村上春樹が私の気持ちを代弁していた
こんにちは!
ケミオです。
村上春樹が、今の私が日々思っていることをそっくりそのまま、書いていました。
主人公の、訳の分からないまま離婚に至ったことに対する述懐の部分です。
私の場合は、育った家庭や親を思う時。
自分の気持ちや意見を受け入れてくれないという「ひどく理不尽な、酷く痛切な仕打ち」を受けましたが、かといってもう、怒ったところでどうにもならないこともわかっています。
さらに、「求めが受け入れられないときに生じる激しい痛み」。
これから逃れるために、心を自動的に麻痺させたのも、この引用と全く同じでした。
私ごときが村上春樹に「さすが」と言うのもおこがましいですが、「精神のモルヒネのようなもの」とは実に、言いえて妙だと思います。
一方で、村上春樹はどのようにして、この表現を書き得たのだろうと思いました。
自身で体験したのか人から聞いたのか、想像なのか。
しかしそれがなんにせよ、村上春樹の著作はもはや世界レベルで読まれています。
引用はその中のほんのほんの一部に過ぎないものの、ほとんどそのままと言っていい私の気持ちも、機能不全家族とは縁がなかった人たちに、伝え得るものなのかもしれません。
noteに書いておきながら、「アダルトチルドレンに縁のない人にはたぶんわからないだろう」なんて考えていた私でしたが、決してそんなことはないのかもしれません。
そもそも、「理解されないだろう」的考えが、モロにアダルトチルドレン的思考の気もしました。
ひたすら理解を求めたり、何かを期待するのも違うと思いますが、私が考えている以上に、人は人のことを理解しようとしてくれる。
そんな風に考えていいのかな?と思いました。
今日は読書感想文的になってしまいましたが、しかし私は子どもの頃、これが嫌いでした。
本を読むことが面倒だったし、またその感想を評価されるのが嫌だったんです。
というより、今思い出しましたが、学校でも他人でも、とにかく評価をされるのが嫌でした。
それが親に伝わると、ダメ出ししかされなかったからです。
それでも正解不正解がハッキリしているテストは、正解にたどり着く割合を増やせば評価を上げられますが、感想なんてどこを見て何を評価しているのかがわからない。
「何を思おうと俺の勝手だろう」と思うしかなかった、少年時代でした。
今日もお疲れさまでした!
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