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村上春樹が私の気持ちを代弁していた

こんにちは!

ケミオです。


村上春樹が、今の私が日々思っていることをそっくりそのまま、書いていました。

私が今こうして受けているのはひどく理不尽な、酷く痛切な仕打ちであるように私には思えた。そこには怒りはない(と思う)。だいたい私は何に対して腹を立てればいいのだ?私が感じているのは基本的には麻痺の感覚だった。誰かを強く求めているのに、その求めが受け入れられないときに生じる激しい痛みを和らげるべく、心が自動的に起動させる麻痺の感覚だ。つまり精神のモルヒネのようなものだ。

村上春樹著.騎士団長殺し.第1部 顕れるイデア編(下),新潮文庫,2019,p.285.


主人公の、訳の分からないまま離婚に至ったことに対する述懐の部分です。

私の場合は、育った家庭や親を思う時。

自分の気持ちや意見を受け入れてくれないという「ひどく理不尽な、酷く痛切な仕打ち」を受けましたが、かといってもう、怒ったところでどうにもならないこともわかっています。


さらに、「求めが受け入れられないときに生じる激しい痛み」。

これから逃れるために、心を自動的に麻痺させたのも、この引用と全く同じでした。

私ごときが村上春樹に「さすが」と言うのもおこがましいですが、「精神のモルヒネのようなもの」とは実に、言いえて妙だと思います。


一方で、村上春樹はどのようにして、この表現を書き得たのだろうと思いました。

自身で体験したのか人から聞いたのか、想像なのか。

しかしそれがなんにせよ、村上春樹の著作はもはや世界レベルで読まれています。

引用はその中のほんのほんの一部に過ぎないものの、ほとんどそのままと言っていい私の気持ちも、機能不全家族とは縁がなかった人たちに、伝え得るものなのかもしれません。


noteに書いておきながら、「アダルトチルドレンに縁のない人にはたぶんわからないだろう」なんて考えていた私でしたが、決してそんなことはないのかもしれません。

そもそも、「理解されないだろう」的考えが、モロにアダルトチルドレン的思考の気もしました。

ひたすら理解を求めたり、何かを期待するのも違うと思いますが、私が考えている以上に、人は人のことを理解しようとしてくれる。

そんな風に考えていいのかな?と思いました。


今日は読書感想文的になってしまいましたが、しかし私は子どもの頃、これが嫌いでした。

本を読むことが面倒だったし、またその感想を評価されるのが嫌だったんです。


というより、今思い出しましたが、学校でも他人でも、とにかく評価をされるのが嫌でした。

それが親に伝わると、ダメ出ししかされなかったからです。

それでも正解不正解がハッキリしているテストは、正解にたどり着く割合を増やせば評価を上げられますが、感想なんてどこを見て何を評価しているのかがわからない。

「何を思おうと俺の勝手だろう」と思うしかなかった、少年時代でした。


今日もお疲れさまでした!

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