いて次の肉体に宿り輪廻する。
という考え方で、一方の「断見」とは普遍的な「私」という存在がありつつも、それが死ねば消滅する。
という考え方である。
このように「常見」と「断見」は正反対に対立する考え方であり、仏教ではその中間を取るように説かれている。
そうなると、この考え方には「輪廻」をどのように捉えるか?
という重大な問題が含まれていることになる。
輪廻をどのように捉えるか
輪廻という考え方は仏教において極めて重要な概念である。
しかし、
輪廻を信じていない者に、仏陀の教えは意味を持つのか?
このような問題が発生する。
これは、
現代の科学全盛の時代に生きる我々にとっても仏教が意味を持つのか?
という問いと同義である。
実際のところ、現代においても世界には心から輪廻の存在を信じて生きている人々は存在するのだが、
例えば現代日本の一般的な教育を受けてきた人間からすれば輪廻というものはおよそ非科学的であるし、信じられる要素がない。
地中深く地面を掘れば地獄があったり、
はるか上空には宇宙ではなく神がいる等。
そういう話を心から信じられるような時代に我々は生きていない。
仏陀は輪廻を否定していない
よく誤解を招くのが
「仏陀は輪廻を否定した」という言説である。
しかし、2500年前の世界に生きていたお釈迦さまはほぼ間違いなく輪廻を信じていたと思われる。
それが当時の常識であった。
お釈迦さまが否定しているのは輪廻が苦しみであるという意味での否定であって、その存在を否定しているわけではない。
あくまでも繰り返される輪廻という苦しみのループからの脱出を目指したというだけのことである。
仏教における「輪廻」とは
人は死んでも、その魂は永遠に残る───
このような考え方は信仰という形で現在においても多くの人に信じられている世界観である。
ただし、仏教における輪廻というものは単に生まれ変わったり魂が残り続けるというだけの話ではない。
輪廻を信じるというのは「輪廻世界」を信じるということである。
その輪廻世界とは、5つの領域で構成されておりそれらが生死を繰り返しながらそれぞれの領域を巡っていく。
五道輪廻(後に阿修羅が加わり六道輪廻となる)
天 はるか上空にある領域、神が住む世界
人 地上の我々人間が住む世界
畜生 畜生とは動物のこと。人と同じく地上の世界
餓鬼 常に飢えている世界
地獄 地の底にある世界
これらの世界領域を死んでは生まれ変わりながら永遠に各世界を巡っていく。
そしてそれらは全て苦の世界であり、仮に「天」であってもそこには最終的に死という苦しみが存在する。
当時の世界観においては死んでもいずれかの世界に生まれ変わり、結局終わりのない苦しみを味わうことになる。
お釈迦さまはこのような状態を良くないと考え、輪廻からの解脱を目指したということになる。
輪廻を信じていない者に、仏陀の教えは意味を持つのか?
このような「輪廻世界」を現代の我々は心から実在していると信じることはできない。
こうなると仏教の土台である「輪廻世界」を信じられない以上我々にとっての仏教は意味がないのか?
という問いが生まれる。
たしかに現在の我々の価値観から言えば
信じているフリはできたとしても、
心の底からそれを信じることはできない。
20世紀・21世紀に生きる我々が輪廻世界を心から信じて疑わないようにならなければ仏教を信じていることにならない、ということになるのであれば、
おおよそ現代のほとんどの人にとって仏教の存在意義は無くなってしまう。
ところが、仏教徒であっても輪廻を信じる必要はない。
もしも仏教の教えが、
輪廻世界の中で
「こうすれば後で天に生まれ変わって幸せになる」という教義
であったならば輪廻を信じなければならないが、お釈迦さまの教えは
そもそも輪廻する状態が不幸である
としているので、輪廻しないようにする事が最も重要となる。
この、輪廻をしないためにはどうするべきか?
