「貢献、規律、学習、尊重、感謝」について考え続け、実践し続けることが、人生最大の修行

子いわく、「人の生くるや直し、あざむくものの生くるは、幸いにして免る。」(論語、雍也第六)
(人が生きていくには、人としてのよい本性が曲げられないまっすぐさが大切だ。このまっすぐさをなくして生きているとするなら、それはたまたま助かっているだけだ。)
 
私のことで恐縮なのですが、私は自分の行動規範として数年前から、「貢献、規律、学習、尊重、感謝」を大事にしています。
 
「貢献」は他者、つまり家族やお客様、また一緒に働く仲間達への貢献で、これを一番大事にしています。
その貢献を実現する為には、「規律」と「学習」が必要だと考えています。規律は、ルールを守ったり、他者との約束を守ったりすることで、信用・信頼に繋がります。また、学習は、様々なインプットや思考力を身につけることで、よい貢献につなげることができます。
 
ただ、貢献、規律、学習という3つは自分の視点が強すぎると感じ、他者とのよい関係を結ぶための「尊重」と「感謝」を掲げています。尊重は、他者のよい点、わるい点を理解した上で、そのありのままの状態を尊重することです。また、感謝は、他者が自分に対して貢献して頂けることについて、感謝を行うことです。家族や仕事でご一緒する方々から頂くことについて「ありがとうございます」というのはもちろんのこと、お店の店員さんにもご対応頂くことについては極力「ありがとうございます」と小まめにお礼を申し上げるように心がけています。
 
この「貢献、規律、学習、尊重、感謝」を心の中で常にとなえ、実践するように努力しています。
しかし、時々この言葉が心の中でつなえられていない時があることに気づくことがあります。そして、そういう時はえてして、自分の私利私欲や邪念が頭の中を閉めているものでです。
 
私は、こういう状態こそ、この一節の「あざむくものの」というような状態ではないかと思うのです。そして、この一節が言うように、この状態でも生きていられるとうのは、たまたま助かっているだけなのかもしれません。
 
時々、この行動規範をずっと続けるにはどのようにすればよいのか、と考えることがあります。
しかし、考えれば考えるほど、具体的な解決策などなく、とにかく努力してこの行動規範を追求し続けるしかないのではないかと思うのです。そうすれば、この一節の「人の生くるや直し」のような状態になるのではないでしょうか。
 
禅宗における臨済宗は与えられた公案(質問)について考えつづけることが修行なのだと理解しますが、私の中ではこの「貢献、規律、学習、尊重、感謝」を考え、実行し続けることが、人生における最大の修行なのかと考えています。

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