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「東京」の「なあなあな共存」文化が、「全部敵のせいにする」過激なイデオロギー対立と米中対立の時代の新しい未来の基礎となる歴史的必然の理由がある。

(Photo by Timo Volz on Unsplash)

ちょっと記事アップに間があいてしまいましたが、一個前の「アメリカ黒人差別解消運動の結果が警察予算の削減でいいのか?BLM運動に対し私たち日本人はどう向き合えばいいのか?」という記事が結構読まれたんで流入が続いている間は冷静に状況を見極めたいところがあったんですよね。

なんか「先週最も読まれた記事のひとつ」っていうこんな通知も来ていた。

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インターネットって、時に予想以上に凄い広がりに届くことがあるわけですけど、単にバズの数字だけを追いかけるとどんどん自分を見失っていきそうで、その「広がり方」が自分にとって許容できるものかどうか・・・っていうのは、真剣に見積もって進んでいかなくちゃいけないよな、と私は思っていて。

というのは、これからの日本は「ある意味でどんどん閉じる」べきだし、同時に「どんどん開かれる」部分もある・・・その「両方」をやりきらなくちゃ、と思っていて。

前回の記事は、「閉じたい」派(保守派)の人にかなり多く読まれて、そういうムーブメントの一翼となったこと自体は良いことだと思うんだけど、同時に「間違った閉じ方」をしてしまう可能性もあるわけですよね。

たとえば「コロナ後」の時代が始まるにあたって、もうありとあらゆるリモートワークとかの可能性を捨て去ったような「どノーマル」の日常に戻ってしまう性質も日本にはあるわけだけど、そういうのにはちゃんと抗って、日本社会をもっと「前に」進ませていきたいとは思っている。

でも、そういう風に「変化」をさせようとするエネルギーが、結局自分たちのコアの価値を維持するための紐帯を引きちぎってしまって、アメリカ型の果てしない格差社会になってしまってはいけない・・・という切実な問題もある。

だから、徹底的に「閉じる」べきところを閉じることができるようになればなるほど、私たち日本社会は「開くべきところを開く」ことができるようになる・・・

そういう「両立」をいかに選び取って実現していけるか?が、今の私たち日本人が直面している最大の課題なわけです。

なんか、こういう「どちらがわにも合理性が」とか言う議論は決してシェアされない・・・全部「敵側」の「あいつら」のせいだ!と吠える言説しか共有できない時代なんだ・・・ってシニカルに言う人がいるけれども。

でも長期的には自分は楽観していて、というのは、「全部敵側におっかぶせるような奴ら」とは違って、「自分たち」は「ちゃんと対話できる」国にするんだ!・・・・っていう、「これはこれで”俺たちvsあいつら話法”にできる構図」があって、そしてそれを「日本という国」の場合は、歴史的に難しい立場に置かれてきた流れがあることで、ちゃんと「ナショナル」な感情とうまく結びつけて構造化することが唯一可能な国といっていいはずだからね。

「戦争に負けたからって全部俺たちのせいにしやがって!」という怨念と表裏一体に共鳴させることで、「全部世界の裏側の敵におっかぶせて自分だけ身ぎれいになる論理」の暴走に対する懐疑主義の旗をちゃんと掲げる培地になれる可能性を私たち日本人はちゃんと持っている。

だから、「すべて敵側におっかぶせるような言論を否定する」ということは、普通だと「どこにも立脚点がなくなって」しまいがちだけど、日本の場合は、歴史問題とかでアレコレ言われてきた鬱憤みたいなものもそのまま動員して、「これからの時代はそういう旗印で行くべきなんだ」という「ほんとうの合理性」を、「ナショナルな感情エネルギー」と関わらせて実体化していくことができるはずで。(そこさえちゃんと大上段に認められるようになれば、いろいろな戦争被害者の問題をもっと適切に処理できるようにもなるでしょう)

前回のように「ちゃんとナショナルな感情と共鳴」させるようにすれば数の広がりは取れる感じがあるから、むしろ「数を追う」よりも「良くない閉じ方にならない見極め」をしながら、一歩ずつ広げていくことが大事なのだ・・・という風に僕は考えています。

要するに「そっちがわ」に明確に一歩踏み出せば感情的共感を得られる目算はあるからこそ、世界情勢とか経済状況とかを見ながら、「適切なタイミング」でそことの共鳴関係を作っていく必要があるというか。