という方法が
自分の心の中から様々な輪廻世界への執着を捨てよ
または
輪廻世界で様々なものを手にいれる欲求や執着を捨てよ
ということである。
それら様々な執着への思いの捨て方を説き残したのがお釈迦さまである。
この世の様々なものに心が惹かれていくが、
実際には諸行無常であり、
私たちが手に入れたいものは絶対に手に入らない。
欲しいものがあっても手に入らない。
この思いと現実の食い違いから生じてくる苦しみ。
これをお釈迦さまの教えが消し去ってくれる。
この考え方は輪廻を信じていてもいなくても関係がない。
肉体が死に、全てが立ち消えていく事自体が、最も安楽であるのだから、
その安楽へ向かう心持ちを実現するためにお釈迦さまの教えにしたがうべきとしている。
私たちだれもが死に対して恐怖するが、その状態から解放された状態でこの一生を送ることを可能にしてくれるのがお釈迦さまの教えである。
おそらくお釈迦さまは当時の輪廻という考え方を土台にして仏教を始めたが、その土台である「輪廻」の概念を取り払ったとしても
仏教で組み上げられた教えは我々を救う。
いかに輪廻という概念を信じきることができない人にとっても、お釈迦さまの教えはたった一度の人生であっても安穏で実り豊かな人生にしてくれるのである。
このことを信じるということが仏教を信じるという本質である。
お釈迦さまを完全に信仰していなくても、信頼するという生き方ができるのが仏教だといえる。
感想
今回は佐々木先生個人の仏教に対する信仰心についての内容だった。
それが故にデリケートだし、まとめるのに苦心した。
輪廻については僕ももちろん1ミリも信じてはいない。
しかし、国によっては心底信じられている考えだったり、
日本の仏教徒に喋らせれば当然輪廻があるもの、として仏教を語る。
これが
輪廻は実際に存在する
輪廻は存在しているという設定になっている
死んでみないとわからない
そんなものはない
このように人によって見解が異なる。
んなアホなと思うから問い詰めたくもなるのだが、これは証明されていない問題であるし、再現性もない。
結局死んでみるしか確認の方法はないのだから、結局「どっちでもいい」という結論になってしまう。
実際のところ、この問題は現在までのらりくらりと棚上げされたままという事だろう。
科学は矛盾を許さないが、宗教は矛盾が認められている。
しかし、信仰という部分においてはそうはならない。
科学は矛盾を許さないが、宗教は矛盾が認められているからだ。
そうなると僕のような科学を信じる人間には思考の整理が必要になってしまう。
ざっくり整理するとこんな感じ。
仏教やクソカルトについて考えた時にいつも感じるモヤモヤはこの辺がはっきりしないところだろう。
科学に依存している生活を送っておきながら、「スピリチュアル」な世界に没頭する。この二枚舌のような生き方に納得しづらいのだ。
今回の解説で佐々木先生は仏教徒を名乗りながらも「輪廻を信じていない」とはっきりとおっしゃっているのはとても誠実な事だと思った。
僕のような非仏教徒に対して科学文明が発達した現代社会においてきちんと説明すること。
有耶無耶にせずにその実情を解説し、それでもなおお釈迦さまに対する信頼を寄せる理由をきちんと解説できるというのはとても重要な事だと思う。
要するに僕は「説法」が嫌いなのだ。
その一方で最近考え方を少し改めた。
整理するとこんな感じで、「それはそれ、これはこれ」というある種のご都合主義な思考を人間は持ててしまうということだろう。
もちろん、この図における原理原則を忠実に守る「ハードな信仰」を持つ人もいるだろう。
アメリカはペンシルバニア州に住むアーミッシュなどはその典型だと思う。
けれども、彼らは別に彼らの生活様式を守っているだけでよその宗教や文化に対してどうこう言うつもりもない。
また、成人するまでに子供はアーミッシュの伝統を守った生活を続けるか、街に出ていわゆる一般的な生活に向かうか決められるそうだ。
便宜上、「ハードな」という言い方をしているが、本人たちはハードもなにも感じてはいないだろう。
アーミッシュはともかくとして、科学に依存しながら信仰も持つ。
そんなご都合主義思考を僕は否定はしないのだが、
それを主張して、
自分たちは尊い事をしているのだから敬え
というのは筋違いなのだ。
そういえば
仏教以前の輪廻世界を信じられていた時代では「死」は恐怖だったのだろうか?
どうせ輪廻するし、ワンチャン天国に生まれるかもと本気で考えていたのであれば死は恐怖にならなかったのではないだろうか?
もちろん地獄とか餓鬼に転生するのは嫌だろうけど、少なくとも天国とか人間、動物に生まれる確率の方が高いわけで、満足な人生を送れなかったなぁと思う人は転生に希望を持って死ねたのではないのかな?
そこんとこどうなの?
次回は「ブッダの生涯18」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
四聖諦の「苦」についての解説です。
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