私たちは異性を買っている
私たちは異性を、恋する対象を、
まるでデパードで服を選ぶように、
まるでコンビニでお弁当を選ぶように、
選んでいるのだということ。
そしてそのことはなんら意識をされず、
あたかも真の愛のように、
私たちに思われているということ。
やや過激な発言ですけども、
わかる気がしませんか?
女の子と話してて必ず話題に上がる
「どんな人がタイプ〜?」
という話題
(え〜?私はぁ〜…とか言って、それはもうノリノリで話すわけなんだけども)
その言葉が私たちの恋愛を表しているなぁ
と思うのです。
エーリッヒフロムは著書「愛するということ」で以下のように述べてたりします。
私たちの生きている社会は、購買欲と、互いに好都合な交換という考えの上に成り立っている。現代人の楽しみとは、…買えるだけのものはなんでも買うことである。誰もがそれと同じ目で人間を見ている。男にとっての魅力的な女性、あるいは女にとっての魅力的な男性は、自分が探している「掘り出し物」なのだ。
うーん…たしかに…
時代によって、求められる男性像、女性像は大きく変わってきてる。
例えば、
1920年代においては、お酒を飲んだりタバコを吸う、元気でセクシーな女性が魅力的だとされたらしい。
記憶に新しいように、
もっと家庭的でおしとやかなタイプの方が求められる時代も。
そして今は、
自立心を持ち社会に出るけど、かつ、家庭的な女性が求められてたり。
これって出会い系サイトとかほんと顕著らしく
対象絞れる機能に
年収〇〇万以上〜〇〇万以下
とか
学歴、出身、退勤時刻
とか…になってるんだと
ああなるほど今の人間市場では大切な要素なんだなぁと思います。
でも私、決してこれを否定したいわけではないんです。
例えば女性の中には
「お金持ちで、高学歴で、大手企業に勤めてる人がいい!」って子がいるじゃない。
その子に対して、さも自分はわかってるかのように、
「私は優しくって、仕事に理解のある旦那がいいなぁ」とか言う。
(私はまさにその一人だったんだけども)
男性も男性で、
学歴とか金銭とかで選ぶ女はダメだよなぁ
とか批判する。
でもこれ、発想が現代の女性像らしいか、
もしくは単に、どんな未来を想定してるか、の違いだけであって、
そこに優劣はないと思います。
これって人間市場において、
今、何が重んじられてるか、だけの違いであって、
発想が古いか、新しいかだけの問題ではないか。
あたかも、
「私は相手の本質を見ることができる女です、
表層的なものではないんですよ」
の口ぶりで「優しい男」が好きだと言っていたけど、
全然違わない。
「タイプ」がある時点で
私も異性を条件つまりその人の持つ性質で見ていて、
「買っている」に過ぎない。
そう思うと現代の「恋に落ちる」は
ものすごく打算的で、
決して運命的ではない。
じゃあどうやったら運命的なんでしょう。
どうやったら真の愛といえるんでしょう。
フロムは愛を運命であるという前提には立たず、
愛は技術であり、体験であるといいます。
愛は本質的には、意思に基づいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。…誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。そこは決意であり、決断であり、約束である。
ただ一方でこの理論だと
「じゃあ誰でもいいのか!」
となってしまうので、
…我々は皆「一者」でだか、それにもかかわらず、一人一人はかけがえのない唯一無比の存在である。…私たちは一人一人異なっているから、異性愛は、一部の人にしか見られないような、特殊な、極めて個人的な要素を必要とする。したがって、異性愛とはひとえに個人と個人が引き付け合うことであり、特定の人間同士の独特のものであるという見解も正しいし、異性愛は意思の行為に他ならないという見解も正しい。いや、もっと正確に言えば、どちらも正しくない。
いや、どっちやねん!!!
って感じなんだけども。
つまり、愛は技術であり、意思の行為。
一方で人と人との関係である以上
そこには対象の問題もはらむ…って感じですね。
とにかく、お伝えしたかったのは、
現代社会に生き、
公平な交換の原理に生きる我々は、
恋愛をもその原理で捉えるようになってるかもしれない。
ということでした。
ぼちぼち、私が思う愛の本質についても書いていきたいのですが、
今回はこの辺で。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました!
参考文献:エーリッヒフロム著、鈴木晶訳『愛するということ』紀伊国屋書店、2017