そして、そういう「良くない閉じ方ではない閉じ方」を日本発に立ち上げていくためには、「東京という街」の可能性ってのがやっぱり大きいんだなあ、って最近考えているんですよね。

ちょっと紹介するタイミングを失っていたんですが、ファインダーズの連載とは別の、もっと短いウェブ連載(エッセイみたいなの)が始まりまして。

で、初回記事がこちらなんですが。

リモートワーク時代到来で東京の価値は下がらず、むしろ上がるワケ

普段書いてる記事に比べるとめっちゃ短くてエッセイ的なもの・・・の中でどうやって意味のある記事を作ろうかまだ慣れてなくて、ヤフーに掲載された方のコメント欄には「不動産屋さんに言われて書いた記事じゃないか」「俺の物件売れなくて困ってるんだけど」みたいな事を言っている人がいて(笑)

まあ、編集部さんがつけたタイトルが一方向的なのもあるんですが、内容を読んでもらうと書いてあるように、「今までの東京が持っていた価値」は他でもできるようになるわけだから、価値が下がる部分は当然あります。

「都心部に集まらないとできなかったこと」の独占性は明らかにかなり減るわけですから、郊外や地方に住んで働くスタイルを含めた多様性がもたらされるのは素晴らしいことだし、そもそも都心部に高いオフィスを借りることの合理性はあるのか?その近くだということしか価値がない狭い住宅の高い価格は正当化され得るのか?がゼロベースに見直される時代にはなるでしょう。

ただ、そういうのとは別に、広い意味での「これからの時代」という視点を持った時に、東京という街の可能性が、今後重要な意味を持ってくるんじゃないか?という予感があるという話ではあるんですよね。

「これからの時代」と言った時に、リモートワークが普及するって話だけじゃなくて、前回記事でも書いたようなアメリカの人種差別問題とか、米中対立の本格化とか・・・そういう世界がどんどん「敵と味方」に分断されていってしまう時代に、ある種東京スタイルというか、「なあなあな共存」のあり方がビジョンとして必要になってくる可能性があって、そこに、「東京に住んでない人も含めた東京」の文化の可能性があるんじゃないかと思うんですよね。

東京には、新宿も渋谷も池袋も秋葉原も中野も・・・とかあって、靖国神社に集う人がいれば、逆に(逆にってことでもないかもしれないが)新大久保に集う人の文化があったりする。

東京というか日本人の文化は、「ある範囲を超えて相手の領分を犯そうとするものには徹底して拒否する」姿勢を持っていますが、一方で他人にメーワクかけないんだったら何をしてもよく、内面で何を考えていようと、そもそも抽象度の高い「倫理」のようなものの普遍性をまるきり信じていないところがある。

それは、日本において、地方の「逃げ場のない小さなコミュニティ」が前提だと多少息苦しい部分もあるわけですけど、東京という「場」が作用することによって、「棲み分け」に発展するというか、それぞれの「場」に対するカルチャーに参加する意思があるのなら、あとは色んな属性なり何なりであまり差別はない場所・・・だと思います。

たとえば「こいつは見かけ上黒人だけど(中国人だけど・韓国人だけど・性的少数者だけど)、中身はめっちゃ日本人だから大丈夫!」的な理解のされ方ってよくある。

同じアニメを楽しんでいる仲間なんだから全然OKみたいな。

最近、日本アニメは「白人」ぽい外見ばかりなのが良くないという海外ポリコレ的な指摘に対して、「そうじゃなくて何人にでも見えるように描いているのだ」という日本側の反論を見ました。

結果として、欧米諸国では「エスニシティごとに見るカルチャーが違う」ことになりがちだが、日本アニメは「どのキャラにも普通に自己投影できる」ことで、「普段は出会わないエスニシティの同好の士が見つかる」場になっているとか。

要するに、「その場のカルチャーに属する・主体的に参加する」気があるんなら、全然問題ないよ・・・という態度がもたらす、「”観念的な差別ゼロ”を建前とする社会とは違う可能性」があるわけですね。

結果として、たとえばゴスロリファッションとか、ギャルファッションとか、そういう「個性的」なファッションは案外欧米でやるとかなり同調圧力的に排除される空気があるとよく言われますが、日本だと「ああ見えて真面目に働く子だよ」的な部分があれば全然OK・・・みたいなところがある。

