見出し画像

学ぶということ、受け入れるということ


 私は多分、世間一般からして「勉強ができる」人で、客観的な数値もそれを示している。また、学校がひときわ勉学に力を入れていることもあって、生徒の多くは勉強に励んでいる。そんな環境にいるからだろう、コンスタントに勉強をし、模試で結果を出し、大学受験に向かうということは普通であるように思えた。頭のどこかで「違う」とは思いつつも、きっと勉学に対する意識は心に巣くっていた。


 そんな考えを揺るがしたものが2つある。

 一つは1月に観た『星の王子さま』の朗読劇。もともと朗読劇ならず演劇にほとんど関心がなかった私がこれを視聴したのは偶然だった。

 さて、作中で、王子さまは星々を旅する中で様々な人物に出会うが、その一人にひたすら計算をしている男がいる。彼は自分自身を「ちゃんとした人間なんだ」と言い張り、問いかける王子さまをないがしろにする。そんな彼だけが住む星はとても小さかった。

 星の大きさはそこに住む人の世界観の広さを表していると考えられ、数字に取りつかれた男の見る世界はとても狭かったのだ。このシーンはただ勉学を続けていた私をどことなく不安にさせた。


 最も大きな影響を与えたのは同じ学校に通う友人。
 彼女は、音楽で大学に入ると言った。

 刺激的だった。

 前述の通り、勉強一筋の学校であるため、美術や音楽を第一に大学を目指す人に私は出会ったことがなかった。そういったことに真摯に向き合う人も初めてだった。「皆勉強をするものだ」という自分自身を蝕んでいた常識が覆された瞬間、私は勉学の意義を求めた。


 私はもともと、絵がかけたり楽器が弾けたりと何か一芸を持っている人に憧れがある。自分自身で独自の何かを表現するということを望んでいるのかもしれない。というのも、私は「たいていのことは人並みにできる」をモットーにしているので、自分の唯一無二のものがなかなかない。特に学校でやるような勉強は教育として多くの人が修めていくので、誰もが出来得るものであるはずだ。つまり「勉強ができる」ということは何のアイデンティティにも成らないと考えている。重ねて、美術や音楽は行為そのものが創造的で作品は特異なものになるが、学校の勉学は試験という枠組みの中で評価され、創造性がないという側面もある。

 また、美術や音楽は表現を通して人の心に働きかけたり、その人の価値観すら変えたりすることが出来る。自分自身、よく音楽を聴いていて様々な影響を受けている。では、勉学は人を感動させることが出来るだろうか。勉強ができるからといって人の価値観にまで影響を与えるだろうか。せいぜい対抗意識を煽るくらいだろう。


  私は、勉学の意義とは「他人を許容できるようになること」だと考える。

 私たちが学ぼうとするものは先人が築き上げてきた知識や理論で、そこには各分野の先駆者の価値観や、その分野の持つ属性が込められている。そういった知恵はどんな分野にも少なからずあり、分野とそこに所属する人々の礎となっていることは間違いない。したがって、我々は学ぶことで、異なる属性や価値観を持つ人のことを理解し許容することができるようになる。例えば、音楽に関する基礎知識があれば、たとえ卓越した技術を持っていなくとも好きなアーティストの凄さや発言の内容がある程度分かるようになる。あるいは、スペインの方と交流をすることになった時、スペインという地理や歴史的背景、カトリックについて知らなければ、心から通じ合うことはできないかもしれない。

 これは「ある分野に進出する力を養うこと」とも言い換えられるだろう。どんな職業や趣味にも基本となる知識や常識が存在するはずで、それらを学ぶことで初めて界隈に属することが出来るのだと思う。殊に、学校教育ではこちらの意義の方が強そうだ。社会出た時にいずれの分野でも基本業務をこなせるように、生徒は科目としてパッケージされた知識や論理を蓄積させていく。

 もっとも、「勉強ができる」というのは、ただ学校教育を通して知識を蓄積させているだけであって、これらの意義すら充足できていないのかもしれないが。


 さて、これらの意義を見ると、勉学はやはり何かを表現したり生み出したりするような側面を持たないように思える。本当に、勉学をする者にとっての創造性は存在しないのだろうか。私は皆と同じようなことしか表現できず、誰かに影響を与えることが出来ないのだろうか。いや、できるはずだ。そうあってくれ。

 私は、勉学をする者は、自身の価値観や心を磨くことが必要だと考える。前述のように、勉強をすることで私たちは、様々な考え方を理解し受け入れることができる。しかし、ただ受容するだけであっては何の意味もない。それぞれの立場を理解するとともに、自身の価値観と照らし合わせて深く考えることが大切ではないだろうか。そうして育まれた考え方や意見は、きっと自分自身だけのものになるはずだ。その独自の見解を伝えることで、人に影響を及ぼすことが出来るかもしれない。

 美術や音楽、文字を通して自身を表現する人々がいるならば、勉学をする者は彼らの価値観を取り入れて考察し、独自の考えを発展させていくことだってできる。あわよくば、私たちはその考えを他人に示すことで、自身を表現していけたらいい。これこそが、勉学を通して行う創造の形だと考える。


 したがって、勉学とは他人を許容できるようになることであり、学生は学ぶことを通して触れた様々な価値観について、思考しなければならないのだと思う。

 

 最近、noteのおかげか複雑な思考に耐えられるようになり、考えることが増えました。あとはそれを書き留めていく努力が必要かな。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?