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責任を取らなくていい

こんばんは!

ケミオです。


鉄道博物館に行ったのは、ついこの間の日曜日のことでした。


私はオタクというほどでは全くないですが、とにかく電車は好きでして。

今、図書館から借りている本にも、地元の鉄道の100年を写真で振り返っているものがあります。


これがまあ、しこたま面白い。

この本を手に取った入口は、鉄道について、中でも今身近にあるそれについての興味関心からでしたが。

どんどん読み進んでしまう自分を振り返ってみると、自分は歴史もすごく好きなんだと思いました。


と、言いますか。

なんか最近は、世の中なんて面白いこと、興味関心を引く物事に溢れているじゃないかと思い始めています。


無邪気になったと言えば、きっとそうなんでしょう。

あれもこれも面白そうだなとか、思ってしまう。

最近は道端に咲くお花にも、思わず目が行っては、「これは何ぞや?」の私です(今はそれを写真にとれば、スマホアプリが答えてくれます)。


ただ、この無邪気というのは、ややもすれば。

「子どもっぽい」という文脈とセットで語られがちです。

特に私の親は、人の無邪気なさまに対しては、非難というか見下した空気をモロに出します。


しかし、今の私は。

無邪気の何が悪かろうと思います。

というか、大人であったってみんな、相当程度無邪気なんじゃないでしょうか。


つまるところ私の親は、自分の理解がまるで及ばず興味の「き」も出てこない物事について。

見下したような態度を取っては、自分が偉いんだとでも言いたいだけにすぎない。

私が子どもの頃からそんな感じでしたが、今の私からすれば。

「あんたの方が、はるかに子どもっぽいじゃないか」と思うところ。


もちろん、もう親にそんなことを言うつもりもなければ、非難するつもりもありません。

勝手にしていればいい。

その生き方で満足に死ねるなら、そうしていればいいでしょう。

たぶん無理だとは思いますが、でも本人がそのようにしているのだから仕方がない。

私がその責任を取らなければいけないわけでは、ありません。


今、さらっと書いてしまいましたが。

この「責任を取らなくていい」ということ。

アダルトチルドレンの私にとって、この考えはかなり大事だと、最近強く思いました。


子どもの頃の私は、親が偉いんだと言いたければ。

それについて「うんうん」と、言ってあげなければなりませんでした。


でも、そんなことは思っていなかった私でした。


だから「うんうん」とは言いませんでしたが、そのことにより。

「責任を果たせないダメな自分」というレッテルを、自分に張り付けた。


責任というのは、「親を理解してあげる責任」です。

今なら堂々と言えますが、そんな責任を果たすのは土台無理な話で。

なぜなら子どもの頃から今もずっと、この親が偉いんだとはまるで思っていないからです。


今回のお話は愚痴に聞こえたら、申し訳ありません。

ですが私自身は極めて冷静に書いた感じでした。


読んで頂いてありがとうございます!

今日もお疲れさまでした!

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