ある意味で、「属性で差別をする要素は比較的少ないが、ちゃんとその”場”に馴染もうと努力をしているかいないかで、別に何人だろうとなんだろうと差別する」みたいな感じ・・・という風に言えるかもしれない。

「こういうあり方」は、アメリカ的な意味での「差別反対」的な文化からすると差別そのものなわけですが、ただ、そういう「ありとあらゆる”郷に入りては郷に従え」的な要素を徹底的にゼロにする・・・という理想自体が、そもそも実現可能なのか?という視点は、今後の時代には深くそもそも論として考えられるべきことだと思います。

アメリカ的なカルチャーから出てくるものはそういう部分で「徹底して差別ゼロ」を目指す方向性を持っているわけですが、それは結局単に「アメリカが北米原住民をほとんど抹殺してしまった更地の上にできた文化」であることと表裏一体なわけですよね。

「更地の上にたてた」ことにはネイティブアメリカンの巨大な犠牲があるわけですが、その上で出来上がっているのが「ありとあらゆる差別を否定する」志向・・・になるわけですけど。

まあ、たまに極論言ってみることで真実の一断面がわかるってこともあると思うので、人類社会の一部にそういう志向を持った集団があることの意義・・・というのは非常にあると思いますが、「それ」を全世界に普遍化しようとすると、そもそもちゃんとローカルの安定を現地現物に配慮して考えるみたいなことを一切しない非常に傲慢なムーブメントになってしまうわけですよね。

で、一方で日本は「更地」の上にたてた国じゃないわけですよね。

アメリカが占領して作った現行憲法でも、「天皇」はちゃんと規定されている。ネイティブアメリカンの場合のように「抹殺」されて更地の上に概念だけでできあがった文化ではない。

「天皇」が規定されているということは、高天原からエンエンと続いてきているある種の文化の連続性について、国の規定の中にちゃんと含まれているということです。

だから、「更地」に「抽象的概念としての”個”とか”自由”とか”権利”」とかだけで出来上がっている国ではない。

こういうあり方の「なあなあ」さを嫌って、徹底的に純粋化した概念的なムーブメントでこの「輪」を引き裂いてしまおうと考える人達はたくさんいます。

欧米から吹き荒れている概念的に先鋭化した差別反対ムーブメントとかと呼応して、日本における「時を経て繋がってきたナマの一貫性」を引きちぎろうとする人たちはたくさんいる。

個人的に自分は相当にリベラルな人間だから、そういう人が願っている一個一個の改善点には共感することも多いのですが、じゃあその「日本社会の歴史的紐帯」を引きちぎってしまうようなことをした先に生まれる「アメリカ型の格差社会」がもたらす不幸を考えると、「本当の弱者」のためにはそういう「観念の純粋化によるナマの社会への断罪」には、いかなる手段を使ってでも抵抗するだけの価値があると、私は考えています。それはこないだ「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」に書いた通りですね。

これから日本が掲げていくべき理想とは、

・「具体的に困っている人がいる」時に、そういう不幸が生まれないように、良いやり方を考えたいですね

・・・はいいが、

・「抽象化した概念に合わない生身の存在を果てしなく断罪するムーブメント」は徹底して拒否する。その点においては「ゼロ・トレランス」レベルで拒否する

・・・というものであるべきだと私は考えています。

抽象概念としての「平等」を参考程度には参照しつつ、それを「困ってる人がでないようにしないといけないですよね」という現地現物の課題に読み替える作業が、これから日本では大事になってくるはず。

「抽象概念で生身の存在をぶん殴る」あり方に対する懐疑主義は、日本文明の美質なので、これからもどんどん徹底的に磨き続けていきたい。

自己目的化したイデオロギーによる攻撃性が日本社会の紐帯の根っこを掘り崩さないようにうまく相対化し中和し無効化するメカニズムが強固になっていけばいくほど、「こういう風に困っている人がいるんです」という具体的な課題に対する「それはいけないね。なんとかしましょう」的なアクションを、現地現物に起こしていける可能性も高まるでしょう。

