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「楽しむ」ための取り組みも…

こんにちは!

ケミオです。


何週間か前からのことですが、図書館で本を借りています。


自分のためにそんなことをするのは、何年ぶりだろうというくらい久しぶりのこと。

買うには高くついてしまう写真や絵付きの大型本または単行本を借りては、面白くて、どんどん読み進めてしまいます。


また、その延長線上、のつもりではないものの。

今度は、レンタルビデオ屋に足を運んでみました。


お店近くに寄ったからというのと、今年はテレビでなくビデオで年を越そうかなどと、ちょっと考えたからです。


それが今日で、ビデオを借りはしませんでしたが。

店内を物色してみると、面白そうなビデオはごまんとあります。

昔見たなぁという懐かしいビデオにも、つい目が行ってしまったり。


年末年始は、やはりビデオにしようと思いました。

(なお、「ビデオ」とずっと書いていますが、物体としてはもちろんDVDになります)


ですが今は、そんな少し先のことは、少し先のことで良いとして。

物色中、目の前に並んでいるレンタルビデオを見て、自分が心から楽しいと思えるかどうか。


この問いに、はっきり「イエス!」と答えられそうだと、自分で思えたことが。

なんだかちょっぴり、嬉しくなってしまいました。

(もちろん、逆にがっかりしてしまうことだって、無きにしも非ずですが)


冒頭の図書館を含め、ここ2ヵ月ほどは、馴染みであったり新しきであったり。

とにかく色んな物事を見聞きして、体験して、自らの感性を呼び起こそうとしていた私。


そうした取り組みも、もう終わりに近づいていると思います。

今日はレンタルビデオを実際に持ちかえらなかったものの、それがあればリアルに「楽しめるだろう」ということを。

自らの感性で、ちゃんと言えそうだからです。


逆に言えば、私は明らかに。

「楽しむ」ということを、知りませんでした。


慣れてもいませんでした。

その証拠に、今、「楽しみ疲れ」みたいなものを感じています。

思えばここ2ヵ月、週末はずっとあちらこちらに足を運んでいました。


かつてと違い、心の中では「自分は何を楽しんだっていい」と思っています。

ですが楽しんだり楽しもうとしていることの処理に、脳がまだ追いついていないといいますか。


追いついていないというのは、その追いついていない分。

まだ余計なものに、脳の処理能力が振り向けられているからに思います。


その余計なものとは。

子どもの頃から残る、最後の最後の突っかかっている部分に違いありません。


これが、私の持つ力の発揮を阻むものであり。

たいそう気持ち悪い存在です。


読んで頂いてありがとうございます!

今日もお疲れさまでした!

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