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献血:「私」だったもの

書きたいことがあるが、その前置きや発展的なことが長くなってしまいそうだったので、いくつかに分けて書こうと思う。

少し前に、初めて献血をした。
献血ができる年齢になってから、かねてより興味があったのだが、ようやく臨むことができた。

自身の血液が赤の他人を流れるというのは、少しゾクゾクするような奇妙さがある。
赤子が胎盤やへその緒を通して母と血液を共有するのとは訳が違う。
縁もゆかりもない者に「私だった」ものが異動するのだ。
面白すぎる。
その意義や理念を抜きにしてのことだが。

ここで一つの疑問が立ち上がってくる。

私の血が誰かの体内を流れるとき、その血は私の一部と言い得るか、ということだ。

採取される血が私に属するのはどこまでだろうか。
血が管に入るまで。針が皮膚を完全に抜けるまで。不気味な赤みで飽和した血液バッグが視界から消えるまで。誰かに輸血されるまで。
あるいは、誰の体内であれその血が存在する限りずっと。

どこまでが「私に属している」と言えるかは人それぞれだろう。ここで正しい認識を求めることはしない。

「私」と認識している領域は個々人の問題となる。個体の別やその境界というのは、絶対的ではないのだ。

ここで一度、輸血に関して「私」という主体を交えずに考えてみたいと思う。
移す血液そのもの、あるいは血液を構成する様々な分子という観点で捉えてみると、輸血されたところでそれ自体の性質やあり方に変化はない。
ただ流れる場所が変わったに過ぎない。

つまり、物質レベルで見ればこの世界のどこかに存在しているというだけで、そこに個体の境界はないのだ。
何も輸血に限った話ではない、究極的にあらゆる物質は無所属だ。

私がお米を食べるとき、お米を構成していたでんぷんは麦芽糖そしてブドウ糖となって、その身体に取り込まれる。
それは様々な形で利用されたのちに、便や尿となって体外に排出される。
私を構成しているように思えたものは、体外からやってきたもので、再び体外へ出ていくのだ。
体外へ出たものは巡り巡って、お米となって誰かの身体に入っていく。

私の四肢は、私ではなかったもので出来ている。
それと同時に、私の姿を示す物質たちは絶えず体外の物質と入れ替わっているのだ。

物質が私の体内にあるからといって、その物質は私に属しているわけではない。

広大無辺な空間の中に自身のテリトリーを規定して、領域内の物質を私のものとして認識している。

確かに、自身の身体はここにあって隣の乗客は別人だし、そこらの木々は株ごとに生えているし、自動車は一台一台道を走っていく。
いかにも個別の境界が存在しているように思える。

しかしそれは、私が領域を設定する際に、境界として視覚的にわかりやすいものがただ私の体であっただけなのだろう。

宇宙空間で漂うガスや塵がところどころで集まって星の形を呈するように、無限の空間の中で物質が集まって私の身体の形を示しているに過ぎない。
その物質の疎と密が私には個体の無と有に見えてしまうのだと思う。

このように、人は空間を切り取って自己の領域とみなし、その内部の物質が自身に所属していると考えてしまう。

その主体はきっと意識だろう。
この「意識」については次の投稿で書きたいと思う。

小難しいことをだらだらと書いてしまった。
でもこれは前置き。(え、?)
私は硬派な唯物論を書きたいわけではない。
今回の内容を背景に、多様なテーマについて考えを示したい。

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