そういう「ジャパンウェイ」的なあり方がある程度根付いてくれば最終的には、「現地現物の問題解決でなくイデオロギー的先鋭化にしか興味がなくなる」欧米社会の悪癖に対して、「参考情報」として良い影響を与える可能性も出てくるでしょう。

それが、前回記事でも引用した、昔「日本がアメリカに勝つ方法」という本で使ったこの図の意味・・・ということになります。

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最近、スパイク・リー監督(アメリカの黒人差別撤廃運動の中で重要な役割を果たしている監督)の新作映画をネットフリックスでみました。

この話はまた別の記事で書こうと思いますが、今回スパイク・リーが「ベトナム戦争」という「アジアと関わる」話を選んだことには非常に大きな意味があったと思います。

端的に言うと、「黒VS白」だけの話で捉える視点は、非常に「欧米文明中心主義」的なあり方を内包しているんですよね。

基本的に「征服してヒドイことをした欧米」vs「征服されてヒドイことをされた側の黒人たち」しか見えていない。

欧米人は歴史的にアジアに近づけば近づくほどある程度経験値がたまって老獪になってきたのと、アジアの側に独自文明としてのまとまりがちゃんとあって抵抗力があったこともあって、「欧米vsアフリカ」の関係性は、「欧米vsアジア」の関係性とはかなり違います。

で、この時の問題は、欧米においては「おまえは欧米側に立つのか、アフリカ側に立つのか」みたいな二者択一の世界観になりやすく、ここで一度「抑圧された側に立つ」という選択をしてしまうと、「為政者側の都合」などというものをちょっとでも勘案すること自体が「悪」みたいになってしまいがちなわけです。

「お前は権力者の肩を持つのか!」みたいな糾弾がはじまる。人種差別反対運動の一環であればどんな略奪が行われようと警官が殺されようと、それに疑問を唱えること自体が「政治的に正しくない」ことにまでなってしまう。

でもそういう世界観は、「アジア」という要素が入ってくると途端にバグるんですよね。

その社会内部で比較的「抑圧された」立場にある人達を理不尽から守る必要は当然ある。一方で、そのローカルな共同体の安定性を崩壊させずにちゃんと生活を成り立たせるための紐帯を崩壊させないようにする必要がある。

その「両方」が大事ですよね・・・というのは、欧米文明の「外側」にあるアジア的立場からすれば当たり前すぎるほど当たり前のことであって、「どっちかを明確に選ばず声をあげないこと自体が抑圧に同意したことになるんだ!」みたいな態度自体が持っている無責任さに対する反発も当然強いことになる。

欧米人は、自分たちの文明の自明性に対して盤石なコンセンサスがある(と少なくとも現時点では思えている)ので、野放図にバンバン「反権力」だけを突出させていっても「その国を成り立たせる安定性」は崩壊しないという楽観を持てている。

しかし、こういう態度自体が明らかに「持てる者の特権」でしかなくて、歴史的に果てしなく欧米由来のムーブメントにローカルな共同体の一貫性を崩壊させられる危機にひんしてきた非欧米国から見たら、そういう態度自体に潜む傲慢さがヒシヒシとわかるわけですよね。

果てしなく欧米的に純粋化した懐疑主義が共同体の自明性を掘り崩し続けるので、かなり無理矢理な独裁とかでしか社会を維持できなくなっている第三世界の国はたくさんある。

歴史的に言って、たとえばフランス革命とかでもなんでもそうなんですが、「当然のようにポジティブな面もマイナスな面もありますよね」っていう当たり前の話が、21世紀には大事なんですよね。

自由平等博愛・・・的な理想は素晴らしいしこれからもみんなで大事にしていきたいですね・・・という話とは別に、それに伴って起きたギロチン祭りとか、果てしなく近隣諸国に攻め込みまくる攻撃性とか、そういうのはマジで勘弁してくださいよ・・・というこの「両方」を見ないといけないですよね・・・というのは、非欧米的な立場から見ると当たり前すぎるほど当たり前なことじゃないですか。

でも、こういうのって「悪い部分」ばかり攻撃して「自由平等博愛」的な理想も消えてしまうと、それはそれで問題なわけですよね。

だから、「攻撃性を中和しつつ、理想は理想としてどうやって現地現物に実現していけばいいでしょうね」という視点で物事を一歩ずつ解決していく必要がある。

こう書くと、この話は「当たり前」すぎるほど「当たり前」なことのように見えますが、しかしなかなか「政治的過激ムーブメント」との相性は良くなくて、いつもヒソヒソ声で共有されるだけになりがちです。

全部「敵」側のせいにして自分を「完全な善人」の立場に置いて好きなだけ糾弾して騒ぐ方が簡単だからね。

しかし、歴史的に日本という国が置かれていた立場と、今まで「歴史認識問題」とかで侮辱を受け続けてきた鬱屈が、まさにこの「正義の両面性」と表裏一体なんですよね。

だからこそ、「自分たちの正当な名誉の回復を望む感情」と、こういう「本当の合理性」を共鳴させて、新しい旗印にまとめ上げていくことが、私たち日本人には可能なはずです。

たとえば中国や韓国は、この「人類社会の両面性」から逃げても、とりあえず「日本」を敵にしてぶっ叩いていれば自分たちの安全圏は守られていたので、なかなかこういう「本当の領域」には踏み込まずに来ましたけど。

最近、中国は欧米側から見て「世界秩序の敵」みたいになってきてますし、韓国は北朝鮮という大問題を抱えている。

単にあらゆることを欧米文明の視点から断罪するだけでは済まない問題を、アジア各国は国内に抱えながら、色々とやりくりをしながら、アフリカ諸国で見られるようなそれぞれの国の紐帯の崩壊・・みたいなことは避けて自分たちの国の一貫性をなんとか維持してこれている現実がある。

まあ、まだとりあえず日本のせいにしておけばいい・・・という安易な立場の方が彼らの中では優位が続くでしょうが、「歴史の両面性に配慮した本当の正義の旗」を「日本におけるナショナルな感情」と共鳴させることで盤石の旗印にまで仕立て上げることができたら、そこに「アジア的共鳴」を起こし、そこからアジア系米人などを通じて世界秩序に新しいビジョンを提示していくことも可能になっていくでしょう。

そういうムーブメントの起点として、「東京という街」が持っているなあなあな共存性が、ありとあらゆるイデオロギーの暴走を中和し、そして現地現物での新しい解決を生み出す流れに繋がっていけばいいですね。

「日本に差別などない」という風に言い張る人が言いたいことは、「なんの問題もない」ということではなくて、「アメリカの黒人差別と同じ問題は存在しない」ということなはずです。

性的少数者の問題でもそうなんですが、「あちこちで銅像を引き倒さないと解決できない」というような発想は日本では拒否されがちです。しかしそこで徹底してイデオロギーに懐疑的だからこそできることだってある。

「それぞれの居場所」を作れさえすればいいんだな・・・という「なあなあ」な解決の中に、「敵に全部おっかぶせる」論理とは違う解決策を見出していける流れを、「東京」なら生み出せるはずだと私は考えています。


コントロール不能なレベルで急激に広がってしまうと「間違った閉じ方」になりそうなんで、結構読まれた記事が出たあとは冷静に各種の検証をやって、そしてまた一歩ずつ動き出す・・・みたいな感じになっていきそうですが、米中対立と人種差別問題が果てしなく「敵」に全部おっかぶせて騒ぐ無責任さを露呈させていく中で、私たち日本人が歴史的に追い込まれてきた「難しい立場」がもたらしてくれる可能性・・・を、追求していきたいと思っています。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、昨今の「安定期に入ったコロナ騒動」の日本国内における扱い方とか、そこで色んな過激な意見たちについて自分たちはどう扱っていけばいいのか?についての考察を書いています。

今回の世界的なコロナ騒動で露見したことは、海外メディアだって「政治的立場」ゆえのバイアスは物凄くあるもので、そこを起点に騒ぐ「出羽守バイアス」にいちいち振り回されて自分たちのコアの価値をグダグダにされるのは徹底的に拒否していかねばならない・・・ってことです。

そして、「ちゃんと自分たちのコアな価値を普遍的な理屈」で運用していけば、徐々にでも「最先端の知的コミュニティ」的な部分での評価は変えていけるということも、今回のコロナ禍で理解できたことだと思います。

そういうことを、経済面でも、政治的な課題でも、自分たちなりにやっていくにはどういう合意形成をしていけばいいのか?について、もう少し突っ込んで考えていく内容を、以下では書きます。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

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